42.祭典一ヶ月前 前編 シガレット
微風に誘われるように、楓は顔を上げた。
視線の先では、木の芽が色づいている。僅かに見える華やかな黄色は、花びらだろうか。
「春近し、か」
思わずぽつりと呟いた。
犬の獣人のコボルトが「何か言ったかワン?」と尋ねてくる。
犬だけに耳がいいのだろう。楓はそれに微笑で応えた。
「ううん、冬が終わるなあってだけだよ。あ、ほら、マドレーヌとフィナンシェあるけど、どっちがいいかな?」
手に持ったバスケットを開き、コボルトに見せる。
鼻をふんふんさせてから、コボルトはフィナンシェを指差した。
「マドレーヌは西門のオークが好きだから、持っていってあげるといいワン」と言いながら、ぺこりと礼をする。
"礼儀正しいなあ"
楓もお返しに礼をしながら、その場を離れた。
立ち並ぶ家の合間から、魔王城が微かに見える。アランシエルは今ごろ、アシェット・デセールの特訓に励んでいるだろう。大いなる菓子の祭典まであと一ヶ月を切った今、魔王はその準備に余念がない。
「あたしも頑張らなきゃね」
楓がぎゅっと右拳を固める。
それを応援するかのように、左右から可愛らしい声があがった。
「その調子ですわー。フレッ、フレッ、カエデさーん」
「カエデさんならいける。ルー・ロウは信じていますからね!」
「ありがとう、シーティアちゃん、ルー・ロウ君。あたし、絶対やるからね」
楓の口調には力があった。
メイド服のサキュバスの少女は表情を緩め、執事服のインキュバスの少年はグッと右の親指を立てる。
二人の顔を見ていると、何故か胸につまるものがある。
「あたしが皆に返せるものって、それしかないもん」
ちょっと無理でも笑うことにした。笑顔でなければ、美味しい菓子は作れない。
この残り一ヶ月、皆といつも通りに過ごそう。きちんと菓子を作って、皆に届けて、そして祭典に挑もう。
"この二人にもお世話になったからなあ"
心の奥で沸く感情は、暖かでちょっと切ない。
春の到来を告げる風は、楓の黒髪だけでなく心まで揺らした。
† † †
休憩はまだか、と切実に思う。
腕が重い。指が痛い。腰が軋む。
いつもなら、ここまではやらない。
「バターのかき混ぜ具合が甘いぞ。もっとしっかり!」
「はいっ!」
横からアランシエルが叱責してくる。
すぐに返事をして、楓はボウルの中をにらみつける。
底の方でバターがクリーム状になって――いない。
自分では十分と思っていたけれど、なめらかさが足りなかった。
"注意力落ちてる"
十分混ぜたと思っていたけれど、疲労が影響している。
無意識に手が止まり、チェックが甘くなっていた。
「もうちょっとやらなきゃ」
「きついと思うが頑張れ。自分の店を持ったなら、誰もフォローはしてくれないぞ」
楓に対して、アランシエルは甘くなかった。あえてそういう態度をとっていることは、楓にも伝わっている。
一ヶ月後に迫った大いなる菓子の祭典へ向けての特訓も兼ねて、ここ最近の仕事量は多い。
「よし、バターがきちんとクリーム状になったな。次は?」
「粉糖をふるって混ぜる」
答えた時には、既に楓はそれを行っていた。白い粉糖がふわりとバターにかかり、それを丁寧に混ぜていく。
楓が今作っている菓子は、シガレットという菓子だ。
名前の通り葉巻に似た形のこの菓子は、空気を含ませた生地にはしない。
だから粉糖もバターの中にすりいれていく。泡立て器でこするように、という感覚だ。
"次、卵白を三回に分けて混ぜて"
これも混ぜるであり、泡立ててはいけない。空気を混ぜると失敗する。注意しながらしっかり混ぜると、卵白とバターが一体化していくのが分かった。
「菓子作りにはセンス以上に体力も必要だ。それは地道な練習を重ねるしかない」
「はい」
「頑張れよ、カエデ」
アランシエルの言葉は短く、簡潔だった。
それでもありがたい。腕に力が戻る。次、牛乳を混ぜる番だ。
白い液体をとぷとぷと少量入れて、これを混ぜた。腕は重くない。さっきより軽い。
混ざったと判断し、さらに牛乳を追加。しっかりとこれを混ぜて、なめらかさを保つ。
"ベースはこれでよし。あとは薄力粉を加えて、生地の出来上がり"
ふぅと軽く息をついてから、楓はさらに腕を動かした。
ここからは生地を天板に絞り、オーブンで焼き上げる。焼き上がってから一手間必要だけれど、張り詰めた神経をほんの少し休ませることは出来るだろう。
焼き上がったばかりのシガレットは、単なる薄い丸いクッキーのように見えた。これを天板からはがしてから、楓はそれを棒に巻きつける。
くるりと薄手の生地が巻かれ、そこから棒を抜き取る。これをひたすら繰り返す。最後の生地を整えて、楓は歓声をあげた。
「終わった、終わりましたっ。シガレット五十本完成です」
「よし、よくやった。どれ、見せてみろ」
「どうぞっ」
薄皿に盛られたシガレットを差し出すと、アランシエルはそれを一つつまんだ。「見た目は悪くないな」と呟きながら、そのまま口に放り込む。
「うむ。この薄く口溶けの良い歯触り。バターと牛乳のミルキーな甘さもくどくなく、合格点だ......と言いたいところだが」
魔王の語尾が濁った。
びくっと楓は身を震わせる。
「な、何か失敗しちゃった?」
「む、そうだな。この端の辺りのシガレット、生地の真ん中に白さが残っていないだろう。シガレットの理想の焼き方は知っているな。周りは茶色にこんがりと、中心には白さを残してだ。それが一番配色として美しい」
アランシエルは五十本あるシガレットの内、一本を取り上げた。
指摘した通り、このシガレットだけは全体的に茶色い。オーブンの火加減が僅かに強かったのだろう。
「あっ、ちょっと甘かったかな」
「まあ、強いて言うならばだがな。五十本も焼けば、一本くらいこんなのもある。だが祭典の第三試合では、こういった誤差をつぶしておかなくてはならん」
「そうよね。二十一人の審判役全員に、同じお菓子を出さなくちゃいけないものね。ごめんなさい」
「謝るほどじゃなかろうよ。余でもありうるミスだ。さ、このシガレットでお茶にでもするか」
ポン、とアランシエルは楓の肩を叩いた。
† † †
シャクッ、パリッという軽い音が響く。
舌の上の軽妙な甘さを楽しみながら、グーリットはもう一本シガレットを取った。
細長い独特の形をした焼き菓子だ。棒でくるりと巻かれたからか、穴が開いている。
「これ、美味いよな。歯触り軽くて、俺すごい好きだわ」
そのグーリットの対面では、楓とエーゼルナッハが同じようにシガレットをつまんでいた。
盲目のダークエルフもまた「お茶うけにはぴったりですな」と微笑を浮かべている。
楓もそれにならう。
確かに良い出来だと思う。バターをきちんとなめらかに混ぜたからか、焼き上げたあとの生地は軽い。だが、ほんのちょっとだけ満足していなかった。
「これがね、焼き上がり過ぎたんだよね」
「む? 私には見えませんが」
「あ、ごめんね、エーゼ翁。このシガレットだけ、中心部分まで火が通っちゃってね。少し色が悪いのよ」
楓はバツの悪そうな顔になる。仕方ないとは思うけれど、一応失敗は失敗だ。
その表情を見て、グーリットが「なんでえ、しけた顔すんなよ」と声をかけた。
「失敗ってほどでもねーだろ。それに本番前にミスったと思えば、怖くねーよ。だろ、嬢ちゃん?」
「そうかな、うん。そう思うようにする」
楓はうなずく。エーゼルナッハもそれに続いた。
「同感ですな。それに時間通りにきちんとシガレットを作り終え、ちゃんと美味しいのです。出来たことをまずは誇りましょう。反省はその後でよいのでは?」
「うん、ありがとう。よーし、次はやらかさないからね!」
気持ちを切り替え、楓は失敗したシガレットをつまんだ。
口にいれると、それは淡い甘さと香ばしさを残して消えた。




