4.本当にパティシエだった
腕を見せてやると言い放った後、アランシエルの行動は素早かった。「ついてこい、カエデ」と言うや、颯爽と部屋を出る。相変わらず状況説明もないままだ。
不親切にも程があると楓は思ったが、逆らいはしなかった。グーリットとエーゼルナッハの脇を通り、アランシエルの後に続く。
「こんな真似されて頭にきてるのは分かるけどよ。取り敢えず、アランの菓子食べてみろよ。嬢ちゃんも菓子作りしてんなら、絶対気に入るって」
「そう思いたいけど、こっちの世界でちゃんとお菓子作れるの?」
「ふふ、そう思うのも無理はないがの。百聞は一見に如かず、まずは己の目で確かめるといい。私達は茶の用意でもしておくのでな」
釈然とはしない。だが、自分を見送る二人の口調には、からかうような響きは無かった。
ベージュのダッフルコートを着たままであることに気がつき、歩きながら脱ぐ。幸いなことに、この建物の中は寒くはない。
前を歩くアランシエルに追い付きながら、周囲を見る。白黒の石を素材とした廊下が、まっすぐに続いていた。確かに、二十一世紀の建物ではなさそうだ。
「この場所何て言うのか、教えてくれますか」
「――ああ、世界のことではなく、この場所自体か。そうさな、端的にいえば城だ。魔王城と言えば、この場所のことだ。正式名称は長すぎるので、皆覚えておらん。歴代魔王の名前を連ねた名称が、この魔王城の正式名称だからな」
「魔王城ね。やっぱり異世界なんだ」
薄々そうではないかと思っていたが、今の返事でダメ押しされた。途端に不安になってくる。自分に危害を加える気はないようだが、右も左も分からない状況に変わりはない。
廊下に備え付けられたランタンがボウと光を投げかけ、楓の周囲を浮かび上がらせている。視界がその明度に慣れない。
アランシエルの横に並ぶ。
自分より頭二つ高い相手を見上げた。
外国の映画俳優を思わせる、彫りの深い顔立ちをしている。しかし、髪から突き出した二本の角、それに赤い目は、彼が人間ではない証拠だ。
「そんな泣きそうな顔をするな、カエデ」
思いの外、優しい声が降ってきた。
見れば、アランシエルがこちらに視線を投げかけている。T字型の廊下を右に曲がりながら、彼はぽんと楓の肩を叩いた。
「信じられないのも無理はない。余を恐がるのも分かる。だがな、余がパティシエとして真剣に学んだことは事実だ。それを試した上で、考えてもらいたい。期間限定で、余のアシスタントとして働いてほしい。無論、その期間の衣食住と給与は保証しよう」
「無理強いはしないってことなのね......あ、でも職場に迷惑がかかるな」
「それも案ずることはない。細かい説明は省くが、こちらの世界とあちらの世界を転移する際には時空魔法という魔法を使う。その際に、時の流れを操作することも可能なのだ。準備に時間はかかるが、仮にナノ・バースで一年過ごしても、地球では一日しか経過していない程度には操作出来る」
「そんなことも出来るの?」
「うむ。時間のズレをゼロには出来ない為、全く同じ時間に返すことは出来ないがな。カエデを向こうに返す時には、そのズレを可能な限り短縮して返そう」
楓はしばし沈黙する。あっさり信じるのもどうかと思うが、アランシエルの表情は真面目であった。それに先ほどの彼の指摘も、心に残っているのも事実。
クリスマスイブにさえ、身を粉にして働かねばならない。
自分の店を持ちたいという夢が、疲労に霞みそうになる。
忙しさのあまり、菓子作りが好きだという原点さえも時に消えかけていた。
だから、アランシエルに気だるそうな顔だと言われたのだろう。そう言われた瞬間、否定できない自分がいたのだろう。
「分かりました。まずは、パティシエとしてのあなたの腕を見せてもらっていいですか。その上で決めたいのよ」
「結構。おお、そろそろ着くぞ。余の愛する菓子作りの為のキッチンにな」
カッと靴を鳴らし、アランシエルは足を止めた。目の前には、両開きの頑丈そうな扉がある。何かの金属で出来ているが、かなり厚みも重さもありそうだ。
「ずいぶん厳重なのね。ここがキッチン?」
「うむ、厳重なのも当然だ。余の武器となるスイーツ製作の為の工房なのだからな。ところでカエデ、服のサイズを教えろ」
「は!? ち、ちょっと何よ、いきなり!?」
アランシエルの問いに、楓は面食らった。女の子の服のサイズということは、ほぼ3サイズと同義である。
変態か、この男は。紳士ぶってきたが、所詮は魔王なのか。
けれども、アランシエルは平然としている。
「余の傍で見るのであろう。コックコートを出してやるから、サイズを教えろと聞いたのだ。多分女性用のMサイズだろうが、女子によっては着痩せしている者もいるからな」
「えっ、Mでいいです。体型普通なんで」
相手に悪気も変な気も全く無いのは分かる。だが、会ったばかりの異性に体型のことを話すというのは、楓の羞恥心を煽るには十分だった。顔が赤くなることを自覚する。
「分かった、今出してやる。ここに更衣室があるから、着替えてきたまえ。余も向こうで着替えてくる」
アランシエルの右手の人差し指が、宙をさ迷う。
ぽんと空中に出現した白い服は、間違いない。コックコートだ。サブリエと呼ばれるエプロンも、黒いボトムスもちゃんとセットになっている。靴は自前のスニーカーでいいらしい。
「あ、ありがとう。使わせてもらうわ」
「構わん。助手の制服を用意するくらい、朝飯前だ。他に必要な物があれば、後で聞こう」
それだけ告げると、アランシエルはすっと姿を消した。恐らく魔法か何か使ったのだろう。
彼が言った通り、キッチンへの扉とは別に小さな扉がある。更衣室はこちららしい。
「意外といい人?」
楓は首をかしげ、丁寧に折り畳まれたコックコート一式を眺めた。
† † †
† † †
「ほんとに美味しかった」
フロマージュ・キュイの最後の一口を食べ終えてから、楓は素直に感想を口にした。
お世辞でも追従でもない。
これまでチーズケーキと呼ばれるケーキは何回も食べてきたが、その中でも絶品と言える風味だった。
「うむ。余も会心の出来であったからな。正直に告白すると、安心したよ」
「安心?」
「ああ。自分の菓子作りの腕に自信はあるが、カエデに気に入ってもらえるかどうかはまた別だからな。せっかく連れてきた助手に逃げられてはと思うと、気が気ではなかった」
アランシエルは小さく息を吐く。神経を張っていたのか、充実感の中にも疲労が見てとれた。
魔王のくせに、と楓は心の中で小さく呟く。
「お世辞抜きにして、美味しかったです。あなたが何者なのか、あたしは知らない。けどこれだけは分かる。パティシエとして真剣に研鑽していなければ、このフロマージュ・キュイは作れない。だからあたしは」
一度言葉を切る。認めるようで癪ではあるが、その中に一筋の爽快感がある。これは冒険だと思うと、ワクワクしてきたのだ。
「先ほどの繰り返しになるけど、あなたに助手として仕えることを約束する。よろしくお願いします。えーと、何て呼べばいいのかな」
「アランでいい。簡潔で呼びやすかろう」
「じゃ、お言葉に甘えてアランで。けど、びっくりしたわ。魔王城に地球と同じ水準のキッチンがあるなんて。どうやって揃えたの?」
皿を片付けながら、楓は改めて視線を巡らせる。
ぴかぴかに磨かれた床も、大型の業務用の赤いオーブンも、ハンドミキサーや泡立て器、ボウルなどの用具も、楓が知っている菓子作りの為の設備や道具と変わりはない。
異世界でこれだけの物を揃える、それは想像するだけでも大変そうだった。
「大変であった。余は地球の時間で六年かけて修行したのだが、その間に少しずつ揃えたのだ。魔王の菓子工房に相応しい装備には何が必要か、それを知るだけでも中々に大変であったよ。ましてや購入した後に、魔王城まで転移せねばならなかったしな」
「うわ、それはまた」
「幸いなことに、グーリットとエーゼルナッハも時空魔法は使えるからな。彼等に連絡した上で、全部持っていかせた。キッチンの図面は、余が自分で引いたよ。電気が必要な為、そこが苦労したな。魔力量を電力に転換する数式まで考えて、しかもそれを実際に設備に施したのだ。一大工事であった」
思い出したくもないらしく、アランシエルは顔をしかめる。
ふと気になり、楓は「魔法でどうにか出来なかったりしないの?」と聞いてみた。
「ならん。もっと大雑把な現象であれば、創造魔法でどうにかなる。だが菓子作りは繊細な作業だ。粉や砂糖の配合、温度管理、時間管理などの全てが細かい作業になる。一番いい方法は、地球のやり方をそっくりそのまま移行することだった」
「へー、魔法も万能じゃないんだね」
「ああ、だがな、カエデ。それ故、余が磨いたパティシエとしての技術は価値があるのだ。簡単に真似出来るものではないのだからな」
黄金の髪を揺らしつつ、アランシエルは薄く目を細めた。そこには確かにパティシエとしての誇りがあった。
「さて戻るか。グーリットとエーゼルナッハが茶の用意をしておろう。カエデに話していないことがまだあるからな」
「よろしく頼むわ、分からないことだらけだし」
緩みかけた気を引き締め直し、楓は椅子から腰を上げた。甘いクリームチーズの残り香が、まだ舌の上で踊っている。