35.ロゼッタ・カーマインの嘆き
ロゼッタ・カーマインにとって、その日は楽しい一日になるはずだった。彼女が大好きな特別なスイーツを、思う存分味わえる。そのはずだったのだ。
謎の仮面の菓子職人――彼女は正体を知っているが――が作る菓子は、ロゼッタをしばらくの間だけ天国へ連れていってくれる。
けれども、幸運の女神は彼女に微笑まなかったようだ。
目的地に着く直前、彼女はぴたりと動きを止めた。そう、まるで凍りついたように。
「な、何故お前達がここにいるんだ?」
「それはねえ、あなたがここだって教えてくれたからよ」
ヘスポリスの街の一角で、ロゼッタは立ちすくむ。
彼女が入ろうとしていたのは、とある一軒屋だった。木をベースとして煉瓦を重ねたこの家は、今のところ彼女の大のお気に入りである。
そこに約束の時間どおりに着いたまでは良かった。
「カエデ・サトザキッ! 貴様、はるばるこのヘスポリスまで私を笑いに来たのかっ! おのれっ!」
ロゼッタの怒りが沸騰する。
冷静さを欠いているが、猪突猛進しないだけましだ。
カエデだけならまだしも、その両横にはグーリットとシーティアもいるのだから。
「幸運の女神に感謝ってやつだな、いや、あんた自身が幸運の女神か? 昨日偶然見つけなかったら、俺たちは今日もきっと迷子の子猫ちゃんだったぜ」
グーリットのうっすらとした笑みに、ロゼッタは目を見開いた。
「昨日だと」と呟きながら、自分の行動を思い出す。
この魔族どもにつけられていたなら、必ずどこかで気がつくはずだ。
だが、そんな気配は無かった。
「種明かしするとよ、落水硝子の塔見渡せる喫茶店あんだろ。あそこで見かけて、俺の探知魔法で追いかけたって寸法だ」
「ほら、あなたの肩に着いているでしょ。それがグーリットの髪の毛ですわ。探知魔法の触媒に使われたということくらい、騎士でも分かりますでしょう?」
グーリットとシーティアの説明に、ロゼッタは慌てて右肩を払った。
細い灰色の髪がはらりと落ちる。
探知魔法、触媒という単語からロゼッタは何があったか理解した。
「そういう......ことかっ。迂闊だった」とうなだれるが、全ては後の祭りだ。楓はそんなロゼッタに容赦なく詰めた。
「つまり、あたし達はここに誰がいるかも知っているってこと。いるんですよね、仮面の菓子職人さんが」
「......ああ。そうか、狙いは私ではなくあの人か。だが、正体は明かさせんぞ」
「そこまでは望まないから。どんな人か、会えるだけでいいんだ。もう一人の仮面の人もそうだったし」
楓の視線に屈したのか、ロゼッタは天を仰いだ。仕方ないとはいえ、この家を見つけられたのは自分の失敗だ。
「私の至福の一日が逃げていくっ。ああ、申し訳ない! すみません!」と嘆きながら、赤髪の女騎士は渋々と扉を開けた。
† † †
"ここまでは予定通り"
家に踏み込みながら、楓は軽く息を吐く。
ここでは暴力行為は禁止されている。
けれど、敵を案内役にして見知らぬ家を訪れているのだ。緊張しない訳がない。
「さぁて、ちゃんと案内するんですのよ。変な罠にかけようなんて考えないように」
「分かっているさ。そもそもそんな罠を仕掛ける余裕もない」
まとわりつくシーティアに、ロゼッタが答える。
彼女の言う通り、さして広い家ではない。玄関を開けたら、正面の居間らしき部屋へと続く短い廊下があるだけだ。
さっさとその廊下を抜け、部屋に入る。
視界が広がった。
楓の感覚では、凡そ十二畳ほどの広さの部屋だ。絨毯が敷かれ、部屋の隅には木製の揺り椅子が置いてある。
きちんと整頓された部屋の様子から、持ち主の性格が伝わってくるかのようだ。けれど、誰もここにはいない。
「確かにここにいるのよね?」
そう聞いた時だった。
楓は動きを止め、感覚を研ぎ澄ませる。鼻をくすぐる甘い匂いは、間違いなく何かの菓子の匂いだろう。
それだけじゃない。耳が捉えたこのリズミカルな音は、泡立て機、いや、ハンドミキサーの回転音に違いない。
そして楓は視線を下に向ける。
「地下室とかある?」
「――参ったな、誤魔化せないか」
降参と言うように、ロゼッタは両手を上げた。そのまま絨毯の端へと歩き、靴で軽く持ち上げる。
床板が見えた。
けれど、その一部が外れている。「隠し階段とは手がこんでるねえ」とグーリットが呟いた。
はあ、とロゼッタがため息をつく。
「もう隠すだけ無駄だな。ムッシュ、済まない。今日は珍客がお出ましだ!」
階段の下へと呼びかける。返事は早かった。
「何となくだが、様子は分かったよ。仕方ない、連れてきてください」
くぐもった響きが床下から聞こえ、楓は思わず身を強ばらせた。
別に威圧的な声ではない。むしろ、紳士的で優しい声だ。なのに、どうにも足が止まってしまう。
シーティアに「カエデさん、行きましょう?」と声をかけられるまでの間、楓は固まっていた。
「うん、ごめん。じゃロゼッタさん、案内お願いします」
「分かった。ついてこい」
そして四人は階段を下りる。かつん、かつんという靴音を反響させながら、秘密の部屋へと。
そう深い階段ではなかった。壁に沿って半円を描くように下りると、そこで終わり。
地下と聞いただけで圧迫感があったので、すぐに終わってホッとした。照明が点いていたことも、その安堵に一役買っている。
「電気による照明があるんだ」
楓の言葉は問いではなく、ただの確認だ。答えを期待してのことではなかった。それでも、律儀に返答する者はいた。
「地球と同じように設備を整えてくれたからね。私としても助かっているよ。初めまして、魔王アランシエルの部下の方達。素顔を見せられないことは許してほしい」
その声はくぐもっている。楓たちと十歩ほど離れて立つのは、銀色のコックコート姿だ。
180センチ以上はある長身、そしてその顔は予想通り金属の仮面に包まれていた。
その仮面からはみ出している砂色の髪に、楓の中でピンとくる物があった。
"さっきロゼッタさんが階下に呼び掛けた時、ムッシュと呼んだけど。あの髪の色といい、外国人、それもフランス?"
思考が頭を走り抜ける。まとまりがつかないまま、楓は丁寧に一礼した。
ここはこの仮面の男の仕事場だ。そこに踏み込んだ無礼は謝ろう。
「突然伺ってしまい、すみません。こちらで菓子作りをされているんですよね」
カウンターがあり、キッチンスケール、泡立て器、各種ボウルなどの道具が一通り揃っている。
男の背後には大型冷蔵庫とオーブンも配置してあった。つまり、ここは間違いなくキッチンだ。
誰が見ても明らかな事実に、男は「そうですよ、お嬢さん。あなたも菓子作りをされるんですか?」とにこやかに答えた。
あくまで紳士的に、けれどもその声は力強い。
シーティアとグーリットの二人は沈黙している。自然に楓が押し出される形になった。
男に向かって「はい、そうです。カエデ・サトザキと言います。見習いですがパティシエールをしています」と告げた。
言い終わった瞬間、身震いが襲ってきた。
明確に敵対していると言ってしまったようなものだ。スイーツで以て争うというこの奇妙な世界において、楓とこの男は敵同士なのだと。
楓の視線は、自然と男の金属の仮面へと注がれた。相手が何を考えているのか、顔が見えないとまるで分からない。
「......なるほど。こちらの世界、ナノ・バースに来てから、私の相方以外の菓子職人と会ったのは初めてです。ロゼッタさん、多分あなたが尾行されて、この人達を連れてきてしまったんですね? 私は特に怒っていません。むしろ嬉しいくらいだ」
「はっ、と言いますと?」
恐縮するロゼッタに、仮面の男はふるふると首を横に振った。どこか軽妙な仕草だ。
「なに、たまには同業者と話したくなるのさ。いつもはユ.....おっと、一応秘密なんだね、としか話さないからね」
男は愉快そうに笑い声をあげる。その右手が楓の方へ差し出された。あくまで紳士的に。
「名前も申し上げられない非礼の代わりに、一つスイーツを差し上げましょう。そこのお二人もご一緒にね」
「――ありがとうございます。頂戴します」
楓も同じように右手を差し出す。そっと交わした握手はすぐにほどけ、仮面の男はカウンターへと向かった。背中越しに一言。
「フィナンシェでいいかな?」
楓もまた一言で返す。「お願いします」と。




