32.宿屋にてそれぞれが思うこと
アランシエルの服装はいつも同じだ。黒を基調とした礼装の上下に、愛用の黒マント。靴はやはり黒く染めたブーツである。場合によっては、華やかな差し色をアクセサリーで取り入れることもある。
それでも基本は黒一色だ。今回の旅でも、それは変わらない。
「いやー、なんつーかなあ。お前見てると、もうちょい服のレパートリー増やしたらって思うわ。旅先くらい、少しは変えても良かったんじゃね?」
そう言うグーリットの服は、確かにいつもと違う。
彼が着ている服は、地球で購入したニットだった。紺地に白と緑の菱形がいくつも配置されているおり、アーガイルニットと呼ぶらしい。
グーリットはそのニットを軽くつまむ。
「俺に言ってくれりゃ、地球で購入してきてやるのによ。菓子の材料調達のついでなら、別に手間でもねえんだし」
「興味がないな。余はどんな服を着ても魔王だ。それ以上でも以下でもない。それに平時の服とコックコートがあれば事足りる」
アランシエルは基本的に物欲が無い。物欲まみれよりは遥かにいいが、質素堅実だけでは楽しくないのではないか。
長年の付き合いになるが、その点についてはグーリットは首をひねらざるを得なかった。
だから不意に「嬢ちゃんに見立ててもらえばいいのによ。あの子ならお前に似合う服、考えてくれんじゃね?」と言う気になったのだろう。
果たしてアランシエルの反応は。
「カエデに? 何故そこでカエデの名前が出てくるのだ。あいつは余の助手であり、パティシエールだぞ。服の好みを考える役割ではない」
「かーっ、堅い。堅いよ、お前は。あのな、日中お前と一緒にいる時間が一番長いのは誰だ。どう考えても嬢ちゃんだろうが。仕事の範囲外のことでも、それくらいしてくれるって」
「そうなのか? 余が地球で覚えた限りでは、業務外の事を無理矢理押し付けるのは良くないという事だったぞ。ブラック企業の特徴だ、とニュースで言われていたのだが」
「そりゃ仕事として押し付けた場合の話だろうが。本人が好きなら、むしろ進んでやってくれるぜ。全く問題ねえよ」
「好きなら進んでやるのか」
アランシエルは腕組みしながら考える。それはつまり、楓が嫌じゃなければという条件ならという意味か。
楓と働いたこの九ヶ月の間、別に仕事以外の話をしなかった訳ではない。
けれども、服の好みをどうこうとは話さなかった気がする。
"そもそも楓は余のことをどう思っているのだろうか"
ベッドに腰かけ、アランシエルは胸の中に浮かんだ疑問を考える。
どう思ってとはずいぶん曖昧な表現だなと自分を笑いつつ、カエデ・サトザキとは何だろうかとまた考える。
"助手がいないと回らないから、地球からスカウトしてきたパティシエールだろう。本人も嫌がってはいないようだし、助手としては申し分ない"
間違いではない。けれどそれだけなのだろうか。
「嬢ちゃんがこっちにいるのも、あと三ヶ月ちょいなんだしさ。手伝える部分は手伝ってもらいな」
グーリットの何気ない声に、アランシエルはハッとした。
そうだ。大いなる菓子の祭典が終われば、カエデ・サトザキとの契約は終了する。
約束どおり、彼女を地球に帰さなくてはならない。それ以上拘束すれば、時間軸のずれの修正が難しくなる。
「あと三ヶ月、か」
「だろ。なあ、アラン。お前さ――いや、これ聞くべきなのかね」
「そう言われると気になるな。言ってみろ、グーリット」
「んじゃ、お言葉に甘えて。魔王アランシエルは助手のカエデ・サトザキをどう思ってるんだい? ほんとにあの嬢ちゃんいなくなっても、お前大丈夫なのかよ」
部屋に据え付けの暖炉に手をかざしながら、グーリットは問う。
鋭い声ではない、だが優しくも甘くもない。アランシエルの心へと真っ直ぐに届く、そんな率直さがあった。
「どうって言われてもな。いないと困るだろうな。ビスケットやクッキーはカエデに任せっきりだ。マドレーヌなどの数が必要な焼き菓子は、あいつに頼むところが多い。それに余が試作したスイーツを試食するのも、カエデが一番適任だろう」
そう答えつつ、アランシエルは知らず知らずの内に表情を緩める。
最初出会った時は、どこか不安そうな様子を隠さなかった。だが共に働く内に、だんだん穏やかで明るい側面が見られるようになってきた。
「そうだ、最近はサブレ・パリジェンヌも作るようになったのだぞ。大した進歩だ。やはり余が鍛えただけある、うむ」
「そうかあ、そりゃ良かった、うん。上司冥利に尽きるよなあ。なあ、アラン。気がついてるか?」
「何をだ、グーリット。改まった様子で」
グーリットの黒緑色の眼が暖炉の火を映す。ちり、と小さな炎が瞳に灯ったようにも見えた。
「お前、嬢ちゃんのこと話す時が一番生き生きしてるぞ。正直、あの子がいなくなった後、お前が腑抜けにならないか心配だね。だからさ、繋ぎ止めちゃえば?」
「な、に?」
グーリットの提案に、アランシエルは固まった。
その言葉が意味するところを察して、魔王は「バカな、そんなこと」と低い声で呟く。
† † †
「カエデさん、服はこちらのクローゼットにしまいましたからね。さ、お茶でも淹れましょうか」
「わ、ありがと、シーティアちゃん」
出来るメイドというシーティアの言葉は、嘘ではなかった。テキパキと二人分の服を部屋の各所に収め、快適に過ごせるようにしている。
この間、楓はベッドで横になっていただけだ。初日から色々あり、ちょっと疲れてしまっていた。
「ごめん、何にもしてない」
ぐだーんと寝そべりながら、楓は大きく息を吐いた。転移魔法の影響が今頃出てきたのか、軽く頭痛がする。
「いいんですのよ、カエデさん。お疲れみたいですしね」というシーティアに甘え、一休みすることにした。
「はい、お茶淹れましたよ。体が冷えたのかもしれませんね」
「ありがとう。はー、助かる。これ、やっぱり魔法の影響かな? 一般の人間にはキツいの?」
「どうでしょうね、私はそれは詳しくないのです。でも地球には似たような移動方法がないなら、そうかもしれませんわね」
シーティアの解釈はもっともだ。楓も素直にうなずく。
新幹線や飛行機に乗った後、妙に体がだるくなることはある。けれどそれとも少し違うようだった。
「ちょっとへこむ。こっちの世界にはまだ慣れてないんだなあって」
楓は枕に頭を埋めた。ポスンという音と共に、楓の頭が柔らかく沈む。
「うーん、何回か経験したら大丈夫ですわ。グーリットさんの結婚式の時は何もなかったですもの。あの時は移転距離も大したことなかったから、負担も少なかったのでしょうし」
「ああ、そうかもしれないわね。お茶美味しい......」
「とりあえず寝ていらしてくださいな。ユグノーもすぐに来るか分かりませんし」
そのシーティアの言葉に従い、楓は目を閉じる。眠いわけではないけど、体力温存を重視した。
部屋には小さいながらも暖炉があり、くべられた薪が燃えている。パチパチと薪が燃える音が聞こえ、そこにシーティアの声がかぶる。
「カエデさんとこんな風に旅が出来て良かったですわ」
いつも明るいシーティアには珍しく、しみじみとした口調だった。
それが気になり、楓は目を閉じたまま「何で?」と問う。
「だって、カエデさんと過ごせるのもあと三ヶ月しかないじゃありませんか。その前にこうして、ご一緒出来る時間が出来たのですもの」
「――そうね。あと三ヶ月と少しかな」
一年という約束だった。最初は冗談じゃないと思っていた。だけど、少しずつナノ・バースにも慣れてきて、皆とも仲良くなった。
「けれど、やっぱりあたしは地球の人なんだよね。当たり前なんだけど」
小さな頭痛に顔をしかめ、楓は思う。
ドラマや映画も観たいし、たまには友達と会ったりもしたい。
今となっては職場の空気も懐かしい。
両親や妹の顔も見たかった。
向こうの時間では一日くらいしか経過しないとは聞いているけれど、楓自身はもう九ヶ月も過ごしているのだ。
この身寄りのいない異世界で。
「カエデさんとお別れするのは寂しいですけど、ずっとこっちにいるわけにはいかないですもんね」
「うん、それはちょっと困るかな。また来れたらいいんだけどね。あたし帰ったら、アランは困るのかなあ」
「困る以上に、寂しいと思いますよ。アラン様と一緒に働けるのは、カエデさんだけですもの。落ち込みそうで心配ですわ」
「そう、なのかな」
答えながらも、楓の瞼は重くなる。視界の闇が濃くなり、暖炉の火の音が遠くなっていく。
意識が引いていく中で、不意にアランシエルの姿が浮かんだ。白いコックコートを着たいつもの姿だ。二本の角も、金色の髪も、整った顔もいつも見てきたそのままだ。
けれど一人佇むその姿は、とても寂しそうに見えた。
"な、によ......あなた、魔王様なんでしょ。何でそんな顔、して......るのよ"
意識の切れ端を手放しながら、楓は心の底で呼びかけた。その声の行方も分からないまま、楓は眠りの淵に落ちていった。
† † †
ギィ、と樫の木亭の扉が軋み音を立てた時、アランシエルは反射的に首をあげた。殺気ではない。だが、それに近い気配に反応したのだ。
「グーリット」
「おうよ、ユグノーの奴、約束守ったんじゃねえか?」
呼びかけに応え、グーリットが軽快に椅子から跳ね起きる。
アランシエルもそれに続いた。
部屋を出て階下へ向かう。そしてすぐに気配の主は見つかった。
そこにいたのは、二人の男。
「待たせたな、アランシエル。こいつがお前が探している相手さ」
勇者ユグノー・ローゼンベリーは、その黒髪をかきあげた。
傍らに立つ男がこくりと頷く。ユグノーより少し低いものの、結構な長身だ。その体を包む銀色のコックコートがひらめき、男は一歩滑るように前に出た。
「俺を探していると聞いた。訳あって顔はさらせない。悪いな、魔王様」
男の声がくぐもっているのは、彼が仮面をかぶっているからだ。表情が消えているため、人間らしさがない。
遅れてやってきた楓とシーティアも、その姿に息をのんだ。
「仮面の菓子職人とは聞いてたけど、ほんとに顔見せないのね」
そう言いつつ、楓は妙な感覚を覚えた。
何かがおかしい。
この仮面の男の何かが、彼女の感覚に引っかかる。
だがアランシエルの一言が、その思考を断ち切った。
「二人と聞いていたが、まあ良かろう。顔を見ただけでサヨナラも味気ない、そうは思わないか?」
いつになく好戦的なその声と共に、アランシエルは赤い目を輝かせた。




