3.余の名はアランシエル
里崎楓は平凡な女の子だ。生まれは日本の関東地方の某県、家族は両親と妹の四人家族。身長160センチ前後、体型も中肉中背とザ・平凡を絵にしたような女子である。
強いて言えば、高校卒業後に製菓の専門学校に通い、パティシエールとなったことが特徴だろうか。けれども、それも珍しいとは言えないだろう。
"そんなあたしが何故こんなことに"
自分の半生を頭によぎらせながら、楓は呆然としていた。
おかしい。
自分はクリスマスイブの夜に、ワッフルを買って食べていただけのはずだ。思わぬ美味に喜びながら、そのまま家に帰っていたはずなのだ。
けれども、彼女の眼前に広がる光景は何なのだろう。
「よー、今回の滞在は短かったなあ、アラン。こっちの時間で一日程度しか経過してないぜ」
「向こうでは一週間だ。見ての通り、良い拾い物をした。グーリット、あまり怖がらせるなよ」
「ふむ。そちらの......人間の女性を菓子作りの助手にするのですな? 呼吸の気配と生命力から判断するに、まだお若いようだが」
「ああ、余が作ったワッフルの隠し味を見事に探り当てた。パティシエールをしているらしいのでな、その意味でも適任だ。色々と教えてやってくれ、エーゼルナッハ」
おかしい。何もかもおかしい。平凡というレッテルを貼った日常とは程遠い。
豪奢な赤い絨毯が敷かれた部屋は広く、天井からは大きなシャンデリヤがぶら下がっている。その煌々とした光が揺れる度に、目の前の三人の人物の影も揺れる。
「それはそうと、アラン様。女性を放置しておくのは、感心できませぬな。先程から呆気に取られている様子」
嗄れた声をかけたのは、エーゼルナッハと呼ばれた人物だった。
全身をベージュ色の布、ローブと言うのだろうか、で包んでいる。そのローブの頭部はフードになっており、すっぽりと顔が隠れていた。
顔のほとんどは見えない。ローブの袖から枯木のような手が突き出ており、その肌は黒檀のように黒々としている。
「多分、状況説明なんかしてねえよなあ。そんな暇もなく、良さそうな人間がいたから捕まえたって感じか? おっと、そんな恐い顔すんなよ、嬢ちゃん。というか、言葉分かるかい」
「え、あ、はい。グーリットってあなたが呼ばれていたことは分かります」
かろうじてそれだけを、楓は答えた。
こっちはまだ、楓の理解の範疇に入る外見をしている。短い灰色の髪はすっきりしており、無機質な白い肌に似合っている。
黒緑色の目には冷たさはあったが、粗暴さは感じさせない。左耳のピアスと動きやすそうな服装も相まって、活発な印象がある。
その男――グーリットが微笑した。両のこめかみの辺りの痣が、笑いに伴い歪む。
「へえ、アラン、仕事速いな。言語変換だけは施したのかい」
「転移時にささっとな。さて、いきなりこんな状況に置かれて混乱しているであろう。ただ、余に害意が無いことだけは約束する。だから、警戒は解いてくれないか」
「無理だと思いますけど? というか、あなたさっきのワッフル屋さんの店主よね。どういうつもりよ」
自分に話しかけてきた最後の人物が、今の状況を作り出した張本人だろう。楓の目付きが鋭くなる。
やや長めの金髪と、褐色の肌に見覚えがある。鼻筋が通った端正な顔は、間違いなくあのワッフル屋の店主だ。
だが目の色が赤茶色から血のような真紅になっており、ちょっと不気味だ。
いや、不気味と言えば他にも要素はある。髪を分けて伸びた二本のねじくれた角もそうだ。着ていた白いコックコートが、黒を基調とした豪奢な衣服に変わっているのもおかしい。
更に言えば、ビロードのような艶のあるマントが半身を覆い隠している。どこの仮装大会かと言いたくなったが、敢えてそれは口にしない。
「いかにも。まずは名乗らねばなるまいな。余の名はアランシエルという。略称はアラン。先程のワッフルの食べっぷり、及びそば粉を見抜いた味覚から、そなたを余の菓子作りの助手として迎えたい。その為、こうして連れてきた次第だ」
「待った、待った、全然分からない。分からないことだらけで、何から聞いていいかも分からないんだけどさ。えーと、そもそもここどこなの? どこかの外国? あなた何者よ?」
「ずっととは言わぬ、一年間限定でよい。人間共に余のスイーツの凄まじさを見せつけてやるためには、そなたの力が必要だ!」
「質問に答えてくださいね、勝手な要求する前に!」
混乱の極致にあるものの、楓は自分を見失ったわけではない。
その気丈な様子が気に入ったのだろうか。アランシエルと名乗る青年は、うっすらと微笑んだ。
「一つずつ答えようか。この世界の名はナノ・バース。そなたのいた地球とは、次元の違う異世界だ。そして余は魔王。魔族の頂点に君臨し、人間共をスイーツの魅力で蹂躙しようという魔王にして、職業はパティシエだ!」
「ちょっと待った、最後おかしくない!? 何で魔王がスイーツで無双しようとしてんのよ、何考えてんのよ!?」
楓は思わず怒鳴りつけた。突っ込むべきところは、他にあるだろうという気はする。だが、魔王とスイーツという組み合わせが彼女の平静さを失わせていた。
「何を言っているのだ、そなたは。武力による戦争よりも、よほど平和で実りある解決だとは思わぬのか? 確かに、昔は人間と魔族は戦争していたがな。三年前の平和協定以来、武力を駆使しての戦争は禁止されているのだぞ」
「じゃあ、お互いほっとけばいいじゃないのよ。何でスイーツで蹂躙なんていう、魔王のイメージに反すること考えているわけ。あー、理解不能だわ」
言っている内に、楓はくらくらしてきた。
異世界か、ここは。ナノ・バースと言うのか。
そしてこのイケメンが魔王という事が真実ならば――間違いない。これは異世界転移というやつだ。
平凡な人生よ、さようなら。
波乱の異世界ライフよ、こんにちは。
走馬灯のように、短い二十年の記憶が目の前を走り去っていく......さようなら、父さん母さん、それに妹。
「なんって言ってる場合じゃないのよ、このおー! あのね、助手として連れてきたとか何とか言ってるけど! あたしはあなたを手伝う義理なんかないからね?」
「え、そうなのか」
「そうなのか、じゃないわよ! いきなり人をさらってきておいて、何様のつもりよ。早く元の世界に戻して。もーどーしーてー」
怒りの余り、楓はアランシエルに詰め寄る。本当にこの男が魔王なら、ずいぶん危険な真似をしている。だが、冷静さを失った頭では、そこまで考えられなかった。
「やれやれ、聞き分けが悪いな」
「なっ、どっちが」
楓の抗議は、アランシエルの視線で遮られた。魔王を名乗る青年の赤い目は、真っ直ぐに楓を見詰める。
不覚にも、その目を綺麗だと楓は思ってしまった。
「聞いていなかったな。そなた、名前は?」
答える義理はない、と言いたかった。けれども、相手の迫力に屈してしまう。
「里崎楓。姓が里崎、名前が楓よ。もし名前が先にくるなら、カエデ・サトザキになるのかな」
「ああ、日本人だから姓が先なのだな。なるほど、ではカエデと呼ぼう。グーリット、エーゼルナッハ、ちゃんと覚えておけよ。部下達にも通達しておけ」
「あいよ。ま、俺は嬢ちゃんて呼ぶけどね。よろしくな。おっと、自己紹介がまだだったな。ご承知の通り、俺はグーリットって言うんだ。魔王アランシエルの片腕にして、旧友ってやつ。以後よろしく頼むぜ?」
灰色の髪をかきあげながら、グーリットが軽くあごをしゃくる。
気障な仕草だが、不思議とこの男には似合っている。重厚感のあるアランシエルとは異なり、軽妙な雰囲気があった。
「では右に倣うとしよう。カエデ殿でしたな。私の名はエーゼルナッハ。故あって光を失った身にて、目を合わせることが出来ぬ。その無礼を御容赦願いたい。アラン様の下で相談役をさせていただいている」
ベージュのローブ姿がお辞儀をする。
目が見えないということだろうか。相変わらず顔はフードに隠れているが、恐らくかなりの年輩なのだろう。
楓からすれば、おじいちゃんと呼べる年齢なのかもしれない。
「ど、どうもご丁寧に、って、待って待って。なんであたしが帰る選択肢が無いのよ。外堀から埋めるようなことしないで!?」
「ふむ、やはり納得いかんか」
「当たり前でしょ。いきなり仕えろとか言われても、あたしは元の世界に居場所があるのよ?」
「居場所か。その割りにはずいぶんと気だるそうな顔をしていたが、余の見間違いか?」
アランシエルの指摘に対し、楓はすぐに返答は出来なかった。
イブも犠牲にして働く仕事に、疲労を感じていたのは事実だからだ。
お菓子作りは甘くないと、ため息をついていたからだ。
うなだれた楓を見ながら、アランシエルは何か思い付いたようだった。パチリと右手の指を鳴らしてから、楓に声をかける。
「ふ、余も無理強いはしたくはない。よかろう、まずは余のパティシエとしての腕を見せてやろう。それにワッフル二つでは、まだケーキがお腹に入る余地もあろうからな」
そう、これがパティシエたる魔王と見習いパティシエールの、スイーツを介した出会いだった。