29.リシュテイル王国へ
「ねえ、知ってる? 最近、すごく美味しいお菓子が流行っているって話」
「うんうん、聞いたことあるよ。見たこともない繊細なお菓子なんだってね。王都を訪問した友達が食べて、びっくりしたって言ってたよ!」
「えー、羨ましいなあ。どんな人が作っているんだろうね。その友達は作っている人見たの?」
「ちらっとだけね。白い服を着ていて、多分男の人だったって教えてくれたよ。二人いて、すごくテキパキしていたって」
「え、それだけなの? 顔はどんな感じだったのか、見えなかったのかな」
「んー、その子が言うにはね。二人とも仮面をかぶって、顔を隠していたらしいの。だから顔も分からないし、声もくぐもって良く分からなかったって」
「へえ、仮面の菓子職人か。なんかカッコいいね! いいなあ、いいなあ、そんな人が作るお菓子なら食べてみたい。きっとすごく秘密の味がするよね!」
「うん、ちょっとドキドキするよね。私も王都に行く用事ないかなあ」
† † †
ふらりと白い小さなものが舞っている。厚く垂れ込めた灰色の空を見上げれば、その白いものは無数の列を成している。
風に吹かれて散っても、次の白いものが埋めていく。白と灰色の風景は切りがない。
「よく降るな」
「そろそろ冬も終わりですからな。最後の大雪になるかもしれません」
暖かい部屋の中、二人の男が言葉を交わす。
二本の角を生やした黒衣の男――アランシエルは窓際にその長身をもたせかけた。
五歩ばかり離れた間合いには、ベージュ色のローブ姿があった。長い白髪をフードから垂らし、その男――エーゼルナッハは見えない目を窓の外へ走らせる。
「先程の報告、真実であろうな」
アランシエルが短く問うと、エーゼルナッハは頷いた。漆黒の指が動き、空中で複雑に紋様を描く。
何もないはずの空間から漏れるのは、人間の女性の会話だ。楽しげな陽気な声であったが、それは今のアランシエルの機嫌を損ねる原因だった。
「リシュテイル王国に潜ませた間諜からの情報です。たまたま聞き付けたらしいですが、無視するべきではないと判断したようでしてね。今朝、私に知らせてきました」
「うむ」
「何か、アラン様」
音声情報を封印しつつ、エーゼルナッハは両手をローブの内側に戻す。
アランシエルは窓の外を見ながら、ぽつりと言った。
「この冬のスイーツ決闘では、我々が負け越していたな。それとの関連性を考えていた」
「おっしゃる通りですな。ごく僅かではありますが、リシュテイル王国が勝ち越しました。集計出来ていない小規模な決闘は無視するとしても、若干気にはなります」
「ぼかすな、エーゼルナッハ。お前も察しているだろうに?」
アランシエルの声が鋭さを増した。「それでは私見ながら」と答えつつ、エーゼルナッハは片膝を着く。
因果関係と言えるかどうか。しかし、無視するには怪し過ぎるではないか。
「リシュテイル王国側から供出されるスイーツに、珍しい、いえ、まるで見たこともない菓子が散見されております。決闘に届けられた量は、大した量ではありません。けれども、その類いのスイーツが供された時は、魔族領は敗北している」
「その差が負け越しの原因であろうな。そして問題は、誰がそのスイーツを作っているかなのだが――」
「今しがたの噂を信じれば、二人の仮面の職人という可能性は高いでしょうな。とんだ隠し玉がいたといったところでしょうか」
「全くだ。だが、何者なのだろうか。これまでの菓子とは違う菓子の作り手か」
アランシエルは腕を組み、軽く目を閉じる。うっすらとした推量が脳裏に浮かぶ。ち、と思わず舌打ちしてしまった。
「アラン様にしては苛立っておられますね」
エーゼルナッハの指摘にハッとした。
「すまん。どうにも嫌な予感がしてしまってな。ここで悩んでも仕方がないのに、余らしくもない」
「なるほど。ということはやはり」
「ああ。敵情視察だ。楓にリシュテイル王国を見せてやる約束もあるし、他にも用件はある」
腕組みを解きながら、アランシエルは決意を口にした。
自ら動かねばどうにもならない気がする。
他にも用件があるというのも嘘ではない。
大いなる菓子の祭典の規約をそろそろ詰める頃だ。
祭典の開催は、両陣営共同で責任者を出して決めている。だが、魔王アランシエル自らがお出ましとあれば、話が決まるのも早いだろう。
「承知しました。それで誰を連れていかれますか。カエデ殿は確実として、彼女だけではありますまい」
エーゼルナッハの理解の良さに感謝しつつ、アランシエルは「グーリットとシーティアを連れていこう。エーゼ翁、すまないがルー・ロウと留守を頼むぞ。お前にしか頼めぬ」と告げた。
その声の凛とした響きに、エーゼルナッハは深く頷く。
「承知つかまつりました。ごゆるりと、というのも妙ですが......それにしても、ふふ」
「どうした、余が何か変なことを言ったか?」
「いえ。アラン様が私をエーゼ翁と呼ぶのを聞いたのは、ずいぶん久しぶりだと思いましてね。小さい頃はよくその呼び名を使っておられた」
エーゼルナッハの見えない目は、過去を映しているらしい。
「む、そうだったかもしれんな」と魔王は唸り、背を向けた。
降りしきる雪から視点をずらせば、窓硝子に映る自分が見えた。黄金の髪の下、血の色をした双眼がこちらを見ていた。
"我ながら成長したものだな。魔王アランシエル、か"
感傷を数瞬だけ味わう。
そう、昔はもっと背も低かった。全てにおいて未熟だった。今は――今は違うはずだ。
「エーゼルナッハ。余はお前達にとって良い魔王か。心からついていきたい、そう思える指導者だろうか?」
窓の外の雪に問いかけるように、アランシエルは疑問を口にする。エーゼルナッハの声が魔王の背中を叩いた。
「他の者はよく分かりかねますが、このエーゼルナッハはアラン様を支え尽くす覚悟です。この老体の知恵でよければ、存分にお使いください。そして」
間を置いてから、エーゼルナッハは再び口を開く。
自分の言葉がアランシエルの背中を押せと。そう言わんばかりに。
「このエーゼルナッハ、ある程度は周囲の者から支持はされているようでしてな。自分で言うのは少々恥ずかしいですがね。私からはこれだけです」
「――ありがとう、エーゼルナッハ。十分伝わった」
アランシエルはダークエルフの老臣へ向き直った。その真紅の瞳には自信がみなぎっている。
ヒョウ、と雪が一際強く吹雪いた。
† † †
リシュテイル王国を訪れる。
この一言をアランシエルから聞いた時、楓は目をぱちぱちさせた。
午後の仕事の開始時に聞いたので、今はコックコート姿だ。
そんな楓を、アランシエルは不審そうに眺める。
「どうかしたか、カエデ。別に変なことは言ってはいないと思うがな」
「いや、ほんとに視察に行くんだなと思って。前にちらっと聞いた時には、現実感が無かったから」
「ほんとに行くのだよ。用件は先程話した通りだ。残り三ヶ月半、そろそろこちらも用意を整えていかねばならぬからな」
そう告げる間にも、アランシエルは手を休めない。卵二つを片手で掴み、同時に割ってのける。手が大きいからこそ出来る技だ。
「そうか、そうだよね。あと三ヶ月半なんだし。うわ、どうしよう。急にドキドキしてきたなあ」
ふー、と楓は大きく息を吐く。
考えてみれば、異世界に来てからほとんど遠出はしていない。遊びではないと分かってはいる。けれども心が弾むことは止められない。
楓の気持ちは分かるらしく、アランシエルはなるべく優しく声をかける。
「用件のほとんどは、余やグーリットが片付ける。お前はリシュテイル王国の雰囲気だけ慣れておけ。祭典当日に雰囲気に呑まれてそれで失敗――だけは回避したいからな」
「試験本番前の模試みたいなものね」
「何となく言いたいことは伝わったようだから、とりあえず良かろう」
不審そうなアランシエルとは対照的に、楓の顔は明るい。
つまりこれは公費による出張だ。旅行要素込みと考えれば、楽しくないわけがない。
「アランにグーリットに、シーティアちゃんと一緒か。修学旅行みたいよね、どーしよ。服は何着ていけばいいかな!」
「ちょっと待て、お前どう考えても緊張感ないよな?」
「えっ、だって行く前から緊張しても仕方ないじゃない。行ったら緊張するかもしれないけど、その時はその時よ」
楓はこれでも真剣である。リラックスした方が視野は広くなるものなのだ。
「度胸がいいのは良いことだ」とアランシエルは肩をすくめた。




