27.幕間 舞い降りた天才 1
「さて、ここはどこなんだろうな。分かるかい、ユタカ?」
ピレス・キャバイエは肩をすくめた。参ったなという意思表示である。
けれども、鈴村豊も同じ仕草をするしかない。周りを見回しても、そこには見慣れない光景しかないのだから。
床には豪華な刺繍が施された絨毯が敷かれ、二脚の椅子だけが置いてある部屋。ホテルのスイートルームのようにも見えるが、恐ろしいことに扉が無い。完全に密室だ。おかしい。根本的におかしい。
「さっぱり分からないです、ムッシュ。分かっているのは、一緒に店を出たことだけですね。遅くまで残業していたから、俺達二人が鍵をかけて最後に出ました」
「そうだね。そしてまた明日と挨拶をした時に、妙な声が背後から聞こえてきたんだよ。おかしいと思わないかい?」
「ああ、俺も聞きましたよ。確か――見つけたと、その声は言っていたように聞こえたんですけど」
そう答えた瞬間、鈴村は気がついた。ピレスも「そう、分かるよね」と改めて指摘する。おかしいの意味が違うのだ。
「施錠を終え、私達二人は大通りを向いていた。背中側にはパティセリーの店舗しかない。なのに何故背後から声が聞こえる? 誰がそんな真似を出来るんだい?」
「それは」
鈴村は返答に困った。
もちろんピレスも答えは期待していない。ただ不可思議なことが起きたのだという事実を、二人で共有したに過ぎない。
「誰の仕業――」
「俺だよ。悪いね、お二人さん。手荒な真似をしてしまったな」
ぎょっとして、鈴村は口を閉じた。声、そうだ、あの時背後から聞こえた声だ。
ピレスの方を見る。砂色の髪の有名パティシエも「ははっ、向こうからお出ましらしい」と無理して笑っていた。その顔はひきつっている。
二人の他には、この部屋には誰もいないはずである。だが、一方の壁際に静かにたたずむ人影があった。
いつの間に現れたかなど分からない。そもそもこんな異常事態にあっては、それは些細な疑問だった。
人影が明確になっていく。
白いコートのような長衣をひっかけているが、その下の服はやや古風なシャツとパンツルックだった。印象としては、どこかミリタリーチックな感じもある。
男、かなりの長身の。黒い前髪の下からは、紫色の双眼が覗いている。
「誰だい、君は。あの時私達に声をかけたのは君だろう」
ピレスが声をかける。それには答えずに、男は「ほう」と呟いた。
「時空魔法時に施した言語変換は機能してます、と。我ながら手際がいいね。さて、ご両人。君達を名うてのパティシエと見込んでの頼みがあるんだが?」
「待てよ、お前。頼みもクソも無いだろ。お前なんだろ、ムッシュと俺をこんなところに連れてきたのは?」
どこか威圧的な男の態度に、鈴村はカチンときた。
相手の正体も分からない以上、何か武器を持っている危険もある。対してこちらは丸腰。着ている服は、スプリングコートにジャケットとジーンズだ。
それを考えれば、軽はずみな行動は慎むべきだが。
「そうだが。ああ、すまない。まずは自己紹介が必要だな。俺の名はユグノー・ローゼンベリーという。君達二人の腕を見込んで、俺が所属するリシュテイル王国を助けて――」
「ごたくはいいからさ。さっさと俺達を元の場所に戻せっての!」
プツン、と鈴村の中で何かがキレた。ピレスが止める暇もなく、ユグノーと名乗った男に突進する。
いきなり訳の分からない場所に連れてこられ、その上こんな高圧的な言い方をされているのだ。知らない内にたまったストレスは、鈴村の怒りを増幅させていた。
「こんのお!」
しゃにむに掴みかかろうとする。けれど、それは虚しい試みに過ぎなかった。
視界からユグノーが消えた。と思った瞬間には、右腕を綺麗に後ろ手に極められていた。
「ぐ、がっ!?」と呻く鈴村に対し、ユグノーが「おいおい、乱暴は止そうぜ。パティシエの腕ってのは、菓子を作るためにあるんだろ?」と囁く。その体勢のまま、ユグノーはピレスの方を見た。
「信じてもらえないかもしれないが、俺はあんたらを傷つけるつもりはないんだ。この元気な坊やは放すからさ、とりあえずこちらの話を聞いてくれよ。お互い殺気だっていたら、会話も出来ないだろ。ピレス・キャバイエさんよ」
「何故、私の名前を知っている? 喋った覚えはないぞ」
「向こうの世界じゃ名うてのパティシエらしいからな。ちゃんと調べていたのさ。こっちの坊やは弟子のユタカ・スズムラだろ。ほら、解放してやるよ」
小さな笑みを浮かべながら、ユグノーは鈴村の腕を解く。
二人から少し距離を取りつつ、ユグノーは再び口を開いた。紫色の眼が鋭く光る。
「改めてようこそ、異世界ナノ・バースへ。勇者たるこの俺、ユグノー・ローゼンベリーがお二人に願う。そのたぐいまれなる菓子作りの技術で、この国を救って欲しいとな」
† † †
ピレス・キャバイエは困惑していた。反応に困り、彼は視線を左右に巡らせる。
ここは先程までいた部屋ではない。ユグノーと名乗る男が「場所を変えようか」と指を鳴らすと、一瞬にして三人の居場所が変わったのだ。
それが転移という現象だと理解するには、さすがに少し時間がかかった。
三人が転移した先は、どこかの礼拝堂のようだった。
キリスト教の教会に酷似した造りでもあり、ピレスとしては僅かにほっとする。傍らの鈴村は目を白黒させていたが。
ここに転移してからは、それこそ怒濤の勢いだった。ユグノーは彼らに更に二人の新たな人物を紹介した後、あらかたの事情説明を終えた。そして今に至るという訳だ。
「このような形で我々の事情に巻き込み、まことに申し訳ない。しかし、我々にはあなた方のお力が必要なのです」
法衣姿の初老の男が頭を下げる。縁の無い帽子をかぶっており、法衣と相まって確かに神に仕える身分に見えた。ピレスは男の名を口に出す。
「ジューダス大司教とおっしゃいましたね。事情は飲み込みました。こちらの世界で過ごしても、私達にそれほど不利益が無いことも理解はしています」
時空魔法という魔法は、経過した時間をねじ曲げることも出来るらしい。
仮にこちらの世界で半年過ごしたとしても、地球での経過時間は一日未満に出来るという。
それを聞いて、ピレスは確かにホッとしたのだ。
「私からもお願いしたい。このロゼッタ・カーマイン、魔王のスイーツの前に無様に敗北した身分。本来ならば自ら再戦を挑むのが筋なれど、私には菓子作りの技術もない。頼む! 勝手は承知ながら貴殿らに願うしかないのだ!」
女の悲痛な声に、ピレスは左の方へ向く。
一人の女が頭を下げていた。長い赤髪が垂れ下がり、床に届きそうになっている。
「顔を上げて下さい、ロゼッタさん」とピレスは頼んだ。
若い女性に頭を下げられるのは、あまりいい気持ちにはならない。仮にそれが異世界の人間でもあってもだ。
「だが、それでは私の気持ちがっ!」
「申し訳ないが、これはあなたの気持ちを考えてどうにかなるものではないんです。我々もこの事態に困っているんですよ。拝み倒されても、対応出来ないというか」
「そ、それはそうだな。私は自分の気持ちを押し付けていただけだった」
赤髪の女は悔やむような表情になった。ピレスは今覚えたばかりの名前を思い出す。
ロゼッタ・カーマインと名乗ったこの女は、リシュテイル王国の騎士らしい。五ヶ月ほど前にスイーツ決闘で敗北したと、彼女は涙ながらに告白した。
「同情はするけれど、だからって俺達の気持ちも考えてほしいよ」
横から鈴村も口を挟む。強くは言わないが、ピレスも同意見だった。
なるほど、犯罪組織に誘拐されるよりは遥かにましだ。
だが、自分達の意思を無視されて、強制的に異世界に連れてこられたのだ。気持ちが定まらないのは、ある意味当然だろう。
「とはいえ、協力せざるを得ないんだろうね」
半ば諦めたような口調だった。ピレスはため息をつく。
地球に戻るためには、彼らの力が絶対に必要だ。敵対するのは悪手だろう。
鈴村もピレスの考えは分かったらしい。「いや、まあ確かにそうですけど」と不本意そうに唸る。
「半年間でいいのです。大いなる菓子の祭典はおよそ半年後。そこであの憎き魔王に一泡吹かせられれば」
ジューダスの訴えを、ユグノーがタイミングよく引き取る。
「俺達は余裕しゃくしゃく、名誉は保たれるってわけだ。あ、そうだ。せっかくだからさ、敵の姿見せてやるよ。ロゼッタの網膜から映像を抜き出しておいたんだ」
「なっ? ユグノー、貴様、それならそれで一言断れっ! 私は聞いていないぞ!?」
「いいじゃないか、堅いこと言うなよ。こうして役に立つんだからさ」
気を悪くしたロゼッタに笑いながら、ユグノーは礼拝堂の前方の壁へと歩く。石製の壁はそれなりに広い。
その壁へ向けて、ユグノーは手のひらから光を放射した。壁が映画館のスクリーンとして機能して、二人分の人影が浮かび上がる。
「言い忘れてたが、魔王には助手がいる。カエデ・サトザキと言うらしい」
「え、嘘だろ。サトザキってあの里崎、まさか? いや、確かにあの子だ」
ユグノーの説明に、鈴村が驚いている。その目は、小さい方の人影に釘付けだ。
だが、ピレスはそちらには目もくれなかった。彼の蒼氷色の目は、もう一つの人影を凝視している。
「似ている。まさか、こいつ」
若き天才パティシエは歯の隙間から、その声を軋らせた。




