26.余の助手はお前だけだ
一口分すくったクレーム・カラメルを、しげしげと見る。
カラメルが染みた上の方は茶色になっている。そこから下にいくと、カラメルの焦げ茶色が薄くなり、代わりにクレームの黄色が表に出てくる。
焦げ茶色から黄色へのグラデーションは、秋の落ち葉のようだった。
ふわりと漂った華やかな匂いは、バニラエッセンスのものだろう。上質のバニラは、柔らかい甘みと風味を加えてくれる。そこにベースとなる卵と牛乳が、まろやかさとコクを与えてくれるのだ。
「まずは一口目」
スプーンを口に運んだ。プルンとしたほどよい弾力、けれどもそれはすぐにとろける。優しい舌触りだ。病人の舌でも、これなら難なく食べられる。
一さじ、二さじとスプーンを入れていく。まだ喉がやられているので、そっと口の奥へと運ぶ。「うん、食べやすい」と楓は微笑した。ちょうどよい甘さを、柔らかな食感が支えている。
「とりあえず炭水化物だ。発熱による体力消耗を補うには、手っ取り早い。ほんとはビタミンも必要だが、スイーツにそこまでは求めるなよ」
「あの、アラン? あなた栄養素も知ってるの?」
楓の不思議そうな顔に対し、アランシエルは胸を張った。フフンと得意そうに鼻を鳴らす。
「地球で習ってきたのだ。専門家ほどではないが、ある程度は分かる。クレーム・カラメルはいいぞ。卵と牛乳でタンパク質も少しは摂れるからな。消化もいいし、何より胃に優しい」
「いや、うん。その通りです」
お母さんか、この人は。
クレーム・カラメルを食べながら、少しばかり楓は驚いた。面倒見がいいとは思ったが、ここまで徹底してくれるとは。
"けど、基本は優しいんだよね"
また一口、クレーム・カラメルを口にする。バニラの匂いがふわりと広がり、クレームはするりと喉に落ちた。
優しい甘さだ。けしてお洒落な菓子ではないけど、時々食べたくなるような。一個目を食べ終わり、楓は二個目に取りかかる。
「あの、聞いてもいい?」
カラメルの部分をすくいながら、楓はぽつりと聞いてみた。焦げ茶色のカラメルが陽射しに透けて、一瞬だけきらめく。
綺麗だな、惜しいなと思いつつ、舌に乗せた。
「何だ? 答えるかは質問によるが、言ってみろ」
「アランは......助手があたしで良かったのかな、って」
カラメルがほろ苦く甘く、舌から喉へと流れていく。
何気なく口に出した問いは、それと似たような感情を胸に吹き込んだ。聞いていながら、自分自身が驚く。
何故、今そんなことを聞くんだ?
「何故そのようなことを聞くのだ」
「や、だってね。助手が必要なんだったら、他にたくさん人はいたじゃない。東京だけでも、パティシエやパティシエールはいくらでもいるよ。世界に目を向けたら、それこそ山のようにいる」
スプーンを動かす手を止めて、楓は話し続ける。自分の言葉自体に突き動かされ、感情が揺れた。それこそクレーム・カラメルのように。
「あたし、別にすごく出来るパティシエールってわけじゃないんだ。劣等生じゃないけど、優秀ってわけでもないの。すごく平凡。職場の先輩はフランス留学とかしてるのに、あたしは下働きばっかりで」
下を向く。アランシエルは黙って聞いてくれている。それが嬉しく、けれど同時に申し訳なかった。
「アランに会った日もね。皆はクリスマスイブ楽しんでるのに、何で自分は仕事なのかなあって。お菓子作りが好きでこの道選んだのに、そんなこと考えてて。すごくそんな自分が嫌だって思う時ある」
「うむ」
「けど、ナノ・バースに来たのは成り行きだけど。皆優しいし。アランだって厳しい時はあるけど、大抵は丁寧に教えてくれるし。それに、少なくともパティシエとしては、すごく立派な信念持って仕事してる。だから――余計に」
語尾がぼやけた。視界もぼやけた。
熱のせいだと言い聞かせたけど、本当はそうじゃないことくらい知っている。
「あたしなんかがアランの助手でいいのかなって。あたしじゃない別の誰かの方が、あなたの助けになるんじゃないかって......時々苦しい」
静かだった。楓の懺悔にも似た言葉に対し、アランシエルはすぐには答えなかった。じっと天井を見つめたまま、魔王は動かない。一分以上もそうしていただろうか。
そしてようやく、アランシエルは赤い瞳を楓に向ける。
「カエデ」
ごく小さなとても優しい声で、アランシエルは語りかけた。
「お前がそのように思う気持ちは、分からなくもない。いや正確に言えば、余には分からない。何故なら余はお前ではないからな。だから想像することしか出来ない」
少し目を伏せながら、アランシエルは話す。手は軽く組まれており、そこを見るように。何と語りかけるべきなのか、彼は考えていた。
「確かに技術だけなら、お前より上手な者はいただろう。心意気の面でも、お前より前向きな者もいただろうな。だがな、余の助手はお前だ。余が作ったワッフルの隠し味を見抜き、こいつならと余は見込んだ。そして、余のパティシエとしての腕を認めた上で、お前はきちんとついてきたのだぞ」
アランシエルにしても、あまりこういう話は得意ではない。けれど、今の楓は放っておけない。風邪で気弱になっているのか、今にも消え去りそうな感じさえする。
余が出来ることは何だろう。この娘にしてやれることは何だろう。
自分に問いかけながら、魔王は必死で言葉を紡ぐ。黙っていては伝わらない。
「正直言うとな、お前がこちらの文化に拒否反応を示すリスクも考えていたのだ。頑張って順応しようとしても、無理なものは無理だからな。だが、お前は魔族の者を受け入れた」
そうだ。その事実は消えない。例え、カエデ・サトザキより優秀なパティシエがいたとしても。
「平民街に出かけ、菓子を配ってくれた。グーリットにマドレーヌの作り方を教えてくれた。エーゼルナッハにショコラ・モワルーを作ってくれた。ルー・ロウやシーティアもお前を慕っている。そして何より、この魔王アランシエルを毎日助けてくれているのは、他の誰でもない。カエデ・サトザキ、お前しかいないのだ」
楓は返事をしない。いや、出来なかった。何か一言でも話せば、涙が溢れだしそうで――体の底から泣き出しそうで、出来なかった。
熱が心に下りていく。心臓がじわりと熱くなる。
だから、話せないから、楓は一つ頷いた。それが今の彼女の精一杯。
「無理に自信を持てとは言わぬ。だが余の目から見ても、お前はよくやっている。皆、お前と働くのを喜び、また会いたいと言っているのだ。平民街の住民からは、時おり礼状すら届く。サブレ・ノルマンを持ってきてくれてありがとうと、獣人の子らがわざわざ礼を言いにくる。全てお前が成し遂げたことなんだぞ」
言い切りながら、アランシエルは右手を伸ばした。その手を楓の髪に触れさせ、少し乱暴にくしゃりと撫でる。僅かに癖がかった黒髪が揺れた。
「だから泣くな、カエデ。余の助手はお前だけだ。他の誰かの方がなど、聞きたくもない」
返事はない。ただ、圧し殺したような涙だけが、楓の目から滴となる。泣きたくないと思っても、涙は止まらない。けれど、それはけして不快な感情ではなかった。
「お前には才能がある。余が認めてやる。きちんと他者を思いやり、菓子を作る心がある。誰が何と言おうと、お前は立派なパティシエールだよ」
「......っ、う、うう」
「だからな。とにかく早くクレーム・カラメルを食べて、元気を出せ。余は言いたいことは言ったからな」
「うん、うん」
アランシエルの言葉に対し、楓はただ頷くだけだ。
目をこすり、まだ下を向いたまま。
けれど心は暖かい。
アランシエルの優しさに感謝しながら、クレーム・カラメルの最後の一口を食べた。それはトロリと舌の上で溶けて、甘い余韻を残して消える。
「お、よく食べたな。それだけ食べられたなら、大丈夫だろう。早く治せよ、お前がいないと寂しくて――」
「今、アラン、寂しいって言った? 寂しいって言った?」
しまった、という顔を隠しもせず、アランシエルは固まる。楓の突っ込みに対し、しどろもどろになった。
「あ、いや、何だ、最近は二人で働いてたからな。一人でキッチンにいると、話し相手がいないというだけで。特に深い意味は」
「そっか、アランはあたしがいないと寂しいんだ。そうなんだ、分かった。魔王様が寂しがって泣かないように、あたし早く風邪治すよ」
「ぐ、お、おのれ、カエデ......得意そうな顔をしおってからに。べ、別にお前がいなくたって、余は寂しくなんかないのだぞ! だから焦らずゆっくり治せ、命令だ!」
「じゃあお言葉に甘えて、ちゃんと治します」
体の力を抜いて、楓はベッドに潜り込む。頬に触れる。微かに残った涙を拭い、アランシエルを見上げた。
黒衣の魔王は決まりの悪そうな顔をしている。「何だ、まだ何かあるのか」と精一杯の威厳を込めてはいるが、照れ隠しをしているのが丸わかりだ。
「一言だけ。あたしはアランと働けて、とても幸せだなと思って」
「――ふん、当たり前のことを言うな」
ふい、とアランシエルは視線を外した。けれどもその顔も声も、嬉しいという感情を隠しきれていなかった。
そしてそのまま、アランシエルは椅子から立ち上がる。結構な時間を見舞いに使っていた。そろそろ頃合いだろう。「ではな。寝ておけよ」と言った後、何故かピタリと動きを止めた。
「どうしたの?」
「いや。今すぐの話ではないのだが、そろそろ敵情視察をしても良い頃だと思ってな」
魔王の表情が鋭くなっていることに、楓は気がつく。
「敵情視察ということは、リシュテイル王国を訪れるということ?」
「ああ、大いなる菓子の祭典まで半年を切った。今回の会場は、奴等の領土にある。本番前に様子を伺っておくのも悪くはない」
「そうだね、そうかも」
「今話すことではないな。とにかく、今日は休んでおけよ。では失礼する」
それだけ言い残して、今度こそアランシエルは退室する。ベッドに潜り込みながら、楓は静かに目を閉じた。アランシエルの言葉を思い出し、それを噛み締める。
「余の助手はお前だけ、か」
改めて考えると、ずいぶんと恥ずかしい感じの台詞だ。プロポーズみたいだと思った瞬間、変な声が出そうになった。「助手よ、助手なんだからっ」と必死で自分に言い聞かせる。そうでもしないと、また熱が上がりそうだった。




