25.クレーム・カラメル
クレーム・カラメルはポピュラーな菓子だ。いわゆるプディングの代表格であり、老若男女問わず人気がある。牛乳と卵をベースに作られる癖の無い菓子である。というか、一言で説明するならプリンだ。
"コンビニでも買える王道スイーツだが、病人には良かろう。余の作った本物のクレーム・カラメルでさっさと治れ"
アランシエルの表情は微妙な感じだ。怒っているようでもあり、心配しているようでもある。実はアランシエル自身もよく分かっていない。
"全く何なのだ、あの娘は。病人の癖に元気ではないか"
枕をぶつけられた鼻をさする。掠り傷一つついていないが――というか、魔王に傷をつけられる攻撃などほとんど無い――、それでも気分は良くない。
けれど、恥じらいを全開にした楓の表情は、中々に見物だったのも確かだ。
「照れているのか、あいつは。まあいい、取りかかるか」
のんびりはしていられない。材料は既に準備してあり、抜かりはない。
クレーム・カラメルのレシピの第一歩、カラメル作りから始める。アランシエルはグラニュー糖を慎重に計量スプーンですくい、片手鍋に入れた。中火にかけられた鍋の底で、グラニュー糖がじわじわと溶け始める。
「若干ほろ苦くしてみるか」
じゅわりと溶けてきたのを確認しつつ、木べらで丁寧にかき混ぜる。水分が飛び、糖分が加熱されていく。白から黄色、更に濃い茶色へと変化する。
「焦げ付く前に少量の水を入れて」
唄うように呟き、水を僅かに入れた。粘ついたカラメルに潤いが加わり、鍋の中で回った。
香ばしさが加わった甘い匂いを確認して、火を止める。これを素早く、クレーム・カラメルの型に流し込んだ。そのまま放置すると、鍋の底で固まってしまうのだ。
ここまでだと、カラメルしか出来ていない。むしろここからが本番だ。
別の片手鍋に牛乳を入れ、これを慎重に加熱する。温度は60℃ジャストだ。これ以上の温度になると、このあと入れる卵が固まってしまう。
「ゆで卵を作るわけにはいかんからな。さて、ボウルに全卵と卵黄を入れるか。次にグラニュー糖を混ぜてっと」
卵黄の鮮やかな黄色を楽しみながら、アランシエルは慎重にグラニュー糖を混ぜていく。
泡立て器を使っているが、勢いはごく弱い。ここで空気を混ぜると、クレーム・カラメルに穴が出来るからだ。滑らかな舌触りこそ命綱である菓子だけに、それだけは避けたい。
"駆け出しの頃はよく怒られたものだったな"
アランシエルとて万能ではない。パティシエとして働き始めた頃は、それはもう失敗だらけだった。
菓子作りには闘気や魔力は役に立たない。ひたすらレシピを頭に叩きこみ、技術を体に覚えこませた。このクレーム・カラメルも、そんな辛い駆け出し時代のレパートリーの一つである。
過去を脳裏から追い出しながら、アランシエルはさっき温めた牛乳の鍋を手にした。60℃以上にはなっていないから、これをボウルに入れても大丈夫だ。
卵と牛乳が混ざる。少しかき混ぜてから、これを目の細かいこし器でこした。
「これで滑らかな舌触りを生む。次に加えるバニラエッセンスで香りを付ける!」
手順通りだ。バニラの香りが漂い、いやでも気分は盛り上がる。
適度に生地が落ち着いたことを確認してから、表面にキッチンペーパーを静かに乗せた。軽くしわを付けたのは、気泡をそこにくっつける為の工夫だ。
"よし、表面の泡を吸い寄せ......手前に持ち上げる"
キッチンペーパーはいわば消しゴムだ。クレーム・カラメルから気泡を取り去る為に、ここで使う。
生地にこれ以上の材料は入れない。ここからは焼成となる。
最初にカラメルを注いだ型へ、ゆっくりとクリーム色をした生地を注ぐ。レードルという菓子作り専用のおたまにすくい、静かにだ。
ここで慌てると、注ぐ時に空気が混じる。そうなれば台無しだ。
「だが、これを終えれば後は焼き上げだ」
型は全部で六個ある。これを湯を浅く張ったバットに並べ、湯せん焼きにしてやる。
160℃に予熱されたオーブンの中に入れてやり、四十分待った。焼き菓子に比べてかなり温度は低く、じわじわと蒸しながら焼いた形だ。オーブンを開き、アランシエルは焼き上がったクレーム・カラメルの表面を見た。
「大丈夫そうだが、念には念をだな」
指を軽く水で塗らし、そっと表面を触る。クレームはくっついてこない。問題なしだ。
適度に冷めるのを待ってから、全ての型を冷蔵庫へと移した。十五分ほど冷やすと、味がしっかりとするからだ。
"出来た。あとは型から外すだけだが、これは目の前でやってやるか"
軽く冷し終わり、一つ型を手にとった。クレーム・カラメルの表面は滑らかで、とろけるような艶がある。この表面とは対照的に、カラメルの香ばしい茶色い底部が眠っている。
色のコントラストを楽しむためにも、やはり型から外した方がいいだろう。
「全く、手間のかかる助手だよ」
そう言いつつも、クレーム・カラメルを眺める魔王の表情は満足そうであった。
† † †
だるい。熱のせいか、体の節々が痛い。頭痛は薬で抑えたけれど、喉はまだちくちくする。少しましにはなったけれど、ベッドから起き上がる気にはなれなかった。
「うう、辛いよぅ」
小さく呻き、楓は顔を枕に埋める。ベッドサイドに置いてある銀色の水差しが目に入った。
喉が乾いたので、それに手を伸ばす。木のコップに水を注ぎ、一息に飲み干した。自分の中の乾きに、水が吸い込まれていくようだ。
"はあ、ちょっと落ち着いた"
食欲はない。けれど、朝よりはましだ。昼食はパンを甘い牛乳に浸したパン粥だった。「これだけでも召し上がれ」とシーティアに勧められ、ちょっと無理しながら食べたのである。
食べなければ回復しない。だけど食べること自体が面倒くさい。
悪循環だと思いつつ、またゴロリとベッドに横になった。その時だ。聞き慣れた声が耳に飛び込んできた。
「カエデ、いるか。入るぞ」
ためらいがちなノックに続き、キィと扉が開く。楓が返答するより早く、長身の男が入室してきた。
二本の黒い角がまず目に入る。豪奢な黒い礼装は、いつも通りの魔王ルックだ。「アラン?」と反応すると「お前は半日で余の顔を忘れるのか」と返された。
「ちょっと聞いただけ。ええと、もしやお見舞いに来てくれたの?」
「そのようなものだ。朝に約束したからな。食欲はあるか?」
「あんまりないかも。一応食べられるんだけどね」
ベッドに横になったまま、楓は素直に答えた。行儀が悪いとは思うけど、今は仕方がない。
枕をぶつけたことを思い出し、ちょっとバツが悪くなる。「ごめんなさい」という一言が素直に漏れた。
「は? 何を謝っているのだ、お前は?」
アランシエルが怪訝そうな顔になる。分かっていないらしい。
「今朝、アランに枕ぶつけちゃったこと。カッとなってやっちゃったけど、あれは無いなと思って」
「ああ、それか。別にどうということはないぞ。余も配慮が足りなかったかもしれぬ。それよりこれだ」
楓の侘びを軽く受け流し、アランシエルはマントの陰から右手を伸ばした。その手に掴んでいる物は、二つの小さな器だ。中身は見えないが、直感で何かの菓子だと分かる。
「もしかしてクレーム・カラメル?」
「正解。二つくらい食べられるだろう。今のお前の状態なら、糖分でも何でも摂取しておけよ」
楓の問いに答えてから、アランシエルは左手も出す。その手に乗った白い陶器の丸皿を、ベッドサイドに置いた。
楓が見守る中、彼は右手のクレーム・カラメルの器を皿の上に持ってくる。少し力を加えてからパッとひっくり返すと、中からクレーム・カラメルの中身が飛び出した。
楓は少し驚いた。普通は湯で器を温め、外しやすくしてからやる芸当だ。
「もしかしてアランの手って、温度を上げることも出来るの?」
「うむ。80℃くらいにまでなら高温に出来る。こういう場合に便利だぞ」
「うわあ、やっぱり魔王なんだ。あ、でもこれ美味しそう」
アランシエルから視線を外し、楓はクレーム・カラメルを見つめた。
黄色みを帯びたクレームは、底部が広い円筒形だ。上の箇所は茶色いカラメルが濃く、ほろ苦さを含んだ甘い匂いがする。
渡されたスプーンでつつくと、プルンとクレームが揺れた。可愛らしくもあり、官能的でもある。
「美味しいに決まってるだろう。誰が作ったと思っているのだ?」
「そうね。ありがとう、アラン。じゃ、いただきます」
一度手を合わせてから、楓はスプーンをクレームに深々と突き刺した。




