24.ある晩秋の朝の風景
秋も深まったある日の朝、アランシエルの機嫌は悪かった。
いつもの白いコックコート姿の彼は、形の良い眉をしかめている。赤い目が細くなり、キッチンに置いてある時計に視線を突き刺した。
「遅い、もう七時を十五分も回っているではないか」
舌打ち一つ、彼はコック帽を外し、イライラしながらキッチンカウンターに置いた。
思いきり叩きつけなかったのは、かろうじて理性が働いていたおかげだ。魔王である彼が全力を出せば、キッチンカウンターは真っ二つに割れてしまうだろう。そうなれば修復は不可能に近い。
「――これ以上待つ気にはならんぞ、カエデエエェ!」
中々こない助手に怒りをあらわにして、アランシエルはキッチンを飛び出した。大抵の事は許す。多少失敗しても、別に悪意が無ければ怒りはしない。
だが、怠慢は別だ。やる気に欠けているのは、能力とは別。純然たる意志の問題だ。勤勉をモットーとするアランシエルにとって、朝寝坊は無視出来ない問題だった。
階段を二段飛ばしで駆け上がる。二本のねじくれた角は髪から飛び出し、魔王の真の姿となっている。すれ違ったグーリットが、思わず一歩引いた程だ。
「どしたあ、そんなにピリピリしてよお?」
「知れたことだ、うちの助手がまだキッチンに来ない。朝寝坊だ、一発ぶっ飛ばしてくれる」
「おうおう、お前がぶん殴ったら嬢ちゃん砕けちっちまうぞ。あれだよ、女の子の日なんじゃね? そんな怒るなって――あ、聞いてねえ」
やや呆れた様子のグーリットを置き去りにし、アランシエルはひたすらに廊下を突き進む。ほどなくして、楓の居室に着いた。両開きの扉に手をかける。そこで初めて躊躇いが生じた。
"仮にも女性の部屋だ。押し入って良いものか?"
良心とも常識ともいう考えは、けれどもすぐに吹き飛ばされた。
"そもそも時間どおり職場に来ぬ奴が悪いのだ。魔王たる余を待たせているのだ、万死に値するのだぞ!"
一気に両腕に力を込める、鍵が弾け、バァン! と炸裂音を立て、扉が開いた。「修理代がかかりますな」とエーゼルナッハが嘆くだろうが、構うものか。そんな些細な事は知らぬ。
「カエデェ! 貴様、職務放棄とはどういうつもりだぁ、答えろ!」
部屋に踏み入り、アランシエルは大声で怒鳴った。
ベッドにいるのは気配で分かる。いくら寝ていても、この大声なら起きるだろう。飛び起きてひれ伏しろと思った、あるいは期待した。そうなるはずだったのだが。
「......す、すいません。どうしても体が動かなく、て。頭、重い」
返ってきたのは、息も絶え絶えの細い声だけ。いつもと違う荒い呼吸音を聞き取り、アランシエルはギョッとした。ベッドの側へと駆け寄る。
覗き込んだ楓の顔は真っ赤だ。視線も定かではなく、アランシエルの方をぼうっと見ているだけ。
「お、おいっ、カエデどうしたっ!? 病かっ、呪いかっ、とにかくすぐに助けてやるからなっ!」
「ただの風邪だとおも――う、うわあ、な、何やってんのよ!?」
「さっさと薬師の元に連れていくのだ、文句を言うなっ!」
楓が止める暇もなく、アランシエルは彼女の体を両手で持ち上げていた。右手は首の下、左手は膝裏。つまりお姫さま抱っこである。別の意味で楓の熱が一気に上がる。
「止めて下ろして恥ずかしい!」
「うるさい、黙れ助手の分際で! 余を誰と心得る! 魔王たる余が部下を心配して、何が問題か!」
アランシエルがそう答えた時には、既に楓の部屋を飛び出していた。
楓は悶絶した。着ているのは、薄手の寝間着一枚。そしてそんな服装で、あろうことかお姫さま抱っこされている。
「悪夢だわ、早く覚めて」
熱にうかされた頭で、楓はそう呟いた。色々な意味で、彼女の意識は遠くなっていく。
† † †
「あれだけ大騒ぎして、単なる風邪でしたか。ルー・ロウは驚きました。朝から何事かと」
「本当ですわ。アランシエル様が血相変えて、両手にカエデさんを抱き抱えているんですもの。夢か幻かと思いましたわ」
「すまぬ、余も動転していたのだ」
ルー・ロウとシーティアの二人に呆れられ、アランシエルは気まずそうだった。三人がいるのは、楓の部屋である。
薬師の診断によると、高熱こそ出ているものの風邪で間違いないそうだ。「二、三日寝ていれば良くなります」と小人族の薬師は断定し、すぐに薬を出してくれた。アランシエルとしては、一安心である。
「......ごめんなさい、迷惑かけて」
「いや、風邪なら仕方なかろう。むしろ全くひかない方がおかしい。病欠扱いにするから、良く休めよ」
楓の弱々しい様子を前にしては、アランシエルも強くは出られない。むしろ朝寝坊と誤解した自分が悪い。
薬のおかげでひとまず落ち着いてはいるが、一人で歩くことも困難なようだ。先程寝間着を着替えたが、それもシーティアが手伝っている。
「しかしあれだけ寝汗をかくとは、よほど寝苦しかったであろう。水分を補給せねば――ん、どうした?」
アランシエルは当惑する。楓のじと目に気がついたからだ。その頬はやはり赤い。熱のせいだろうと思っていたら、病欠した助手は「アランってデリカシーないよね」と呟いた。愕然とする。
「え、え、ちょっと待て。自分で言うのも何だが、それなりに優しく接したつもりだぞ? 何が不満なんだ」
「寝汗かいた姿見られたい女子なんて、この世のどこにいるのよ。うう、ただでさえ寝間着って薄手だし、恥ずかしいよ」
「ああ、そんなことか。心配するな。余は全く見てもいないし、気にもしていないぞ。そもそもカエデの寝間着姿に、色気なんぞ欠片もな、ぬぐおっ!?」
顔面に枕を思いきりぶつけられ、アランシエルはのけぞった。結構痛い。しかし反論する間もなく、ぶつけた張本人から辛辣な言葉を浴びせられる。
「ほんっとデリカシー無いんだからっ! アランのバカッ!」
「ば、バカだと」
「いや、今のはアラン様が悪いでしょう。ルー・ロウもフォローのしようがないです」
「そうですわ、アラン様。若い女性にそれは言ってはいけないと思いますわ。女心が分からないというか、何と言いましょうか」
愕然としたところに、更に追撃された。ルー・ロウとシーティアまで楓を応援するらしい。その張本人はぷいと向こうを向いており、顔は見えない。
「むぐぐ、何やら納得いかぬがとりあえず退散する。よく休めよ、カエデ。後で何か持ってきてやる」
捨て台詞のように言い放ち、アランシエルはその場を離れた。「ありがと」という楓の小さな声が去り際に聞こえたので、軽く左手を上げて応えておいた。
里崎楓がいないキッチンは、ずいぶんと広々としている。
コック帽をかぶりつつ、アランシエルは改めてそう思った。自分一人でキッチンを使うことも勿論ある。だが大抵そういう場合は、前もって楓がいないことが分かっていた。
"今日のように突然いなくなると、調子が狂うな"
薄力粉にバターを合わせながら、アランシエルは無言で唸る。
作っているお菓子は、オーク達に配るクッキーだ。普段は楓がやっているのだが、今はアランシエルがやるしかない。量を重視した簡素な菓子類は、大量にばらまくには向いている。
「あいつがいないと張り合いが無いな」
クッキーの焼き上がりを待ちながら、ぽつりと呟いた。あの見習いパティシエールくらいしか、アランシエルの仕事を理解出来る存在はいない。材料調達を担当しているグーリットが、少しは分かるくらいである。
自分が予想していたよりも、カエデ・サトザキの存在は大きなものになっていたらしい。そう認めざるを得なかった。
"そうだ、何か作ってやらねばならぬ"
思い出す。楓に約束したのだった。あの熱では喉も腫れている。それでも、するすると入る菓子なら食べられるだろう。
とすると、焼き菓子ではない。プディング、あるいはゼリー系か。
「クレーム・カラメルにするか。あれなら手軽に食べられる」
決めた。
アランシエルは、クレーム・カラメルのレシピと今日のスケジュールを思い出す。午後の早い時間帯に作り、それから冷やして持っていってやろう。夕方には食べられるはずだ。




