23.雨の夜、優しさはチョコレートの風味と共に
ショコラ・モワルーの形と大きさが分かる。
目は見えないが、感覚呪法で把握する。手のひらに軽く乗るくらいの、やや小さめの円筒形をしている。てっぺんには少し穴が空いているようだ。
そこからチョコレートの匂いが漂ってきた。
「なるほど、確かにこれは......そう、ショコラ・モワルーですね。以前いただいたことがあります」
エーゼルナッハは焼き菓子の正体を完全に把握した。
食堂の隅は区分けされており、小さな喫茶室となっている。
そこの椅子に座って、今はスイーツの正体を確かめていた。円卓を挟んだ向こうには、楓がいる。
「いただいてもよろしいか、カエデ殿」と確認してみた。
「うん、もちろん。どうぞ召し上がれ」
「かたじけない。それでは遠慮なく」
彼女の勧めに従い、小さなフォークを手にする。慎重に切り分けた一片を突き刺し、そっと口に運んだ。
ほろ苦く、同時に甘い独特の風味を感じる。
「うん、美味しいものですな。生地の中にまでしっかりとチョコレートが染み渡っていて、ムラがない。アランシエル様にいくつもの菓子をいただきましたが、私はこれが一番好きです。ありがとうございます」
礼を述べながら、更にもう一口。ショコラ・モワルーの内側のひとかけらだ。
フォークで触れた瞬間に分かる。
火が通りきる前の、ねっとりとしたチョコレートがある。
半生のチョコレートだけが持つ、より鮮やかなカカオの風味を思い出す。
そっとそれを舌に乗せた。
"しっとりとして――実に美味しいものだ"
もし完全に火が通れば、ショコラ・モワルーは単なるチョコレート生地のケーキだ。
だが、楓の技術のおかげなのだろう。半生の内側は、あくまでチョコレートの風味を最大限に生かすことに徹している。
対して、外側にはきちんと火が通っている。
そのため、焼き菓子としての風味の軽さ、香ばしさが際立っていた。
「一つのスイーツなのに、二種類の美味しさがある。何とも贅沢なお菓子を作られるものです」
「えへへ、久しぶりだったけど美味く出来たみたい。よかった、喜んでもらえて」
「はい。カエデ殿は良い菓子作りの職人であられる」
答えながら、エーゼルナッハは紅茶を一口含む。舌の上の甘さを流してから、また一口ショコラ・モワルーを食べてみた。
再び二種類の美味が広がった。ふっと心が軽くなる。知らず知らずの内に、口許が緩んでいた。
「ありがとうございます、カエデ殿。本当に美味しいお菓子だった」
深々とダークエルフの老臣は頭を下げた。楓は慌てて「そっ、そんなことしなくていいんですよ! あたしが作りたくて作っただけなんですから!」と反射的に頭を下げ返した。
それが可笑しかったため、エーゼルナッハはくすりと笑った。
「ふ、あなたは優しい娘ですな。私はもっと怖がられていると思っていましたが、このように接してくれるとは......嬉しいことです」
「正直、最初はちょっと怖かったですよ。でも、エーゼルナッハさんは色んなことをご存知です。それをひけらかすことなく、私にもちゃんと教えてくれましたし。すごく助かってます」
「やるべきことをやっただけですが、そう思っていただけるなら」
最後の一口を食べ終える。目を覆った包帯へ、エーゼルナッハはそっと手を伸ばす。
目を合わせることさえも出来ないが、確かに彼は感謝していた。この異世界からきた娘の優しさと、その菓子作りの技術にだ。
「私の妻が亡くなった事情は、既にお聞きなのですね」
「......はい」
気がつけば、口が勝手に動いていた。外はまだ雨らしい。窓ガラスを通して、夜中の雨の気配が伝わる。
ポツリ、ポツリ。その雨音に溶け込ませるかのように、エーゼルナッハは話し始めた。
「私は妻には苦労をかけてばかりでした。リシュテイル王国との戦争があったとはいえ、職務にばかりいそしんでいました。あまり良い夫ではなかったのだろうなと思います」
エーゼルナッハは自分を擁護はしなかった。妻は責めはしなかったが、内心は不満に思うこともあったろう。
「それでも彼女は私を責めることはしませんでした。アランシエル様に仕える私を、いつも陰で支えてくれました。私は恵まれていたんだなと......彼女が亡くなってから気がついた。光を無くした世界の中で、それに今さら気がついたのです」
何度自分を呪ったか分からない。
何故生前に妻に報いてやれなかったのか。自分と会ったばかりに、妻は死ぬ羽目になったのではないか。
もっと楽しい思いをさせてやればよかったと。
ただ後悔だけが、エーゼルナッハの胸に刺さり続けた時期があった。
楓はただ黙って聞いている。夜の雨音が微かに聞こえてくる中、エーゼルナッハの独白がそれを通して耳に届く。
年月が風化しきれない哀しみが、楓の胸に響く。それに答える言葉が上手く見つからない。
「――はい」
だからこれくらいしか言えない。
けれども、エーゼルナッハは気にした様子もない。淡々とした口調で話し続ける。
「いくら悔やんでも、妻はもう戻ってはきません。だから私に出来ることは、彼女の命日を覚えておくことくらいです。この日に墓参りを続けることくらいしか、私には自分の感情を持って行く場所がない」
「あの、エーゼルナッハさん。あたしは若輩者ですし、結婚もしてないから。だから上手く言えないですけど」
「はい」
「エーゼルナッハさんが優しい方だということを、奥様はきっと分かっていらっしゃったんじゃないかと。そう思います」
楓の言葉は届いたのだろうか。盲目のダークエルフは沈黙し、うつむいた。
しばらく時間が止まった後、エーゼルナッハの口から「ありがとうございます」と小さく声が漏れた。
哀しみと感謝を包みこんだその言葉を、里崎楓はただ黙って受け止めた。
「カエデ殿、私を気にかけてくれたこと、本当に感謝いたす。あなたのショコラ・モワルーは本当に美味でしたよ。本当に大したものです」
「あ、それなら良かったです。残り全部差し上げますから、召し上がってください。エーゼルナッハさんの為に作ったのですから」
「ふふ、ちょっと多いですが、それでは遠慮なく頂戴しますよ。明日はこれだけで一日過ごせますな」
そう言いながら、エーゼルナッハは右手を差し出した。意図を汲み、楓も右手を差し出す。
軽い握手、けれどもお互いの気持ちはしっかり伝わった。
そう、仮に心に降る雨が止まないとしても――傘を差し出すことは出来るのだから。
† † †
翌日、エーゼルナッハは外出した。護衛の一人もつけず、ただ一人だけだ。その手には紙袋が握られている。
昨日の雨は止んでいる。足を滑らせないようにして、盲目のダークエルフは慎重に歩いていく。
彼が歩むのは、魔王城の裏手の道の一本だ。草原の中に通された遊歩道には、煉瓦が敷き詰められていた。枯れたような色から、かなり昔に作られた道だと分かる。
多少のアップダウンを経た後、エーゼルナッハはその足取りを緩めた。見えない目でも分かる。感覚呪法を使って、周囲の地形を捉えているからだ。
呪法で構築された風景が、脳内に展開される。
彼の目の前にあるのは、墓地だ。色の無い線画で構成された風景だが、この地には相応しいだろう。
「何度きたことやら」
独白めいた呟きと共に、エーゼルナッハは足を進めた。苔むした湿気を感じつつ、目的の場所へと歩む。
ここからは感覚呪法を使わなくても分かる。まっすぐ三十歩、そこから右に曲がって十五歩。立ち止まる。
「二日連続で訪れるのは初めてであろうな、レーネエリス」
ダークエルフの声が墓地に静かに響く。枯れた指が伸ばされ、堅い墓石に触れた。そこに刻まれた名前は、彼が発音した人名と等しい。
持ってきた紙袋を、エーゼルナッハは開く。芳しいチョコレートの匂いが漂った。
「昨日、いただいたものだ。君と食べようと思って持ってきた」
ショコラ・モワルーを一個取り出し、エーゼルナッハは屈む。
墓石の前に置き、そのまま膝を着いた姿勢になった。
秋風が吹き、彼の長い白髪を揺らす。
レーネエリスが生きていたならば、どう言うだろう。いつまでも過去を振り返らないでと、たしなめるかもしれない。
それでも、きっと最後には笑ってくれるだろう。彼女も菓子は好きだったから。
「あの頃はこのような菓子は無かったな。ショコラ・モワルーと言うんだよ。異世界から来た女の子が、私と――君の為に作ってくれたんだ」
もう一個ショコラ・モワルーを取り出し、エーゼルナッハはそれをゆっくりと食べる。
独特の香ばしい甘さを味わう。ケーキの内部にある半生のチョコレート、その豊かな風味を感じる。
このケーキをレーネエリスと分かち合うことは出来ない。それが素直に悲しい。
けれども、その悲しさが今のエーゼルナッハの力になる。レーネエリスの死を無駄にしないように、力を尽くそうというバネになる。
「レーネ。アランシエル様の下、皆が笑顔で菓子を味わえるような世にする為に、私は残りの命を使う。だから安心して眠っていてくれ。私はけして揺るがないから」
ショコラ・モワルーの最後の一口を食べ終えた。
レーネエリスの顔が一瞬浮かぶ。
それを胸に抱きしめるように、エーゼルナッハは自分の心臓に手を当てた。




