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異世界スイーツ物語 ~魔王さまはパティシエ!~  作者: 足軽三郎
第三章 スイーツはイベントごとに
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22.ショコラ・モワルー

 コックコートとコック帽を身に付け、楓はキッチンに立つ。

 先程目を通して、ショコラ・モワルーのレシピは覚えた。元々製菓学校でも習った菓子なので、思い出したという方が近い。


「外側は焼けて、中は半生の食感。それがショコラ・モワルー。上手くやらないと、そうならない」


 声に出して意識付ける。

 ショコラ・モワルーは、内部にチョコレートを封じた焼き菓子だ。焼き上げた後の処理を手早くしないと、中のチョコレートに火が通りきる。そこが難しい菓子だった。


 "けど、やるんだ。絶対美味しく作ってみせる"


 下準備は万全だ。セルクルには澄ましバターを塗り終わっている。まずはチョコレートを湯せんで溶かそう。

 カカオ分40%のクーベルチョコレートをボウルに入れる。

 ボウルを湯に沈め、ゆっくりとヘラでかき回していく。

 やがてチョコレートはドロリとした液状になった。カカオの甘い香りが立ち上る。


「よし、これくらいかな。次にバターと合わせると」


 別のボウルに入れたバターを、楓は泡立て器で柔らかくしていく。

 そのクリーム状になったバターに、先程のチョコレートを注ぎ込んだ。黄色とチョコレート色が混ざりあい、とろけるような茶色になった。これが全てのベースとなる。


「よし、ここからはどんどんいくよ。まずはグラニュー糖、次に卵を加えてかき混ぜる」


 レシピをチラ見しながら、楓は順番に材料を投入する。白いグラニュー糖は、あっという間にチョコレートに呑まれて消えた。

 卵も同様だ。この時、楓は卵は少しずつ入れるよう注意した。卵の温度が低いため、温かいチョコレートに一気に入れるとチョコレートが固まってしまうからだ。


 "散々失敗したからなあ。よく怒られたっけ"


 製菓学校時代の失敗を振り返りながら、それを繰り返さないように気をつけた。大丈夫だ。ボウルの中のチョコレートは、なめらかなままだ。

 これを泡立て器でよく混ぜ、材料を馴染ませた。そして最後に投入するのは、粉類だ。


「薄力粉とベーキングパウダーを合わせて、これを入れて混ぜて」


 楓の動きが変わる。

 粉を混ぜる手は、小さく鋭いものになる。

 空気を混ぜないように、このような動きになっている。

 

 もし生地に空気が入り過ぎれば、どうなるか。焼き上がってから冷めた後、ぺしゃんと潰れてしまうのだ。

 それを防ぐために、粉だけを直接すりこむようなアクションが必要だった。


 その混ぜ合わせる動きが終わる。深い茶色の生地には艶があり、滑らかな柔らかさを保っていた。

 

 ここからは成型作業だ。

 絞り袋に丸口金をつけて、このチョコレート生地を絞り袋に入れた。どろりとしたチョコレート生地が重い。

 あらかじめ用意しておいたセルクルに、この生地を絞り出す。慎重に、注意深く。セルクルの凡そ七分目の高さまで。


「これを冷蔵庫に入れて冷やすんだよね。この間にお風呂入っちゃうか」


 内部のチョコレートを一度固めるために、二時間ほどセルクルごと冷やす必要があるのだ。夕方ということもあって、楓は入浴することにした。二時間あるなら、軽く夕食も食べておこう。



† † †



 リフレッシュを終えて、楓は再びキッチンに戻る。冷蔵庫からセルクルを取り出し、一度それを外した。この時、オーブンを220℃に設定しておく。これから焼き上げるための予熱だ。


「焼き上げる前に、もう一回澄ましバターをセルクルの内側に塗るのよね。これやらないと、引っ付くからなあ」


 ふう、と息をつきながら、楓は丁寧にその作業を終えた。冷えて固まった生地を、もう一度セルクルに戻す。ショコラ・モワルーは手間のかかる菓子だ。だがそれだけの価値はあるはず。


 あとはオーブンに入れて、焼き上げだ。十分ほどしてから覗くと、上部の割れ目の中が見えた。内部は乾いていない。頃合いだ。

 すぐにオーブンを止めて、焼き上がったショコラ・モワルーを取り出す。

 むせるような甘いチョコレートの香りが、ほうと楓を包んだ。

 顔がほころぶ。だがそんな暇もない。


「っと、ここからはスピード勝負!」


 軍手をはめた左手で、ショコラ・モワルーのセルクルを掴む。

 放置しておくと、型の余熱が中のチョコレートを固めてしまう。そうなると、単なるチョコレートケーキとなってしまう。


 "余分な熱を通させない"


 左手の指に、軍手の生地越しに熱が伝わる。ちり、と指が熱くなる。大丈夫、火傷にはならない。

 右手で握ったペティナイフを、素早くセルクルの縁に入れた。

 ケーキ生地を切り離すべく、縁に沿ってぐるりと一周させる。成功、まずは一個。


「全部で十個作ったから、あと九個。急ごう、半生のチョコが売りなんだから」


 楓は再びペティナイフを踊らせた。



† † †



 エーゼルナッハの視界には、暗闇以外は存在しない。

 盲目である以上、そこに暗闇以外が滑り込む余地は無い。

 あるのはただ、凍えるような黒だけだ。その冷え冷えとした暗闇の中で、エーゼルナッハはじっとして動かない。


 "三十六年か。あと何年、私はこの日を繰り返す?"


 自室の揺り椅子に体を沈めたまま、エーゼルナッハは思考の闇に意識も沈める。キィ、と揺り椅子が揺れるたびに、彼の意識もまた揺れる。


 過去はもう戻ってこない。そんなことは百も承知だ。

 だが、こんな悲しい記憶の揺り戻しを、自分はあと何回味わうのだろうか。


 "いや、この悲しさこそが思い出ならば――それさえ噛み締めていかねばならぬか"


 幾度となく繰り返した自問だった。それを意識して、自嘲の笑みをこぼした時だった。


「すいません、エーゼルナッハさん。楓です。起きていらっしゃいますか?」


 ノックと共に、聞き慣れた声がした。闇に落ちた意識を、その声が引き戻す。


「カエデ殿か。このような夜更けに、何のご用であろうか?」


 僅かばかり、返答に咎めるような響きが混じる。

 宵の口とはいえ、夜である。若い未婚の女子が、老齢とはいえ男性の部屋を訪ねる時刻ではない。

 けれど、相手の返事はエーゼルナッハの予想を斜め上に飛び越えていた。


「単刀直入に言うと、スイーツ作ったから召し上がって。それで元気出して!」


「スイーツ?」


 何のことかと首を傾げつつ、エーゼルナッハは立ち上がる。

 周囲の障害物との距離感は、感覚呪法で把握している。そのため、普通に歩くくらいは朝飯前だ。すぅとドアに近づき、ゆっくりと押し開けた。


「あ、よかった。開けてくれたんだ。あの、これ。ショコラ・モワルー作ったの。アランからエーゼルナッハさんの好きなお菓子と聞いたから」


 ふっと菓子の甘い匂いを感じた。エーゼルナッハの嗅覚は、確かにスイーツの存在を捉えた。

 感覚呪法を発動させ正確な距離感を把握し、そろりと対象に手を伸ばす。

 触れたのは、小さな紙袋だ。渡す際に楓の指先が僅かにダークエルフの指に触れ、そして離れる。


「チョコレートの香りがしますな。確かにアランシエル様に以前いただいた、あの菓子のようですが――また何故、今宵急に?」


「今日、エーゼルナッハさんの背中見たからです。すごく寂しそうな背中が雨に濡れていて。その後で、奥様の命日とお聞きしました」


 なるほど。

 エーゼルナッハは無言でうなずく。心の片隅に微かにさざ波が立つ。

 それは不快な物ではなく、むしろ心地好かった。


「優しいのですな、カエデ殿は。ありがとうございます。心して頂戴いたします。ふふ、それにしても心踊る甘い匂いですな」


「でしょ、自信作なんだから。さっき出来たばかりなの。よかったら今から食堂行って、そこでどうですか。あたしがお茶淹れますから」


 楓の誘いに迷ったのは、ほんの少しの間だけだった。

 どちらにせよ、寝るにはまだ早い。紙袋の中には、何個かショコラ・モワルーが入っているようだ。一つくらいは今食べても問題ないだろう。


「承知しました。それではありがたくお誘いに従いましょう。若い女性のお誘いを断るのは、心苦しくありますから」


「夜中のスイーツデートですね」


 楓が笑う気配を感じ、エーゼルナッハは微笑を浮かべた。

 優しい娘だなと思いつつ、受け取った紙袋を胸に抱く。

 豊かなチョコレートの芳香が、冷えきった暗い視界に広がった。

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