20.マドレーヌ
直前に色々あったものの、ヘーミディアの結婚式自体は順調に進んだ。
新郎と新婦が向かい合うと、それを立会人が祝福する。その周りを参列者が囲み、一人ずつ祈りの言葉を捧げていく。
厳かだが、シンプルな内容だった。
「あんまり複雑なことしないのね」
「種族による。中には三日三晩、新郎と新婦を魔法陣の中に置き、全員で祝福の詠唱を捧げる結婚式もある。余も参加したことがあるが、あれはしんどかった」
「そんな式でなくてよかったです」
アランシエルに真顔で答えつつ、楓は礼拝堂を出る。
石造りの礼拝堂は独特の雰囲気があり、いかにも異世界の建物という荘厳さがあった。「場所が変われば色々ね」と感想を述べつつ、楓は慎重に歩く。
慣れないヒールが足に痛い。そう思った瞬間、こけそうになった。
「うわっ!?」
「気をつけろ。ほら」
何ともない。
アランシエルが素早く楓の腕を掴み、支えてくれたからだ。
むき出しの二の腕を掴まれたのも一瞬、彼の大きな手のひらの感触を感じたのも一瞬。
そんな短い接触に過ぎないのに、楓の顔は赤くなる。
「ん、なんだ。どこか痛めたのか。おぶってやろうか?」
「ぜぜぜ全っ然大丈夫ですから! あああありがとう、アランッ!」
壊れた機械のように、楓はぶんぶんと首を振った。アランシエルは形の良い眉をひそめる。
「おかしなやつだな」
「カエデさんはお菓子なやつですよね、確かに。ルー・ロウは同意します」
「いや、そういう意味じゃなくてな」
ルー・ロウのボケに、アランシエルは苦笑する。
そんな和やかな一幕を、エーゼルナッハとシーティアは一歩引いて眺めていた。口を開いたのは、盲目のダークエルフだ。
「見えずとも分かるものよ。カエデ殿もまんざらではないのかのう」
「やだ、エーゼ翁もそう思いますの? やっぱり結婚式って、乙女のテンションを上げますのねー。はー、いいですわあ」
「左様さな。さて、それでは披露宴へ行くか」
エーゼルナッハはさくっとまとめ、歩を進めた。盲目とは思えない確かな足取りだ。
「あー、待ってくださいですの! エーゼ翁のイジワルー!」とサキュバスの少女は後を追う。
† † †
グーリットは緊張していた。
結婚式自体は無事に終わり、今は披露宴である。食事と酒を楽しみ、他の参列者と歓談すればいいだけだ。
けれど、彼には一つのミッションがあった。
「おい、グーリット。何をやっている、早く渡してこい」
「そうだよ、グーリットさんが自分で作ったマドレーヌじゃない。頑張って!」
「おう、分かってる。分かってるんだけど、中々なあ」
アランシエルと楓が励ますが、グーリットの反応は堅い。
彼の手には、藤で編まれたバスケットがある。この一ヶ月の成果がこの中にあるのだ。
「何をモタモタしているのだ。余が代わりに渡してきてやろうか?」
「ちっ、余計なお世話だっつーの。ちょっとタイミングを見計らってただけだ。行ってくらあ」
アランシエルに答え、決意を行動に移す。胸のためらいを振り切り、グーリットは椅子から立ち上がった。
視線の先には、ドレスに身を包んだヘーミディアがいる。その横にいるのは、先ほど仲を誓いあった新郎だ。同じ高位の魔族同士、きっといい家庭を作るだろう。
"まったく俺も自分に似合わねえことするよな"
胸の内に沸く思いは、気恥ずかしく。けれどもどこか暖かい。
「ヘーミディア。お前に渡すもんがある」
「え。なあに、お兄ちゃん?」
グーリットのぶっきらぼうな言葉にも、ヘーミディアは笑顔で応える。
隣の新郎も同じようなにこやかな笑顔だった。「お義兄さん、今後よろしくお願いします」とぺこりと礼をする。
それには何と答えていいか分からなかったから、グーリットはただ「ああ」とだけ返答した。
同時に右手のバスケットをヘーミディアに突きつけた。
「俺が作った。ヘーミディア、お前の結婚式のお祝いだ。よかったら......二人で食べろよ」
「え、嘘、お兄ちゃんが?」
「え、お義兄さん、今何て?」
「だから。このマドレーヌってお菓子、俺が作ったからさ。お前らにやるっつってんの。ちゃんとあのカエデの嬢ちゃんに習ったから、味は心配すんなよ」
早口で言いながら、グーリットはバスケットをヘーミディアに渡す。
戸惑いつつ、ヘーミディアはバスケットにかかっていた白布を取った。
ふわりと甘い匂いが広がり、自然と顔が緩む。
「これ、お兄ちゃんが?」
彼女の黒緑色の瞳に映るのは、やや長円形をした焼き菓子だ。
まるで貝殻のように、その表面にはすっと何本か縦線が引かれている。
バスケットの中に、その焼き菓子が十数個も詰め込まれていた。
「おう。正真正銘、俺が作った。せっかくの妹の結婚式だから、何か贈ろうと思ってな。頭捻った結果がこれだ。もうちょい気の利いたものが良かったのかもしれないけど、何が喜んでくれるかよく分からなくてさ」
「いいのに、私、お兄ちゃんが式に出てくれただけで。それで十分なのに」
「そんなわけにもいかねーだろ。だから、よかったら後で食べて......え?」
グーリットは見た。マドレーヌを一個、ヘーミディアの口が捉えた瞬間を。
淡いピンク色のルージュが塗られた唇が、ついばむようにマドレーヌの表面に触れた。
最初は恐る恐る、だけどすぐにかぶりつく。
「美味しい......お兄ちゃんが作ってくれたこのお菓子、美味しい」
「本当か? 本当に美味い?」
「うん、すごく美味しい」
ぽろりとマドレーヌの生地が粉となり、ヘーミディアの口の端につく。
花嫁らしくない振るまいではあったが、それでもその様子は愛らしさを損なっていない。
さくり、とまた一口、ヘーミディアはマドレーヌを口にした。
「甘くて、バターの風味が広がるの。あと、甘酸っぱい果物っぽい感じがして、すごく爽やかで。それに――」
「なんだよ、もったいぶらずに言えよ」
「――お兄ちゃんの、お兄ちゃんの優しさが込められてて、それがすごい嬉しい」
語尾を涙で霞ませながら、ヘーミディアはまたマドレーヌを頬張る。
兄が一人で故郷を飛び出してから、どれだけ苦労してきたのか。
知り合いも親戚もいない中で、魔王様の片腕まで上り詰めたのだ。
しんどかっただろう。命の危険にもさらされたに違いない。
「ちょ、待て待て、泣くことねーだろ。落ち着けよ」
「だって、だって、お兄ちゃん頑張ってたの知っていたのに、私達何にも出来なかったんだよ。魔王様に頼めば、会うことだって出来たのに。けどそれもしなくて、だけどお兄ちゃん、手先不器用な癖に」
「うっせえ、不器用は余計だよ」
「不器用な癖に、自分でこんな美味しいお菓子作ってくれて......本当に、美味しくって」
零れたのは、マドレーヌの粉だけではなかった。心の中から言葉が溢れ、瞼からは涙が溢れる。
きっとそうだ。ヘーミディアも今なら分かる。
グーリットは故郷に帰らなかったのではなく、帰る暇すらなかったんだろう。
飛び出した負い目もあったが、それ以上に必死だったのだろう。
リシュテイル王国との戦争にも、停戦協定後の統治にも、頑張り続けてきたんだろう。
そして今、自分の結婚式にこうして出てくれている。お手製のお菓子をもって、祝福してくれている。
「......まあ、そんだけ味わってくれりゃ努力した甲斐はあったわな」
照れ臭そうに呟くグーリットに、ヘーミディアは頷いた。
マドレーヌの最後の一口が、甘い余韻を残して喉の奥へと消えていった。
もらったバスケットを、隣の夫へと渡す。それだけで気がついたらしい。
「僕ももらっていいですか、お義兄さん?」
「いーけど、口に合うかは保証しねーぞ。あ、もう食べて!?」
「お、美味しい! こんな美味しいお菓子がこの世に!? お義父さん、お義母さんも、ほらこれ! すごいですよ!」
バスケットが更に次の手に移る。グーリットの両親も、顔をほころばせた。
それぞれがマドレーヌを一つ取り、さくりと歯を入れる。
「ほー、グーリットがこんなものを? こんな美味い菓子、わしは初めて食べたぞ。お前がほんとに作ったのか!?」
「まあ、父さんったら、そんな憎まれ口叩いて。ね、ほんとにヘーミディアの言う通りよ。この柔らかい風味の中に、甘酸っぱい果物が利いていてね。すごく爽やかな後味なの」
「いやあ、そんな誉めなくていいって。俺は何かしたくてやっただけだからさ。本当にすげえのは、ド素人の俺に教えてくれたあっちの嬢ちゃんだよ」
両親の誉め言葉に、グーリットは照れ臭そうな顔をする。
楓の方に振り返ると、彼女はこちらに手を振った。「そんなことないよ、グーリットさんがやる気があったからだよ」と笑顔になりつつ、彼女はアランシエルの方を見る。
アランシエルが頷き、厳かな声で告げた。
「カエデの教え方も上手かったろうが、お前が学ぶ気があったからだよ。妹さんの式に間に合わせようと、こつこつ練習していただろう? 余が見ていないとでも思ったか」
「はっ、かなわねえな、アランには。ちゃちゃっと作って、澄まし顔で渡すつもりだったんだがな。ん、アラン。お前、後ろに何か隠してる?」
「バレたか」
グーリットの指摘に、アランシエルはにやりと笑った。悪戯を企んだ笑みだ、とグーリットは気がつく。
同時に、その背後にある何かが前に進み出た。
台車に載せられ、それはゆっくりとこちらへやって来る。押しているのは、ルー・ロウとシーティアだ。
「ふふ、これが何か分かりますか、皆さん」
ルー・ロウが得意そうに言って、シーティアに振る。
シーティアもまた、得意げに指を立てた。
「アランシエル様お手製のお祝いのケーキって、普通見たら分かりますわよね?」
「そこはほら、お約束だよ。ということで皆様で召し上がれ。ケーキは新郎新婦のお二人に切っていただきましょう」
若年組のボケまじりの言葉に、パーティー会場がどっと沸く。視線が一点に注がれた。
二段重ねの巨大なホールケーキ、その表面はほぼ真っ白だ。透明度の低いねっとりとした白色のクリームが表面を覆っていた。
「魔王様が、アランシエル様が自らケーキを!?」
どよめきはすぐに広がる。
何だろうか、このケーキは。
ケーキといえば、普通焼き目がつく。黄色か茶色の生地に、デコレーションするものだ。
白いクリームで表面を覆っているのだろうか。
それにしてもここまで深い白いケーキというのは珍しい。
こほんと咳払いをし、アランシエルが一歩前に出る。どうやら解説をしたいらしい。
「フロマージュ・クリュ。いわゆるレアチーズケーキだ。シュクレ生地の土台以外は、全部クリームチーズをベースとしたクリームになっている。ごちそうで膨れた胃にも、これなら優しいぞ? するっと入るからな」
そして魔王はグーリットに歩み寄った。「余からのささやかなプレゼントだ。これは皆で分けるがいい」と声をかけ、アランシエルはぽんとグーリットの肩を叩く。
「いいのかよ、アラン。こんなもんまでもらっちまって?」
「おいおい、余は魔王にしてパティシエだぞ? これは大切な友人の妹の結婚式なのだ。ケーキくらいは作らせてくれよ。では皆の者、ゆるりと過ごせ」
そう答え、アランシエルは背を向けた。カツンと一つ靴音が鳴り、魔王は颯爽とその場を去る。
宴会場を出たその背中に追い付いたのは、彼の頼りになる助手だった。
「あんな隠し玉があるなんて聞いてないわよ」
そう言いつつも、里崎楓は嬉しそうだ。肩にかけたショールを羽織り直しながら、彼女はアランシエルの横に並ぶ。
「演出はサプライズがあった方がよかろう。ふん、それにしても」
「何よ、人の顔をじっと見て。何かついてる?」
「いや、大したことではない。そのドレスはカエデに似合うなということを、きちんと伝えていなかった。それを思い出してな。ヒールでこけた時には、どうしようかと思ったが」
透き通った赤い瞳に見つめられ、楓の心拍数が上がる。
「い、今さら何よ、もう式も終わりなのに!」という抗議の声は、いつもよりキレがない。
「お、何だ、照れてるのか。可愛いやつめ、ハハハハハッ」
「誰があなたなんかに照れますかっ、取り消せ今すぐー!」
魔王と見習いパティシエールの会話は騒がしい。
けれど、二人の顔はどこか満足そうで同時に幸せそうだった。




