2.クリスマスイブにワッフル
「ああー、疲れたあ」
大きく伸びをしながら、里崎楓は首を回した。
大量の生地をこねたり、クリームをかき回してきた為、腕も肩もがちがちだ。
こんな申し訳程度の伸びでは、どうにもならない。それは承知だが、やらずにはおれない。
「お疲れ様。あ、そうか、楓ちゃんは今年が初クリスマスか。ふふ、辛かったでしょ」
「いやあ、先輩達から聞いてはいましたけれどね。本当に忙しいんですね」
「クリスマスにバレンタインは稼ぎ時だからね。製菓業界にとっても私達にとっても」
楓に諭すように話しているのは、四歳上の宮本だ。見習いパティシエールの楓にとっては、チューターみたいな存在である。ベリーショートの茶色い髪ときりっとした目が、いかにも出来る女という雰囲気がある。
「毎年こんな感じなんですか?」
「うーん、今年は厳しかった方かなあ。鈴村君が抜けちゃったからねえ。彼がいたら、もう少しましだったと思うよ」
「鈴村先輩、今はフランスですもんね。向こうでもクリスマスは忙しいんでしょうけど」
脳裏に鈴村豊の顔を思い浮かべる。修行も兼ねて、彼は二ヶ月前から渡仏して、そこで働いているのだ。
一体どんな菓子を作っているのか、楓には想像もつかない。
「この時期私達が忙しいのは、世界中一緒よ。さ、戸締まりだけしてあがりましょう。明日もあるのだから」
「はい、宮本さん」
元気の良い返事を一つして、楓はコックコートのボタンを外した。粉やチョコ、卵の跡が所々ついているのは、一日の奮闘の証拠だ。
頑張ったね、と自分で自分を誉めてやる。愛用の黒いタートルネックに着替えると、心なしかホッとした。
里崎楓の職場は、六本木にある。外国人客をメインターゲットとしたホテルが、彼女の勤務先だ。けれど、別にフロントをしているわけではない。
そう言うと、大抵の人は「じゃあ何をしているの?」と聞いてくる。
「ホテルの製菓部門って、あんまり目立たないからなあ」
自分の白い吐息を目で追いながら、楓はコートのポケットに手を突っ込んだ。ベージュのダッフルコートは、製菓の専門学校に通っていた頃からの愛用品だ。
黒のタートルネックに、ボトムスはジーンズ、そして靴はスニーカーというシンプルな格好で、楓はクリスマスの六本木を歩いている。
周囲は、華やかに着飾った人々で一杯だ。自分の地味さを省みると、ほんの少し心が痛んだ。
仕方ないことではあるし、覚悟はしていた。いつかは一流のパティシエールとして、独立して自分の店を持ちたい。その夢に曇りは無い――そのはずだ。
けれど、皆が受かれている中、こうして疲れた体を引き摺っている。職業的に仕方ないことではあるが、辛くないと言えば嘘になる。まだ二十歳の女の子なのだから。
「あー、ダメだ。お腹も空いたし、なんか弱気になってる」
チカチカするイルミネーションを仰ぎつつ、楓は首をすくめた。何か食べて帰ろうと考え、横断歩道を渡った。
自分の考えが甘かったと気がつくには、さして時間はかからなかった。うぐぐと呻きつつ、楓はベンチに腰を下ろす。
いつのまにか、六本木ミッドタウンの近くまで来てしまっていたのだ。
今日は十二月二十四日、つまりはクリスマスイブである。飲食店はどこも混雑、それは自分が身を以て知っていることではなかったか。
ラーメン屋くらいなら空いてはいたが、流石に入る気分ではない。
「くう、こんな事にも頭が回らないなんて。疲れてるな、あたし」
ペットボトルから水を一口、けれどもこれでは空腹は満たされない。自分のバカさ加減に腹が立つ。
その怒りに任せて、空になったペットボトルをゴミ箱目掛けて放った。
カコン、縁にあたったペットボトルはナイスイン。それを目で追っていた楓は、視線の先に別の対象を見つける。
イルミネーションの欠片を浴びて、白いキャンピングカーが停車しているのだ。そのサイドドアがスライドして、折り畳み式のスタンドが飛び出している。10メートルほど離れているのに、そこから甘い匂いが漂ってきていた。
思わずベンチから立ち上がる。目が捉えた物は、スタンドに並べられた茶色い菓子であった。
「え、お菓子屋さんかな。こんな六本木で移動販売なんて珍しい」
好奇心に従い、キャンピングカーへと歩み寄る。菓子が放つ甘い匂いが、ほうと夜の空気に溶けていた。これでもいいかと思った時、いきなり声をかけられた。
「お客さん? よかったら見ていって。寒い夜に温かいワッフル、悪い取り合わせじゃないと思うよ」
楓が視線を上げると、一人の男と目が合った。スタンドの奥、つまりはキャンピングカーの中から、男は身を乗り出している。
さらさらした金髪の下から、褐色の肌が覗く。アーモンド型の目は赤茶色で、楓をじっと見つめていた。
ライトに浮かび上がる顔は、彫りが深くモデルのように端正だ。
明らかに日本人ではないが、日本語の発音自体はとても綺麗だった。外国人の年齢はよく分からないが、外見から推測すると二十歳を少し越えたくらいか。
「ワッフル、ああ、そうね。このお店、ワッフル屋さんなの?」
「そうだよ、見ての通りね。移動式ワッフル販売店さ。一個二百円だけど、今日はサービス。半額でいいよ」
微笑を浮かべ、その店主らしき男が勧めてくる。
もとより楓に断る気は無い。どの店に行っても、今日は満席なのだ。選ぶ余地も無い。それにワッフルから漂う甘い匂いは、空腹には魅力的だった。
「ん、それじゃ二つもらおうかな。プレーンと、あら、フランボワーズって」
「木苺だね。日本でもそこそこ有名だと思うけど」
「知ってるわよ。ジャムにしてワッフルに付けるのが、珍しいなと思って。うん、じゃフランボワーズで」
他にもココア、シュガーバター、マロンなどがあったのだが、全ては選べない。楓の注文を聞き、男はすぐにワッフルを暖めた。冬の空気で冷えているため、そのままでは風味を損なっているからだ。
楓の鼻をワッフルの匂いが掠める。質の良い材料を使っているのだろう、匂いだけでそれが分かる。
強力粉、薄力粉、卵、バター、砂糖、それにドライイーストが主な材料だ。牛乳も加えているのだろうけれど、量は多分少ない。
けれど、僅かに異彩を放つ匂いがした。何だろう。知っているはずなのだが、思い出せない。
「はい、出来上がり。熱いから注意して食べてね」
「ありがとう、じゃ二個で二百円と。いただきます」
渡されたワッフルは、典型的なベルギーワッフルだ。
円盤状の生地が綺麗に焼きあがり、そこに格子状に走る焼き目が乗る。ワッフルメーカーの形がこの独特の形を作る。
十分熱が通った箇所は、こんがりと茶色に焼けていた。端を軽く歯で噛むと、じわりと甘い熱が溢れる。
まずはプレーンからと決め、そのままかじりつく。
生地の中の空気が軽さを加え、ワッフルの生地はきめ細かい。かりりという格子の部分と、柔らかい土台を共に楽しむ。
「甘さ強めだけど、くどくない」
「ちょっと工夫してるからね」
楓の呟きに、店主は一言で答えた。他に客もおらず、暇らしい。白いコックコートを律儀にまとい、まるで本職のパティシエのようである。
他に何も加えていないだけに、プレーンのワッフルは単調な味ではある。だが、それだけに焼き菓子としての素朴な魅力があった。
空腹も手伝って、気がつけば楓は一個完食していた。かなり美味しいワッフルだ。それだけじゃない、何か一風変わった風味が彩りを添えている。それが何かはまだ分からない。
「じゃ、今度はこっちのフランボワーズを」
プレーンとは色合いからして異なる。
ややピンクがかった赤いジャムは、濃厚な果実の甘みが強く香る。
茶色のワッフルの上にたっぷりとかけられたジャムは、素朴な味をうんと華やかなものに変えていた。とろんとした食感が、舌に絡みつく。
楓は素直に美味しいと感じた。ワッフルにフランボワーズのジャムというのは、初めてだ。
洋菓子としてはポピュラーな果物だが、ワッフルに合うとは思わなかった。適度な甘酸っぱさが冴える。
ややもするとくどくなりがちなワッフルだけど、ジャム一つでこうも変わるのか。
「プレーンと全然違う......うちでも作れるかしら」
そう呟きながら、更に一口かじった。ワッフル生地のほっこりとした甘さに、フランボワーズの甘酸っぱさが絡んだ。
その中にそっと、ほんの少しだけ香ばしさを加える要素がある。これは、さっきから分からないこれは何だろう。
「麦、違うな。豆、いえ違う。けれど近いかも」
「あのお客さん、どうしたの?」
店主が怪訝な顔をする。だが楓は聞いていない。職業柄、面白い風味には敏感だ。味覚の記憶を遡る。知っている、これは――そうか。
「そば粉よね。あ、そうか、だからこんなに香ばしさが出るんだ。邪魔にならない程度に混ぜてるでしょ?」
「へえ、分かるんだ。正解だよ。ほんとにひとつまみ、隠し味にね。お客さん凄いね、何やってる人?」
イケメンの店主に誉められて、嬉しくないわけも無い。
楓は素直に「パティシエール。女性のパティシエよ。まだまだ見習いだけど」と答えた。それが運命の転機とも知らないまま。
「ほう、それはそれは――なるほど、なら君でいいか」
「え?」
いきなり低くなった声に、楓はぴくりと動きを止めた。スタンド越しに、店主が身を乗り出してくる。素早く伸びた左手が、楓の額に軽く触れる。
付き合ってもらうよ。
そんな声を聞いた気がした。