17.まずは見て覚えましょう
晴れの日にスイーツはよく似合う。ウェディングケーキやバースデーケーキはその代表だ。
ちょっとしたスイーツがあると、場の雰囲気は華やかになる。
甘いものは人を幸せにし、人生を豊かに彩る。少なくとも、楓はそう思っている。
「自分で作りたいって人、なかなかいないですよ」
「そうかい? ああ、アランや嬢ちゃんに時間取らせるのは悪いもんな。声をかける機会もねえし」
「いえ、そうじゃなくて。手作りのお菓子をプレゼントしたいって、いいなあと思って」
楓はグーリットに話しかけつつ、思案する。
アランシエルと相談した結果、楓がグーリットに教えることになった。
「善は急げだ。早速明日から教えてやれ」とアランシエルにお茶会で言われたため、翌日の午後には早くもスイーツ講習会が始まった。
「で、まず何からやればいいのかな。全く何も知らなくってさ」と、グーリットは決まり悪そうな顔だ。
いつもの軽薄な雰囲気は鳴りを潜めていた。
今、キッチンには楓とグーリットしかいない。二人とも白いコック帽に白いコックコート姿である。
エプロンたるサブリエを付けると、ぐっとそれらしく引き締まる。まずは格好からということで、グーリットにも着てもらった次第だ。
「そうね。まず聞きたいのだけど、グーリットさんはどんなお菓子を作りたい?」
「わかんねえんだよな......いや、アランや嬢ちゃんみてえには絶対出来ねえからよ。初心者でも作りやすい菓子なら、何でもいいかな」
「うんうん。そうよね、そもそもどんなお菓子があるか知らないのよね」
楓は安堵した。
もしグーリットが「誰も見たことのない菓子を作りたいんだよ! すげえやつ!」と言い出したら、面倒くさいことになったからだ。
そんなものが一ヶ月で作れるようになれたら、世のパティシエは廃業だろう。
「だったら、そうね。簡単な焼き菓子かな。マドレーヌはどう?」
「マドレーヌって、ああ、前に一回嬢ちゃんにもらったな。あの貝みたいな形したお菓子か? 俺でも出来るの?」
「うん。そんなに難しくはないですよ。あたしの教える通りにやってくれれば、出来ます」
楓の言葉に、グーリットはホッとしたような顔になった。
「安心したぜ。や、俺なんかにゃ無理とか言われるかと思ったからな」
「え、何で? お菓子作りって、特別な技術じゃないよ。習えばある程度は皆出来るよ」
「そうは言うけどよ。俺らから見たら、アランや嬢ちゃんがやってることって魔法みたいな技術だぜ?」
これは別にお世辞ではない。
そのままでは素っ気ない小麦粉や卵が、いつの間にか華やかな菓子になるのだ。
分量通りに手際よく作ればいいとは分かっていても、それは特別な何かに見える。
自分の白々した手を、グーリットは眺めた。感傷、あるいは自嘲めいた笑いが漏れる。
「教わっておいて何だが、今からでも断ってもいいんだぜ。俺はさ、散々戦争で人間を殺ってきた男だ。殺らなきゃやられるから仕方ないんだけどよ。この手で菓子作りなんて似合わねえよな。嬢ちゃんが嫌がっても、そりゃしょうがねえと思う」
「うん、そういう話は聞いたよ。何だろ、あたしは戦争とか知らないから――違うな、ピンとこないっていうのが正しいかな。何とも言えないんだけど」
「そうか。だからなあ......なんつーか、気後れはしてんだよ。こう見えてもな」
ヒュッとグーリットは息を漏らす。それで迷いを吹っ切ったのか、表情が引き締まる。楓もそれが分かった。
「あたしはグーリットさんは怖くないし、お菓子作りは誰だって取り組むこと出来ると思う。だから頑張ろうよ!」
「頼むぜ、嬢ちゃん」
そう応じる男の顔は、いつもの不敵さを取り戻していた。
† † †
マドレーヌは比較的ポピュラーなお菓子だ。
ふわっと膨らんだ生地に歯を入れれば、その風味は口の中でほどけて消える。
手のひらよりも小さなサイズのため、ちょっと食べるには最適な焼き菓子と言える。
「フィナンシェとどっちにしようか迷ったんだけど、爽やかな感じの方がいいのかなと思って」
そう言いながら、楓は一つの果物をグーリットに手渡した。
黄色いツヤツヤした表皮の果物を、グーリットは手の上で転がす。少し酸味のある香りがした。
「レモン? これがマドレーヌに関係あるのかい」
「うん。マドレーヌには、レモンの皮をすりおろしてまぜるの。だからレモン独特の爽やかな風味がある。フィナンシェはアーモンドパウダーを使うから、香ばしい感じ。どっちも難易度は変わらないけど、今回はマドレーヌにします」
「嬢ちゃんの選択に任せるわ。で、何からやれば作れるようになる?」
「まずは見てて。もちろんレシピは読まないといけないけど、実際に作る場面を見るのが先」
コック帽をかぶり直しながら、楓はマドレーヌのレシピを思い出す。
初歩の焼き菓子であり、何度も作ったお菓子だ。材料さえあれば問題はない。
「じゃあ早速やるわね。卵、グラニュー糖、薄力粉、ベーキングパウダー、はちみつ、バター、レモン。これがあれば作れるわ。あ、バターは食塩不使用でお願いします」
「了解、倉庫見てくるわ。特別な用具は必要なのかい」
「マドレーヌを作るためのシェル型が必要ね。あと、生地を型に絞り入れるから、絞り袋と丸口金。大丈夫、用具はもう揃えてあるから」
楓の視線につられ、グーリットはキッチンカウンターを見た。
なるほど、シェルの形にへこみが付いた鉄板が既に用意されている。
丸口金というのは、小さな金属製の円錐のことか。先端が切られており、そこから絞り出すらしい。
「そだな。菓子作りど素人の俺じゃ、いきなりは無謀だな。勉強させてもらうわ」
「グーリットさんならすぐに覚えられると思うし。焦らずやりましょう」
楓の励ましに、グーリットは頷く。まずは見て盗んでみよう。
「澄ましバターを作るところからスタートします」
「粉こねたりしないのか?」
楓の第一声に、グーリットは思わず突っ込んだ。楓は「うん、だってまずシェル型に澄ましバターを塗るから」と澄まし顔だ。
しかし、グーリットからするとそもそも用語が分からない。
「嬢ちゃん、悪いんだが、そのだな。澄ましバターって何だ?」
「えへん、澄ましバターというのはですね。バターをまず溶かします。それが溶けきった段階なら、溶かしバターと呼びます。その溶かしバターをさらに加熱すると、バターが三つの層に分かれるの」
説明しながら、既に楓は手を動かしていた。
冷蔵庫からバターを取りだし、それをナイフで適当なサイズに切り分ける。バター独特のあぶらっこい匂いが、ふわりと漂ってきた。
「これをね、鍋にいれて」
ぽんぽんと切り分けられたバターを、鍋に放り込む。中火で温められた鍋の中で、じわりとバターは液化を始めた。
「こうやって火にかけるの。焦げないように泡立て機でかき混ぜてっと」
ぐるりと大きな動きで。楓が泡立て機を使うたびに、ぽこりと小さな泡が立っては消える。
やがてそれもおさまり、黄色のどろりとしたバターが鍋の中を満たした。完全に液化している。
「溶かしバターの出来上がり。これはこれでマドレーヌに使うから、少し取っておいて。更にこの溶かしバターを加熱していくの」
弱火に落とし、じっくりと。
それを続けていくと、バターは三つの層に分かれていった。
鍋底に沈殿した乳しょう、その上の黄色い部分がバター本体だ。
澄ましバターはその上、表面近辺の透明度の高い油脂を指す。
「バター表面の泡をよけて、この透明な黄色い上澄みをすくう。そしてボウルに入れます。はい、これが澄ましバター。ブール・クラリフィエとも言うのよ」
「バターって黄白色の固まりなのに、こんなになるのか......すげえ透き通ってんな。光の結晶か?」
「まさか。でね、この澄ましバターを刷毛につけて、さっきのシェル型に塗るの。こんな風にね」
滑らかな手つきで、楓は工程を続けていく。刷毛がシェル型をすうと撫でる。シェル型の溝が澄ましバターを塗られ、とろりと光った。
澄ましバターの役目は二つ。
あとで生地を入れた時に、引っ付かないようにすること。
そして同時にマドレーヌの表面に風味付けすることだ。
「へえ、なるほどなあ。面白いもんだ」
グーリットは感心した。
しかし感心してばかりはいられない。楓の手順を覚えなくてはならないのだ。「よし」と短く呟いて、グーリットはマドレーヌ作りを観察することにした。




