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15.幕間 リシュテイル王国にて

 床に映った自分の顔を、ロゼッタは見るとも無しに眺めていた。床の一部に大理石が使われており、そこには塵一つない。大理石の模様はあのケーク・マーブルの切り口と似ており、無意識に体が震える。

 何というざまだ、そして何て元気のない顔だと、赤髪の女騎士は自嘲する。あのスイーツ決闘(デュエル)の敗北から一ヶ月が経過しても、そのショックが残っていた。


「面をあげよ、ロゼッタ。汝の敗北は残念ではある。しかし、けして恥ではない」


 頭上から重々しい声が響く。その声に従い、ロゼッタは恐る恐る顔を上げた。

 目に入ったのは、自分の前に立つ男の姿だ。五歩ばかり離れた位置に、白い法衣を着込んだ男がいた。 

 長身で痩せているが、けしてひ弱さはない。初老にさしかかっているはずだが、その黒い目は強い光を放っている。


 畏れ多いことだ、とロゼッタは思う。

 平時でさえ、この男と顔を合わせることは滅多にない。まして、今の自分は敗北者なのだ。


「申し訳ありません、大司教様......野試合とはいえ、一敗地にまみれてしまいました。挙げ句の果てに、サブレ・ノルマンなるお土産まで持たされ!」


「そう嘆くな、ロゼッタよ。これは単なる野試合だ。負けても大勢に影響はない。それに汝がもたらした情報は、何にも勝る価値があるというものだ」


「っ、そのようなことはけして」


「それにあのサブレ、中々に美味であったしな。よくぞ持って帰ってくれた」


「召し上がられたのですか......いえ、なんにせよ寛大な処置に感謝いたします」


 ロゼッタは一瞬だけ呆れた。

 けれど目に涙を浮かべ、感謝の言葉を口にする。

 男――ジューダス大司教はただ厳格なだけの人間ではない。リシュテイル王国を支える一柱だけあって、懐の深さも兼ね備えている。敗北にうちひしがれるロゼッタには、何より優しい言葉だった。


 ロゼッタが落ち着いたことを確認し、ジューダスは「ふむ」と唸る。どうしたものかと思案する。

 先日王国に帰還したロゼッタを教会に呼び出し、事の経緯を聞いた次第である。

 国王陛下に報告するのは当然だが、その前に今後の対策案を練る必要もあった。一日二日程度は報告を遅らせても、特に問題は無い。その程度の計算高さはある。


「それにしても困ったものだ。まさか異世界よりの菓子とはな。汝の味覚をもってしても、まるで相手にならなかったか」


 そう、驚くべき点はそこだ。スイーツについては、ロゼッタは舌が肥えている。野試合とはいえ、魔王軍相手に何勝もしていたのだ。

 けれども、その彼女がこれだ。

 今も時折「ケーク・マーブル、ココナッツアイスクリーム――うっ、頭がっ、くっ、殺せっ!? や、やめろ、これ以上食べさせられたら私はっ!」などと口走っている。

 目を潤ませている姿が艶っぽいと言えなくもない。しかしジューダスは神に仕える身だ。けしてそんな事は言わず、ただ哀れみをもってロゼッタを諭す。


「ロゼッタ・カーマインよ、スイーツの美味を感じるは罪にあらず。そう自分を責めるな」


「う、ううっ、申し訳ありません、すみません」


「仕方ないさ、お前で負けたんだったらな。そんな驚きのスイーツが出てきたなら、俺でも負けていただろうよ」


 一つの声が、二人の会話に横から割り込んできた。快活な若い男の声だ。

 ロゼッタが視線を投げると、その声の主と目が合った。

 教会の窓ガラス越しの透過光が斜めによぎり、男の顔を浮かび上がらせる。特徴的な紫色の双眼は、ロゼッタがよく見知った物だった。


「ユグノー・ローゼンベリー、いつからそこに」


 白を基調とした上品な礼服の裾を跳ね上げつつ、ユグノーと呼ばれた男はロゼッタに「さっきからさ。気がつかなかったかい?」と答えた。立ち姿からして見事だ。


 男は肩を竦める。

 色白の整った顔を、さらさらした黒髪が引き立てる。それでいてなよなよした感じはまるでなく、芯の強さがそこにはあった。

 繊細さと強さを絶妙なバランスで両立させた顔立ちは、大抵の娘を夢中にさせるだろう。



 人は彼をこう呼ぶ。紫眼の勇者、ユグノー・ローゼンベリーと。



† † †



 教会の静かな空気の中、二人の男と一人の女が向かい合っていた。その緊迫した静けさを真っ先に壊したのは、若い男の声だった。


「大体のいきさつは聞いたよ。ふん、あの魔王がまさか菓子職人になっているとは。意外だな」


 ユグノーはチッと舌打ちをする。

 かって彼は魔王アランシエルと戦ったことがある。聖剣と神装衣の二つの武具をもってしても、魔王を倒すには至らなかった。

 だが、何とか死なずにここにいる。それだけでも十分彼の強さの証明となっていた。


「信じがたいとは思うが、そういうことだ。ナノ・バースではあんな菓子は作ることは出来ない。恐ろしい技術だった」


「異世界の技術ってことか。その助手の若い女も、異世界から来たんだな?」


「ああ、間違いない。恐らく伝承にあるチキュウとかいう異世界だと思う。あの異世界は、高度な食文化や技術があるらしいから」


 ロゼッタの意見に、ユグノーとジューダスは頷く。

 地球以外の異世界があるかもしれないが、現時点では確認されていない。魔族領(ゼノス)でも、恐らくそれは同じだ。

 まるで未知の異世界からスイーツの技術を仕入れたという可能性も無くも無い。無いが、その確率は低いだろう。


「厄介だのう。

 今回の結果はともかく、大いなる菓子の祭典(グランドスイーツ)が懸念されるな。アランシエルにしても、恐らく全力は出してはいまい」


 ジューダスが口を開く。ユグノーが眉をひそめた。


「現時点では誰が抗っても負けそうだな。俺も菓子には舌が肥えているが、多分無理だろう。ロゼッタがこの調子では強気になれない」


「ああ、あいつらは強い。今も舌にあのケーク・マーブルとココナッツアイスクリームの......あの甘美な誘惑がっ! 私を苛むっ! 神よ、私の堕落をお許しください!」


「落ち着くのだ、ロゼッタ。ふむ、紫眼の勇者よ。私に一つ考えがあるのだが、聞いてくれようか?」


「何だ、大司教様?」


 ユグノーはジューダスの目を見据えた。大司教の黒い目は、深い闇にも見える。

 知恵者と名高いジューダスならばあるいは――とユグノーは期待しながら返答を待つ。


「まともにやっては、我々には勝ち目はない。悔しいが魔王の作るスイーツに対抗するスイーツを作ることも、それに抗う味覚を持つこともかなわぬ。ここまでは良いですな」


「異議なし。だからそれをどうやって」


「知れたこと。異世界のスイーツには異世界のスイーツだ。幸い時空魔法の使い手は、王国にも何人かいる。彼らの手を借りよう」


 ジューダスの提案に、ユグノーは頷いた。

 これは良案だろう。考えを先取りし、ユグノーが微笑する。


「つまりチキュウに転移して、あっちの菓子職人をスカウトしてくるんだよな。流石に向こうで修行する時間はないもんな」


「うむ、正解だ。それでだな、勇者よ。あなたにチキュウに行ってもらいたいのだ。時空魔法は他者にかけることも出来るからな。向こうから交信する手段さえ確立しておけば、誰が行ってもよい」


「は、待て、待ってくれ! 何で俺が異世界なんかにっ!?」


 思わぬ展開に、ユグノーはその紫色の目を見開いた。しかし勇者の憤りを前にしても、ジューダスは平然としている。驚くべき度胸の良さだ。


「当たり前ではないか。危険な異世界での行動だ、勇者ユグノー以外に誰が適任であろうか。それに勇者よ。今、あなたがこちらにいても何も出来ぬぞ。菓子作りをするわけでもないのだしな」


「はっきり言えば、ここにいても役立たずだから行ってこいと?」


「その通り」


「大司教様じゃなかったら、ぶん殴ってるぜ。ちっ、仕方ねえな」


 ため息一つ、それでユグノーは自分を納得させた。

 大いなる菓子の祭典(グランドスイーツ)まで残り十ヶ月を切っている。もたもたしている時間はない。ここはジューダスの案に従おう。


「ユグノー、お前本当にいいのか。すまない、私のせいで」


「いいって、気にすんなよ、ロゼッタ。こうなりゃ仕方ない。チキュウで最高の菓子職人、えーとパティシエだっけ、を連れてきてやるよ」


 心配そうなロゼッタに笑顔を見せつつ、ユグノー・ローゼンベリーは右の拳を握りしめた。元々覇気も勇気もある男である。勇者の称号は伊達ではない。


「それでは善は急ぐとしようか。まずは陛下に報告し、時空魔法の手はずを整えねばな。ある程度時間軸をずらせるとはいえ、それも限度がある。早めにこちらに呼び寄せよう」


 そう言って、ジューダスはくるりと背を向けた。カツンカツンと靴音を響かせながら、彼は勇者と女騎士から遠ざかる。


 しかし教会から出る直前、彼はふと立ち止まった。不審に思い、ロゼッタが声をかける。


「いかがした、大司教様」


 振り返らずに、ジューダスは答える。刃のような笑いが、その口調に混じっていた。


「いや、何。呼び寄せたパティシエが異世界のスイーツとやらを作ってくれるなら、私も賞味したいと思ってな。今から楽しみにしておこうか」


 その語尾が消えるよりも早く、ジューダスの姿は教会の扉の向こうに消えた。

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