11.挑戦者
風がサブレ・ノルマンの匂いを運んでいく。甘い。特にバターと卵の匂いが、傍を通った人の鼻をくすぐる。
気になったほとんどの人が振り返り、その魅惑的な匂いの源を探す。
「おい、あれさ、新しくアランシエル様が採用した人間じゃないか?」
「ああ、確かぱてぃしえーるだっけ。平民街にまで来るんだ」
「あら、何か美味しそうなお菓子ねえ。ほら、あんなに子供たちが集まっているわ」
彼らは魔族領の一員であり、そして魔王城に近い領土に住む者だ。
魔族領には人間も住んではいるが、その大半はそれ以外の種族である。
各種獣人の他には、蜥蜴の特徴を持つリザードマンや半人半馬のケンタウロスが多かった。
今、楓らを遠巻きにして見ているのは、そうした人外の者達だった。そして、楓からも彼らの姿は見える。
「ね、ねえ。なんかあたし注目されてない? 気のせいかな?」
シーティアとルー・ロウに思わず聞くと、二人は顔を見合わせた。まずシーティアが答える。
「注目されてますわよ。だってある意味カエデさん、有名人ですもの」
「何っ!? 何でよ! あたし、ただのパティシエールよ?」
「ただのパティシエールだから、ですわ」
驚く楓に、シーティアは右目をつぶる。軽いウィンクを受けて、楓は別の意味で動揺した。それを見たルー・ロウが補足する。
「シーティアの言う通りですよ、カエデさん。いいですか。地球のお菓子を作ることが出来るのは、今まで魔王たるアランシエル様だけだったのですよ。けれど、魔王様の仕事は菓子作りだけではありません。それに民に配るにしても、一人で作る菓子の物量には限界があります」
「うん、それは分かるよ」
「はい。そこに連れてきたのが、カエデさんなのです。もちろん一番の目的は、大いなる菓子の祭典における勝利の為です。ですが平時においては、純粋に菓子作りの助手として働かれています。つまりは、平民達にとってはおこぼれに預かる恩恵が広がる。少なくとも、そう見ているのですよ」
「理解出来なくはないわ。でも、そんなに皆楽しみにしてるの? たかがお菓子よ?」
「たかがお菓子でも、ですよ。ルー・ロウも含め、皆がお菓子を好きです。けれど残念ながら、ナノ・バースでは菓子作りの技術が未発達です」
ごく僅かに語尾に力をこめ、ルー・ロウは楓に語り続ける。いつになく真剣な表情だった。
「リシュテイル王国との戦乱により、菓子作りなど二の次、三の次でした。精々が砂糖漬けの果物や簡単なクッキーやビスケットくらいしか無かったのです。人間達とのスイーツ戦争に勝ちたいという理由も、もちろんあります。しかしそれ以上に――平和な時代の象徴として、皆お菓子を欲しているのですよ」
「ああ、だから――」
ルー・ロウの言葉には熱があった。
その熱を受け止めるように、楓は軽く唇を噛む。
パティシエールを志して以来、これほど期待されたことがあったか。あるわけがない。
日本でも、スイーツはむろん好まれる。けれど、これほど切望されてはいない。
スーパーに行けば誰だってお菓子は買える。街のケーキ屋でも簡単に手軽なケーキが買えるのだから。
"ここではそもそも手に入らないんだ"
そんな余裕は、ナノ・バースには無かったのだから。
菓子作りの技術を伸ばす余裕も、材料を揃えるゆとりも、それを作る人材も。何もかも。
「そうですよ、カエデさん。勝手なこと分かっています。でも、あなたが作る美味しいお菓子を皆が期待してるんですの」
シーティアのその言葉に、楓は振り向く。
彼女の後ろには、獣人の子供達が並んでいた。サブレ・ノルマンは食べ尽くされてしまったのか、一個も残ってはいない。
十四、五人の子供が集まれば、六十個のサブレなんかあっという間だった。どの子供もいい笑顔をしている。
「お菓子おいしかったー! ありがとー!」
「あたし、こんな美味しいお菓子初めてー、お口の中でほろほろ~ってしてて」
「甘くて、卵の匂いがふわーってしてた!」
わらわらと子供達が寄ってくる。圧倒されながらも、楓は自分の顔が緩むのを感じた。
しゃがんで目線を合わせながら、ぐるりと子供達の顔を見る。
「あたしこそありがとう。皆に食べてもらって嬉しかった。また作ってくるからね」
わっと歓声があがる。
ダイレクトに手応えがあることがこれほど嬉しいとは、予想していなかった。自分の技術がこの子達の笑顔を生んだ。それが誇らしい。
笑顔が自然とこぼれた。そんな楓を見ながら、シーティアがルー・ロウに声をかける。
「良かったですわね。あんなに喜んでくれてますわ」
「子供達が? それともカエデさんが?」
「両方に決まってますでしょ、もう。ん、待って。ルー・ロウ、気がつきました?」
「ああ、今気がついたばかりだけどね」
二人の声が低くなる。
午後も遅い時間となり、陽射しは赤みを帯びていた。ゆっくりと黄昏へと向かう街へと、サキュバスの少女は視線を走らせる。
それと同時に、ルー・ロウは三歩前に出た。黒い執事服に包まれた右腕が上がる。
「誰だ、そこにいるのは?」
彼が声をかけたのは、一軒の建物の方角。暗い陰になっており、そこには誰もいないように見える――常人には。だが、ルー・ロウは常人ではない。
「おや、見つかってしまったか。中々やるじゃないか、インキュバスの坊や」
伸びのある声と共に、何者かが陰からこちらへ踏み出した。長い赤髪がルー・ロウの目に留まる。
人間の若い女だ。二十歳を少し越えたくらいに見えた。見た目は普通の旅装であり、特別な点は無い。
けれど、ルー・ロウの警戒心は一気に高まる。
「何者か、お前。一目で僕をインキュバスと見破るなど、ただ者ではないな」
「ふふ、よく見知った魔物だからな。私なら造作もないよ。そこのメイドはサキュバスだろう?」
「あら、お分かりになるのね」
見抜かれたと分かり、シーティアも前に出る。
多分リシュテイル王国の者か。赤髪の女というキーワードから、一つの名前が浮かんだ。
シーティアの可憐な唇が開く。
「もしやロゼッタ・カーマインですの?」
「名乗る必要がなくて助かるよ。こちらのオークの衛兵よりは、君らの方が察しがいいらしい。おい、もう帰っていいぞ。この子らに聞くから」
ロゼッタと呼ばれた女が背後を向く。
そこからこそこそと顔を覗かせたのは、二匹のオークだった。
怯えとバツの悪さに、顔をひきつらせている。
「す、すいやせん、ルー・ロウの坊っちゃんにシーティアのお嬢! 俺ら、この女に脅されて!」
「魔王様にスイーツ決闘を挑みたいと言われ、道案内を押し付けられてっ! 面目ねえ!」
不穏な気配が平民街に満ちる。ほのぼのした雰囲気は消えており、群衆達は怖そうにその場を退いている。
この空気の変化に気がついたのは、里崎楓も例外ではなかった。怯える獣人の子供達をかばいつつ、眉をひそめる。
「えっと、スイーツ決闘ってことは、この人挑戦者?」
その質問に堅い声で答えたのは、ルー・ロウだった。
「はい。思い出しました、ロゼッタ・カーマインだ。先の戦争時に、魔王様とも剣を合わせた女騎士です。強いですよ」
「で、でもそれって実際に戦っての話でしょ。スイーツに関しては別よね?」
「それが悔しいことに、スイーツにも強いんですよ。何回かのスイーツ決闘で、魔王軍の職人が倒されています。被害甚大です」
それはヤバいのではないか。
ようやく楓も事態のまずさを察した。
恐る恐るロゼッタの方を見ると、目が合った。ぎゅっと心臓を掴まれたような錯覚。
「ん、何だ。人間の女性? 王国からの逃亡者でもなさそうだな」
「逃亡者なんて失礼ね。魔王アランシエルの助手こと、カエデ・サトザキよ。職業パティシエール、よろしく」
「パティシエール、ああ、女性の菓子職人か。その黒髪に黒い目、こちらの世界の者ではないな」
ロゼッタは馬鹿ではない。
この場に漂う珍しい菓子の残り香と楓の珍しい髪と目の色から、楓が異世界人だと割り出した。
楓の沈黙を肯定と受け取り、ロゼッタは微笑する。
「ふ、異世界からわざわざ助手をつれてこなければならないとはな。魔王もヤキが回ったと見える。助手がこんなちんちくりんでは、魔王も大した菓子は作れまい」
「は?」
あからさまなロゼッタの嘲笑に、楓の顔がひきつる。
自分はいい。自分の見た目は馬鹿にされてもいい。
だがアランシエルの腕を馬鹿にされたのは、見過ごせなかった。
「何か文句でもあるのか、カエデとやら」
「あるから言ってるのよ。あなたも騎士を名乗るなら、口より先に実力で勝負なさいよ。それとも何、アランの前に出るのが怖いから、私に喧嘩売るくらいしか出来ないの? とんだ腰抜けよね、リシュテイル王国っていうのも。こんな人材しかいないんじゃ、たかが知れてるわ」
「――言うじゃないか、その言葉忘れるなよ」
西日が徐々に傾く中、楓とロゼッタはにらみ合った。
楓にとって初めてのスイーツ戦争が、ここに幕を開けたのである。




