1.フロマージュ・キュイ
ふっと鼻先を掠める香りは甘い。それはクリームチーズ独特の、どこかくすぐったさを感じさせる香りだった。
里崎楓にとっては、馴染みのある香りだ。それもそのはず、彼女は毎日のように職場でそれを扱っているのだから。
けれども、その香りに懐かしさを感じる暇は無い。そんなのほほんとした思いを抱く暇は無い。楓の目の前の光景のインパクトが、それらを吹き飛ばしている。
「本当に自分でお菓子作っているんだ」
ぽつりと楓は呟いた。視線の先で、白いコックコート姿の背中が動く。正確で滑らかで、妥協を許さない動作で。
「クリームチーズとバターを手で混ぜる。カエデも知っているとは思うが、この処理は泡立て器は使わない。手で揉みほぐすようにだ」
「知ってるわよ、素人じゃないんだから」
「ならばいい」
振り向かないまま、コックコートの人物が声をかけてきた。楓の憮然とした返事を、まるで気にしていないようだ。
その人物の大きな手が、クリームチーズとバターの塊を潰していく。チーズの白色とバターの黄色が、徐々に境界線を無くしていく。
「あまりやり過ぎると、逆に分離する。少し固めのペースト状になったら、次に牛乳」
とぷん。
その言葉通り、ボウルに牛乳が注がれた。そして更に、手が揉みほぐしていく。しなやかに、速く、正確に。
「そしてグラニュー糖を加えて、ここからは泡立て器を使って混ぜ合わせる。力強くな。おっと、クランブルの生地は......まだ焼けていないか」
人物の視線につられるように、楓も左方向に視線を流した。
キッチンの上に鎮座しているのは、オーブンだ。綺麗な赤色のオーブンは現在稼働中、耐熱ガラス越しに中が覗ける。
「ならば良し。ここに卵黄を加えて、更に混ぜる」
人物の左手が小さなボウルを掴み、それを注ぎ入れた。既に用意されていた卵黄が、トロリと流れ落ちる。
黄色みを増した生地を、コックコートの人物は更に泡立て器でかき混ぜる。シャカシャカと滑らかな音が、楓の耳に優しく届いた。
その工程が終わると同時に、次は生クリームに取りかかる。別のボウルに生クリームを入れた。
これを泡立てるのは、ハンドミキサーだ。低速で回るハンドミキサーが、優しく空気を混入させていく。空気を含んだ生クリームは、新雪の色でありながら柔らかな印象を与えた。
楓の目は釘付けだ。パティシエールである彼女は、この菓子を知っている。だが、自分がやったとしても、こうも上手く作れるだろうか。自問――答えは否だった。
「さて、この生クリームを加えて、更に泡立て器で混ぜよう。生クリームが馴染めばいい。あまり時間をかけすぎないように。そして次はメレンゲだ。卵白を軽く泡立てて」
また別のボウルを使う。白い卵白が低速のハンドミキサーで撹拌された。そこに人物は、グラニュー糖とコーンスターチを投入する。分量も事前に測っていた為、正確に違いない。
角がきちんと立つくらいが、メレンゲの固さの目安。楓が昔教わった通り、その固さまで泡立てていた。
この時、既にオーブンは焼成の終わりを告げていた。取り出された茶色のクランブルの生地は、粗熱を放出している。
カリカリに焼けたクランブルは、それだけでも十分美味しい。けれど、この菓子に於いては土台にしかならない。
「さあて、そろそろ終盤だ。このメレンゲを先のボウルに入れて、泡立て器で馴染ませる。クリームチーズ、バター、牛乳、グラニュー糖、卵黄、生クリーム、メレンゲが一体化した生地が、この菓子の本体だ。固さは泡立て器で持ち上げたら、ゆっくり落ちるくらいだな」
「だから知ってます、あたしだってそれくらい。あなたが上手なのも分かりますし」
「そうか、分かるか。分かるなら良い。次はこうだ。ザクザクに砕いたクランブルを、直径15センチの型に敷き詰める。そこに先ほどの生地を流し込むんだ。ここから普通に焼いても作れなくはない。ないのだが、余はそうしない」
コックコートの人物は、ちらりと楓の方を見た。その血のような赤い瞳に身をすくませつつ、楓は頭を横に振る。
「ちょっと分からないかな。チーズケーキは普通に焼いても出来ますよね?」
「無論それも間違いではないさ。だがな、こうしてバットに湯を入れて、そこに型を置けば」
一度言葉を切り、その人物はバットを丁寧に持ち上げた。既に170℃に余熱されたオーブンの中に、静かにバットを入れていく。大きな手に似つかわしくない、丁寧な作業だった。
「湯せん焼きとなる。より柔らかく、ふわりとした食感が楽しめるという訳だな。覚えておくといいぞ」
「はい」
ここは素直に頷いておこう。楓は頭を下げた。楓はこの人物を信用はしてはいない。けれど、パティシエとしての腕は確かなようだから。
焼成は順調だった。170℃で三十分、その後180℃で二十分。コックコートの人物はその間、ずっとオーブンの前にいた。焼き上がりを確認すると、そろりとオーブンを開く。
開いたオーブンの蓋から、豊かな甘い匂いが溢れ出す。馴染みの匂いにもかかわらず、楓は思わず唾を飲み込んだ。
湯せん焼きで蒸されたチーズの香りだ。砂糖や生クリームと一体化したそれは、たやすく食欲を刺激する。
「うむ、良い焼き上がりだな。見るがいい、カエデ。この見事な狐色を。幾分熱が弱かった箇所が黄色いのも、また良いアクセントになっているではないか」
「見れば分かりますよ! うわ、それにしても上手ね。悔しいけど負けたわ」
「ふふん、当然であろう。余が何年パティシエの修行に打ち込んだと思っているのだ。六年だぞ、六年!」
そこで一度黙り、その人物は白いコックコートを翻した。同色の白いコック帽からは、幾分癖のある金髪がはみ出している。黄金の髪は褐色の肌を引き立て、精悍さが際立つ。
「六年か、よく我慢したわよね。その、あなた魔王なのに」
「そうさ、この魔王アランシエル――人間界での厳しき修行を経て、最強の力を手にしたのだ。甘美なるスイーツの魅力の前には、どのような強固な意思も無力というものよ!」
「う、うん。なんかそういう台詞聞くとさ。どう反応すべきなのかなあ」
はああ、と長いため息をつきながら、里崎楓は自分のコック帽を被り直した。
いや、うん。この目の前の男が魔王とやらでなければ、素直に凄いパティシエだと褒め称えられるのだろうけれど。
そんな楓の苦悩も知らず、魔王アランシエルはそそくさとケーキを切り分けている。
まずは、自分のパティシエとしての腕を知れ。そう告げて、彼が意気揚々として作ったお菓子がこのケーキだ。
「クリームチーズを惜しみなく使ったフロマージュ・キュイだ。土台のクランブル生地のザクザク感。そして、メインのケーキのふわふわねっとり感が特徴だな。そのコントラストの鮮やかさに、酔いしれるがいい」
「うっ、見るからに美味しそうね」
アランシエルの言う通り、フロマージュ・キュイの魅力はその対照性にある。土台と生地の絶妙なバランスが生命線だ。そして、その食欲を刺激し続ける甘い甘い匂いは、楓の忍耐力を溶かしきっていた。
差し出されたフロマージュ・キュイを、遠慮なくフォークで突き刺す。大きめにカットしたそれを、楓は口に入れた。
「っ、わぁ、これ」
舌が感じたのは、ほろりととろけるような舌触り。ほどよく蒸し焼きにされた生地は、クリームチーズのとろけるような舌触りをメインに、様々な風味を含む。
バターがコクを、生クリームが柔らかな甘みを添えている。メレンゲが全体をまろやかに整え、卵黄のふっくらした食感をより引き立てていた。
「美味しい、これ、すごい好きな味かも」
呟きながら、二口目に取り掛かる。土台のクランブル生地が、ざくりと口中で砕けた。僅かに塩を利かせているらしく、それがまた香ばしい。柔らかなフロマージュの生地と風味が、更にそれで引き立てられている。
うん、確かに美味しい。この人、凄いパティシエかも。
頭の中に広がる考えは、舌の上の幸福で補強される。フロマージュ・キュイはそこまで難易度の高いケーキではない。だが、シンプルだからこそ、技術が光るケーキでもある。
「どうだ、気に入ったか。カエデが仕えるに不足のある腕ではあるまい」
自信満々に、アランシエルが楓を見詰める。その真紅の瞳の艶やかさは、何故か楓の心を強く打った。魔王の癖に、と心の中で舌打ち一つ。けれども覚悟は定まった。
「いいわ、あなたの傍らでアシスタントしてあげるわよ。その代わり、一年間だけだからね!? あなたの言うスイーツ戦争が終わったら、地球に返してよね!?」
「ふっ、余は約束は違えぬ男だ。仮にも魔王なのだからな」
コック帽を取りながら、アランシエルはにやりと笑った。不敵で自信溢れる笑みだった。
ただ、フロマージュ・キュイの甘い匂いとは、余りにも似合わない笑みではあったけれども。