08
――お客様だわ。
洗濯物籠を抱えたシャンテは、そっと建物の影に隠れた。場所は修道院。まだ、シャンテが行儀見習いで修道院に預けられていた頃のことだ。
シャンテがいつも洗濯物を干す場所に、立派な服を着た男性が数人立っていた。風が良く通り抜けるそこは、少しだけ高台になっている。柵の向こうを指さし、手元の地図を見ながら、男性たちは会話していた。
洗濯物を干すのは、中々うるさい。叩いたり、翻したり。
今は行けないか。
籠を両手で抱えたまま、シャンテは中腰になった。
建物に寄りかかり、膝の上に籠を置く。これ以上近づけば会話を聞いてしまうかもしれない。貴族の家で育ったシャンテは、男達の会話を盗み聞きしてはいけないと、大層厳しく育てられた。女が知らなくていい、国や金の事を話しているからだろう。
春の陽が心地よい。ふああ、とひとつ欠伸が出た。早く終わらないかな、と思い始めたシャンテに、強い叱責が飛んでくる。
「レディ・シャンテ!」
びくりと体を震わせて、シャンテは瞬時に立ち上がった。
「何をやっているのです。仕事をさぼって居眠りなど――あなたのお父様がお聞きになったらどれほど嘆き悲しむことか!」
厳しい副院長に見つかってしまった。今日はもしかしたら、食器洗いを一人でさせられるかもしれない。
シャンテは籠の中の衣類を落とさないように、深く腰を落とした。
「申し訳ございません、副院長様」
「謝罪を求めているわけではありません」
下手に言い訳をすると火に油を注ぐと知っていたシャンテは、重ねて「申し訳ございません」と謝った。
「あなたのお母様がこの修道院で過ごされた経緯から、あなたも引き受けていますけど……お母様と違って中々私達を理解していただけない様子。貴族の暮らしが懐かしいかしら? 堅実な生き方はお嫌い?」
「いいえ、副院長様」
「伯爵家ご出身のお母様は、大層ご立派でしたのに……」
シャンテはうつ向いたままぎゅっと唇を噛んだ。副院長は、伯爵家から家格の低い男爵家に嫁いだ母を貶めるのが好きだ。もちろん、私や、父を貶めることも。
自分への叱責はかまわない。あくびをしてしまったのは自分のせいだ。怒られるのも仕方ない。
シャンテはぎゅっと籠を抱きしめた。
だけど、両親のことを冒涜されるのは――
「やあ君、すまないね。待っていてもらって」
突然、低くて、優しい声が頭上から聞こえた。シャンテに大きな影がおりる。
驚いたシャンテは顔を上げた。そしてさらに驚く。シャンテが見たこともないほどの美丈夫が、シャンテに向かって微笑んでいたのだ。
「副院長もすみません。人目のない場所で会議をしたかったため、彼女にここで待っていてくれないかとお願いしたんですよ」
そんなこともちろん、シャンテはお願いされていない。
シャンテが自己判断でここで待っていたと知れば、きっとまた叱られるだろうと慮って、庇ってくれているのだと気づいた。
シャンテの肩に、大きな手の平が乗る。男性に抱き寄せられることなんて、初めてで、何も言えずに固まってしまう。
「ま、まぁそうでしたの、ドルミール卿」
副院長は乱れた裾や頭巾をなおしながら微笑む。
「この修道院の方々は皆親切だ。きっと副院長をはじめ、みなさんの目が行き届いているからでしょうね。僕も領主として鼻が高い」
「ま、まぁそんな、そんな。お褒めに預かり光栄ですわ……」
すごい……副院長のこんな声、初めて聞いた。
シャンテは、あまりにも驚きすぎて口を開けたまま二人を見比べていた。明るい色の髪をした男性が、そんなシャンテに気付いてパチリとウィンクを飛ばしてくれる。
シャンテは初心な娘らしく、首まで真っ赤に染めて俯いてしまった。
嘘をついているというのに、余裕のある表情。堂々とした態度。副院長を骨抜きにする魅力。
――そして、仕事を中断してまで、両親を侮辱された少女を救おうとする、誠実さ。
きっと父と同じほどの年齢の男性だろう。そんなに年上の人に、こんなことを思うのはおかしいに違いない。
シャンテはそれからずっと、忘れられなかった。
ずっと、ずっと。
忘れていなかった。
***
「ドルミール様、今、なんとおっしゃいました?」
シャンテは伸ばしていた背筋を、さらに伸ばした。彼の前では一度だって、シャンテは気を抜いたことがない。あの時、跪かれてから……ずっと。
一番美しい、自分を見てほしいから。
「君はここより南で生まれ育ったから、寒さが堪えるだろう? 本格的な冬に入る前に、ご実家でゆっくりしてきてはどうかと思って」
君には随分頑張ってもらったから。そう告げるドルミールは、ここ数日浮かべることの増えた、どこか作り物めいた笑みを浮かべている。
「……それは」
帰れと、言うことですか。
シャンテは言葉に出来ずに口を噤んだ。
ここずっと、ドルミールは様子がおかしかった。
まず、シャンテとの時間を作ることを止めた。以前はもっと家にいてくれたのに、いつからか帰ってくるのは深夜。修道院暮らしの癖は抜けず、シャンテは結局、彼との夜の時間を持てずにいた。
次に、あれだけ多かったスキンシップが無くなった。気づけば抱き寄せられているほどだったのに、同じ部屋にいても手を伸ばされることさえなくなった。
そして、歌の話題を、とにかく嫌がった。
シャンテが彼の前で歌うことを禁じられてから、随分たつ。
どうにか彼に眠ってほしくて、禁止されつつも歌おうとするシャンテを、ドルミールは何度も窘めた。
シャンテに歌を禁じる以前に、彼が呼びつけていた吟遊詩人。シャンテはドルミールに隠れて、彼に歌を習っていた。歌を習っていると言えば、また「焦るのはよくない」と窘められると思って、ドルミールには言えなかった。
どれほどドルミールの役に立ちたいかを力説するシャンテの恋心など、星の数ほどの恋の歌を歌ってきた吟遊詩人には、火を見るよりも明らかだったらしい。彼は親身に、そして真摯に練習に付き合ってくれた。おかげで、きっとドルミールの前でも歌えるようになったとシャンテは思っていた。
だから、告げたのだ。
――きっともう、ドルミール様の前でも歌えると思います、と。
そのシャンテにドルミールが告げたのは、実家に帰れという、無情な言葉だった。
「こちらの我儘で、随分と振り回してしまった。すまない……。君の望みは、ここで叶えられないことが多いだろう? ……もちろん君の不名誉にはしない」
シャンテは愕然とした。無様に足が震える。こんな日が来ることを、想像しなかったわけじゃない。
彼の役に立ちたいと思う片隅で、ずっと、ずっと危惧していた。
だからあれほど焦っていたのだ。
彼に見切りを付けられないように、彼の傍にいられるように――
日頃、ドルミールの前でこれほどの失態を見せたことがないシャンテの動揺に、ドルミールも釣られたのだろうか。いつも一定の声色が、乱れている。
「君に不手際があったわけではない。君がどれほど頑張ってくれたかは、私が一番……」
「私に不手際が……? 無かったわけ、無いじゃないですか……。だって……歌が、あなたの望む歌が、歌えないのですから」
ひく、と喉が鳴った。同時に、見開いている瞳から、ポロリと涙が零れる。
執務机に座っていたドルミールが慌てた。
「励んでくれていることは知っていた。だが、あれほど気には病まなくていいと……」
「気に病まないはずが、ないではありませんか……。私の価値は、歌だけなのに……」
恋をしている男に、歌のために早く自分を好きになれと言われたのだ――
あのことは、シャンテの中で深く根付いていた。
シャンテにとって、ドルミールの取る行動は全て、歌のため。
ドルミールが優しくするのも、甘やかしてくれるのも、全て――
「そんなわけがないだろう!」
大きな声だった。ドン、と叩かれた机から、書類が崩れ落ちる。舞う書類を、部屋の隅で気配を消していたレヴェイユが、慌てて掴んだ。
「君はっ……そんな悲しみを、なぜ溜めていたっ!」
ドルミールが怒鳴っている姿など、初めて見た。
「君の価値が、歌だけだって? 僕と君の時間は全て、君にとって意味のないものだったのか?」
穏やかな彼が今、想像さえ出来ないほど怒りに身を震わせて叫んでいる。
「私は君を、枕のように扱っていたか?! 君を、まるで、道具のようっ――」
「……にっ!」
「……何?」
「……枕にっ……私は、枕になりたかったんです!!」
シャンテは勇気を振り絞って叫び返した。
今度はドルミールが驚く番だった。
「私は、ドルミール様の、枕になりたかった。ずっと、このお屋敷に来てから……ずっと……。あなたが、心底安らげる場所になりたかった……」
ずっと、ずっとだ。
シャンテはぎゅっと両手を握りしめた。
怒りが削げ落ちた顔で、ぽかんとしてシャンテを見返す。
今までにない力強さで、シャンテがドルミールを睨みつけた。
「とにかく――聞いていただきます! 一度でいいのです。これでドルミール様が眠らなければ、私は大人しく実家に帰りますから」
これまで、唯々諾々とドルミールの言うことを聞いていたシャンテとは思えないほどの、力強さだった。ドルミールは、あれほど聞きたくないと言っていたのも忘れ、こくこくと首を縦に振ることしか出来なかった。
シャンテが息を吸う。瞳を閉じて、喉を開いた。
「――夢を見ているの、幸せな、優しい夢を」
――夢を見ているの、大好きな、あなたの夢よ
――朝焼けも、夕焼けも、見る度に思い出すの
――何を見ても、あなたを思い出すの
――私はいつも、想っているわ
――そういつも……
歌い終わり、瞼を開く。
一つ深呼吸をして、シャンテは顔を上げた。
ドルミールと、目が合う。
目が、合う。
……。
「……じ、実家に、帰らせていただきますっ!」
シャンテは、執務室から飛び出した。




