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07

 いつまでもベンチでミノムシになっているわけにもいかない。ドルミールは寒さに震えながら、屋敷へと戻った。

 凍える主人を出迎えたのは、暖炉の炎とあたたかいお茶。先ほど追いやられた仕事の出来る従者は、したり顔で主人の世話をする。礼を言いつつ、ドルミールは椅子に腰かけた。

 温かい紅茶を手に、外を見やる。

 窓ガラスの向こうを、花びらのように雪が舞っている。

 頭が働かなくて、ぼうと見ていた庭に今朝別れたばかりの小鳥の姿を見つけ――固まる。


 後ろに侍女が控えているものの、シャンテの隣に見慣れぬ若い男が歩いていたからだ。


 ドルミールは窓を開けた。男の顔を見ようと、身を乗り出して目を凝らす。

「……レヴェイユ、あの顔に心当たりはあるか」

 新しい下僕にあんな顔はいなかった。ドルミールの隣にやってきたレヴェイユは窓から庭を見下ろすと大きく頷く。

「先日許可をいただき、滞在させている吟遊詩人です。旦那様にも一度目通りをすませております」

「……そういえば、いたような気がする」

 いい年をして浮かれているのは恥ずかしい限りだが、最近仕事とシャンテのこと以外、さほど記憶に残らない。吟遊詩人の逗留を許したのも、歌で悩むシャンテの役に立てばと思ってこそだ。あの時はまだ歌を遠ざけてはいなかったから、彼女にも吟遊詩人との交流を勧めていた。

 先ほどまでドルミールが座っていたベンチに、二人が腰掛ける。


「……ははは、そうか。じゃあ君は――」

「――なの。おかしいでしょう。その時ね――」


 階下から笑い声が響く。

 あの様子では、ドルミールの思惑通り、シャンテは吟遊詩人と親しくなっているようだ。歌の相談も出来るだろう。相応の面白くなさは感じても、これでシャンテが悩まなくなればいいと、ドルミールは思った。


「あはは……そんなことってあるのね――あなたはどう言ったの――」


 いつも困ったような笑顔や、焦った顔や、すました顔ばかりのシャンテの、満面の笑顔。笑い声なんて、きっと初めて耳にした。


 二人は何処からどう見ても、お似合いの、若々しいカップル。


 ドルミールは立ち上がる。盗み見ているようで居心地も悪かった。仕事でもしようと書類に手を出した時、リュートの音が聞こえた。


 ――ジャラン ジャラン


 今から曲を弾くのだとすぐに悟った。


「窓を閉めろ」

「はい?」


 ドルミールは踵を返した。自分で動いた方が速いと思ったからだ。勢いよく窓を閉める。幸いにして、大きな音は立たなかった。

 窓を閉める時、ほんの少しシャンテの声が聞こえた。やはり、ドルミールの想像通り歌っているのだろう、二人で。


「旦那様?」


 カーテンを引き、窓から離れる。

 決して、一小節だって、耳に出来るはずがない。


 あの男の隣にいる彼女が歌って、


 もし眠ってしまったら。


 ――それは、彼女が、彼に。

 心を開いているということに、他ならないではないか。




***




「お帰りになられていたのですね……呼んでくださったらよかったのに」

 足早にドルミールの元にやってきたシャンテは、後半は年相応の少女らしく拗ねてみせた。

「ただいまシャンテ。僕も一刻も早く可愛い君に会いたかったよ」

 その甘えが無性に嬉しくて、ドルミールは彼女の腰を抱く。


 抱きしめることにも、頬を包むことにも、髪を撫でることにも、シャンテは抵抗を見せなくなった。それを心の変化だと思っていた。

 だけどシャンテが抵抗したのは、たったの一度だけ。ドルミールがシャンテの素肌に触れようとした時だけだ。

 大人との恋に慣れ過ぎていて、彼女がまだ16の少女だということを、ドルミールは忘れてしまっていた。


 遠慮していたのだろうか。自分の二倍も生きた親父には、ものを言いにくかったのだろうか。それが淑女として育てられた貴族の女の模範態度だとはわかっていても、落ち込んだ。ドルミールはもっと、彼女に心のままに我儘を言ったり、甘えられたり、時に、時たまでいいから、愛を囁いたりしてほしかったのだ。


「資料を忘れて取りに帰ってきていたんだ。君は今日は何をしていたんだい?」

 嘘八百を並べたて、シャンテを腕から離す。

 いつもなら、抱いたまま会話を続けるためか、シャンテが驚いたように、パチリパチリと瞬きをする。


「私は、ええと――」

 シャンテは一度上を向いて、下を向いた。吟遊詩人と歌の練習をしていたことを知っているのだから隠す必要はないのにと、ドルミールは少しだけ胸を疼かせた。

 それとも、すぐに返答出来ないような何かがあったというのだろうか。


 心を惹かれた? 胸を躍らせた? 庭で楽しそうに笑い合っていた彼に、何か言われた?


 可愛いと? 歌が上手いと? そんなこと。


 何十回だって、何百回だって言っているのに、あんな笑顔を向けたことは、ないではないか。


 まだ慣れていないドルミールに笑みを向けられないことは、仕方がない。時間をかけて、ゆっくりと馴染んでいってくれれば――そう、ずっと、思っていたドルミールの心にあの時、ひびが入った。


 シャンテが何かを纏めようとしている。彼女との会話を、これ程せっつきたくなったのは、初めてだった。


「庭を、散策しておりましたわ」


 シャンテがやっと吐きだした、嘘ではない話。


「そう」


 ドルミールは自分が思っているよりもずっと、冷たい声を出してしまった。




***




 シャンテと吟遊詩人は順調に歌の練習を進めているようだった。ドルミールが仕事を終えて屋敷に戻ると、リュートの音が聞こえてくることもしばしばだった。


 シャンテは、ドルミールには吟遊詩人との時間を内緒にしておきたいらしい。

 彼女が吟遊詩人と練習していることを、なぜ知られたくないのか、ドルミールには判断もつかない。

 ただ、理由がなんであっても、どうであっても、ドルミールは知りたくないなと思った。





 憂鬱だ。

 屋敷に戻る度に、ドルミールはそう感じるようになっていた。


 シャンテが来てから屋敷に帰る時間も増えていたが、最近は必要最低限のみ。あれほど連れ立っていたピクニックも観劇も、天候を理由に行き渋っている。

 しかし今日は、かつてシャンテに吐いた嘘のように、本当に忘れ物をしてしまった。持って来させるわけにもいかないと、ドルミールは久しぶりに昼間の帰路を辿る。


 つい数日前までは、シャンテと何をしようかわくわくしながら帰っていたというのに――年甲斐もない己の狭量さに、ドルミールは溜息を堪えられなかった。


 表に馬車を止める。レヴェイユを連れ立ってホールに入ると、一目散に階段を上った。寄り道もせずまっすぐ執務室に向かっているというのに、神様はずいぶんと意地悪だった。


 ――シャンテと、吟遊詩人だ。

 リュートの音と笑い声が廊下に響く。


 ドルミールの屋敷の使用人は、彼らを二人きりになど、絶対にしない。少し隙間の空いた扉から聞こえたシャンテの声に、ずきりと胸が痛んだ。


 関係ない。シャンテは歌うことを、務めだと思っている。務めのために、講師に師事しているだけだ。同年代の友人のように、気兼ねなく。

 ドルミールだけでもそう思っていなければ、屋敷はたちどころに、彼女にとって居心地の悪いものへと変わってしまうだろう。


 彼女が歌えるようにならなければ、きっと彼女の心は苦しいままだ。今一時、自分が我慢すればいいだけだと、ドルミールは感傷を振り切ろうと大股で一歩踏み出した。


「好きな人のこと?」


 そのまま、足がくうで止まる。


「そう、その人を思い浮かべながら歌ってみよう。誰でもいい。親しい友人でも、故郷の家族でも――」


 胸の鼓動が、うるさい。

 シャンテの声が聞こえなくなりそうなほど、大きく鳴っていた。


 ――シャンテの好きな人


 ドルミールは拳を握った。貴族の娘の多くは、母親が指示した男性と踊り、父親が相手を決める。娘は無垢なまま嫁ぐのが慣例だ。心までも。

 13歳から修道院で暮らしていたのだ。それまでに好いた男を作っていたとは考えにくい。シャンテに男の影はなかった。これまでは、一度も。


 屋敷に来てからは、もちろん侍女が四六時中傍にいるため、他の男と親密な関係を築くことは無理だ――当主の許可でも、無い限り。


 ――ドゥロロロン……

 リュートの音が、部屋から漏れてくる。


「好きな、人……」


 逃げそびれた。

 違う、逃げなかったのだ。


「もちろん、旦那様でも」


 彼女の口から――


「もうっ。あなたって嫌な人」


 いないと、聞きたくて。



 息を吸う。

 彼女の歌う前の癖だ。


 駄目だ。

 震える足で一歩下がった。


 絶対にこれだけは、眠りたくない。


 体が動かない。ドルミールは、すぐ傍にいたレヴェイユに目配せをした。


「――夢を見ているの、幸せな、優しい夢を」


 駄目だ。

 レヴェイユの腕が伸びる。


「――夢を見ているの、大好きな、あなたの夢よ」


 駄……目……




***




 もう、彼女の歌は聞けない。


 他の男を思って歌う彼女の歌で眠るなんて、もう二度とごめんだった。






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