06
――あの子は、どんな子だろうか。
ドルミールがシャンテに抱いていた感情は、これに尽きる。
明るい子だろうか、しとやかな子だろうか、年は若いのだろうか、平民だろうか、貴族だろうか、歌が好きなのだろうか、他には何が好きだろうか。
夏に彼女の歌を聴いてから、暇を作っては修道院へと通った。
折よく、いつも仕事に従事していた彼女は、手を動かしながら色んな曲を口ずさんだ。どの曲も、ドルミールは一小節も聞かないうちに眠くなる。
心待ちしていた彼女に会いに行って、数秒も経たぬうちに、待望の眠りに落ちる。
ドルミールにとって、シャンテはいつしか、希望を携えた奇跡の小鳥となっていた。
仕事に忙殺され、未だ身を固めていなかったドルミールが、彼女に婚約を申し込もうと思ったのは自然の流れだった。性急に、しかし確実に、彼は男爵家に求婚した。王城で確かな地盤を築き上げていたドルミールの要望は、家格の後押しもあり、すぐさま叶えられた。
初めて顔を合わせた少女は、素朴な子だった。
しとやかな貴族の若い娘で、歌が好きで――
――私の拙い歌でよろしければ……全身全霊で、お仕えさせていただきます。
人のために懸命になれる、優しい子であった。
心を傾けるなというのは、到底無理な話。
ドルミールの為に試行錯誤しながら、まっすぐに努力してくれる姿勢に。そして、ドルミールの願いを叶えたあとに、自分の事のように喜んでくれた優しさに。ドルミールは完全にやられてしまっていた。
シャンテの為に帰宅した。シャンテを起こすための寝不足なら、それも悪くないと思えた。シャンテの希望なら何でも聞き入れたかった。
ドルミールは、歌よりも眠りを望んでいたはずなのに――彼女が傍らでさえずる時間が一秒でも長引けばいいと思うようになっていた。
リラックス状態のシャンテの歌が、ドルミールにとっての薬となる。
はっきりとわかった時、ドルミールは心底嬉しかった。
――シャンテ、早く僕に慣れておくれ。早く僕を、好きになって。
他人だと思わず、恋人だと、夫だと思って素直に甘えてほしかった。ドルミールには彼女を受け止める心構えも、また体制も整えていたのだから。
しかし、ドルミールにとって容易でも、シャンテにとっては違ったらしい。これまで、女性に苦労をしたことがなかったドルミールは、日に日に焦りを見せる彼女に、ただ大丈夫だと微笑むことくらいしか出来なかった。
自分が少しばかり眠れないだけだと、時間さえかければ彼女は自分に寄り添ってくれると。
――務めすらろくに果たせず……もっと精進いたします。
シャンテにとってこの結婚は、ドルミールと愛を育むためではなく、いつまでも、彼女の歌を求めるためだけの取引だったのだ。
ドルミールにとっての愛の時間が、シャンテにとってはただの「務め」でしかなかったことに、ただならぬ衝撃を受けた。
ドルミールが最初に求めた歌が。
シャンテが懸命に励んでくれている歌が。
二人の溝を深くしているように感じる。
これ以上、焦り苦しむシャンテを見たくなかった。まずは、普通の男女に戻ろうと思い、関係を見つめ直すことを提案した。
「ドルミール様、本当に歌は……」
「いらないよ。ほらおいで……こんなに冷えてしまってるじゃないか」
真っ暗なベッドの中、シャンテを引き寄せ抱きしめる。シャンテは困ったように笑いながらも、ドルミールの胸に擦り寄ってくる。
歌を一時離れ、ドルミールとシャンテは普通の婚約者として、日々過ごしている。
ドルミールにとって、まどろみと同じほど、幸福な時間であった。
***
「知ってる? シャンテ様のお父さん、35歳なんですって」
「まぁ。旦那様と3つしか変わらないじゃない」
「自分の父親と同年代の男に嫁ぐなんて、貴族の世界も大変ねえ」
メイドたちは薪置き場から薪の束を手にすると、屋敷へと戻って行った。これから夕飯の仕込みだろう。仕事から帰って来たばかりのドルミールが傍で聞いているとも知らずに、笑い声を立てながら厨房に消えていく。
「旦那様、気落ちされることはございませんよ。若い男にはない"余裕"があなたにはあります。若い娘は、とかくこの"余裕"に弱――」
「レヴェイユ、いい。慰めるな」
知っていたことだ。そう隣に立つ従者に言いつつも顔が晴れないのは、シャンテの焦りに感化されたせいだからだろうか。
女の口説き方は心得ていると思っていた。急かさず、争わず。若い子であればなおさら、駆け引きなどいらない。ただ広い心で迎えればいいと――。
「父親と同じ、ねえ、へえ。そうか……」
シャンテの父を思い出す。自分と3つしか変わらないというのなら、あの頭部はずいぶんと可哀想だ。婚礼までに、ツテを頼って何か贈り物の一つでも用意してやるべきだろう。
「少し一人にしてくれ」
「旦那様、大丈夫ですよ。顔面的には、最悪まぁ……兄です」
「少し、一人に、してくれ」
「予定されていた観劇はどうなさるので?」
「……行く気になれない」
「御意に、坊ちゃま」
気のいい執事なのだが、たまに気を回しすぎるきらいがある。レヴェイユを遠ざけると、ドルミールは庭のベンチに腰掛けた。歩いてきた場所に、足跡が残る。うっすらと地面に雪が積もっているのだ。
せっかく仕事を早めに切り上げてシャンテと観劇にでも出かけようと思っていたのに、到底そんな気分ではなくなってしまった。
どうにかして自分に慣れようと必死なシャンテが、けれども心は頑ななままな、理由を見た気がした。
「……まさか父親のようだと、思われているわけではないよな……」
だとすれば、随分と居心地の悪い思いをしていることだろう。
病弱な父の面倒をする娘の物語が、市井で最近、好まれているらしい。
遠い異国から伝わってきたもので「すまねえな、オハナ」「気にしないで、おとっつあん。あたしはおとっつあんが元気になってくれるだけで……」と貧しい暮らしの中、肩を寄せ合って生きている親子の物語だ。
木と紙でできた粗末な家に「おうおう嬢ちゃん。そろそろ貸した金を、雁首揃えて返してもらおうじゃねえか」と悪逆非道なマフィア達が詰め寄ると、娘は自分の身を売ってでも父の為に薬を手に入れようとする。そんな娘の元に、なぜか身なりのいいご隠居が――
話がそれた。
つまり、こういう仲のいい親子も存在する――という話だ。いや物語なのだが。
ドルミールは残念ながら、あまり家族の縁に恵まれなかった。そのためにこんな若さで家を継いでいるのだが、今はそのことは関係ない。
そう、つまりシャンテが――病弱な父の面倒をみている感覚で、ドルミールの不眠症に付き合っていた可能性が、なきにしもあらずというわけで。
父のように思っている相手から、恋慕を向けられるなど、嫌悪感を持つに違いないだろう、というわけで。
つまりそれは、好きになって、だとか。迷惑も甚だしいわけで。
大きなため息をついた。まさか年齢がネックになる日がくるなどと、思ってもいなかった。それにドルミールはいずれ、上司――この場合は宰相となる――または、国王に拝命された女と「貴族の結婚」をするのだと、思っていた。
婚約する時にも、特に問題だとは思っていなかった。
ドルミールは"家"を、シャンテは"歌"を取引するだけの……数多ある貴族の結婚の一つだとしか、思っていなかったから。
「あ、駄目だ。心がしくしく痛い」
胸を押さえ、項垂れる。ベンチに広がった淡雪が、ふわりと溶ける。
シャンテの歌が、聞きたかった。