05
一度眠れたからと言って、状況が変わったわけではない。あれから、環境や時間帯、曲目や、傍にいる人など……つぶさに試験してみたが、狙い通りドルミールが眠ることはなかった。
しかし、全く期待していない時に、再びドルミールが眠りについたことがあった。
婚約お披露目パーティの為に、シャンテがワルツの練習をしている時だった。ステップに合わせ、つい口ずさんでしまった歌に反応したらしい。
練習をしている部屋の外から再び悲鳴が聞こえてきて、シャンテは大いに驚いたものである。時間は勿論、昼日中。ドルミールは、出勤しているはずの時間であった。どうしても外せない来客の為に、一時帰宅していたという。
修道院で過ごしていた頃と、ドルミールが眠った二回の共通点を探した。
日中ということ。
シャンテが穏やかな時間を過ごしていたということ。
そして――ドルミールがいるはずがないと、思っていたこと。
「君は、僕の前では緊張してしまうのかな」
シャンテは肩をすぼめた。そう言われてみなくても、彼の前で歌うときはいつもカチンコチンなのは、自分が一番わかっていたからだ。
「緊張状態がきっと、君の歌を縮こまらせてしまうんだろうね」
深い眠りから覚めた後のドルミールは、いつにも増してシャンテとの触れ合いを好む。
「君の素敵な歌をずっと聞いてもいたいけれど……君と共に眠る夢を見たい」
彼がベッドの上から、所在なさげに立っているシャンテの腕を引く。腰に巻き付き、シャンテの腹部に頭を押し付ける。
「シャンテ、早く僕に慣れておくれ」
早く僕を、好きになって。
それはとても難しいことだと、シャンテは思った。
答えられずに、唇をかみしめたままのシャンテに、ドルミールが笑みを送る。
「これからはもっと一緒にいる時間を増やすよ。下も育ってきたし、君のおかげで仕事の効率が上がったからね」
ドルミールが笑う。女神に嫉妬されるほど、美しい顔で。
シャンテは直視出来ずに、曖昧に笑って、視線を逸らした。
***
宰相補佐は有言実行の男だった。きっとこの国の未来は安泰だろう。
ドルミールは仕事の時間を減らした。休日も設けた。それまで休日がなかったことに、シャンテは驚きすぎてひっくり返りそうだった。
ドルミールはシャンテとの時間を作ってくれた。
食事を共にとり、ワルツのステップを二人で踏み、歌を口ずさみ、チェスを教えてくれた。
朝はともに白い息を吐き、夜は星の読み方を教えてくれた。雨の日は図書室で並んで本を読み、曇りであれば流行の観劇に出かけ、晴れればピクニックに連れ出してくれた。
共にいる時に、ドルミールがうつらうつらとすることが増えた。
これまでは、減った睡眠時間をどこかで補うこともなく、ただ仕事に集中していたようだった。しかし、適度に休憩を挟んだため、体が休息を求め始めたのだろう。そんな無理を強いていて、良く体を壊さなかったものだ。
熟睡とまではいかずとも、膝や肩をうたたね程度貸すことが増え、目の下のくまはずいぶんやわらいだ。
それだけでもきっと、快挙に違いない。
だけどシャンテは焦っていた。ドルミールがいつまでたっても、シャンテの歌で眠れなかったからだ。
その頃にはシャンテは、ドルミールが不在の時に歌うことにすら、緊張するようになってしまった。もし今、意図せずドルミールが聞いていたら――そう思うと、どうしても体が、頭が、強張ってしまうのだ。
もう、冬になる。
この屋敷に来た時、まだ庭の木々は明るく色づいていた。それがもう全て、地面を彩っている。
それだけ長い間、シャンテは成果を出せないでいるのだ。
ドルミールは、変わらず優しい。落ち込むシャンテに、毎度「大丈夫だよ」と声をかけてくれる。使用人たちも彼を立て、厳しく接することはない。
それでも、シャンテは焦った。
早くドルミールに休息を与えたかった。
彼に心からの安堵を渡してあげたかった。
そのために呼ばれたのに、そのために選ばれたのに。
緊張しないように、意識しないように、うまく歌おうと思わないように――
ように、ように、ように……
思えば思うほど、普段の自分が分からなくなっていって、
「――踊る、踊るよ。紅茶の葉っぱ」
暖炉のソファに腰かけたシャンテは、歌い終わって瞼を開いた。歌うときはいつも、緊張から瞳を閉じてしまう。
気づけば、膝にいたドルミールの頭を撫でていたらしい。いつの間にか、彼を膝枕することにも抵抗を無くしていた。
膝の上のドルミールと、目が合う。
「……シャンテ」
暖炉で溶かしたバターみたいに、甘い瞳でドルミールが見上げていた。眦は赤く、口元はほころんでいる。咲いたばかりの蕾を見つけたように。葉に浮かぶ雫を眺めているかのように。
シャンテはくしゃりと、顔を歪ませた。
「申し訳ございません。申し訳ございません、ドルミール様……」
シャンテの表情を見たドルミールが、慌ててソファから転がり下りると、シャンテの前に跪く。そしてシャンテの小さな丸い顔を、ドルミールの手が包み込んだ。
「シャンテ、そんなに畏まらないでくれ。歌う君をこんな場所で眺められるんだ。役得だろう?」
見つめてくるドルミールの瞳が優しくて、シャンテは目を合わせることも出来ない。
「私は、あなたに眠りを……」
「君が頑張ってくれていることは、僕が一番よく知ってる」
ドルミールは柔らかく笑って、シャンテを抱きしめた。
いつまで彼は辛い日々を過ごすのだろうか。いつまで待ってくれるだろうか。
二つの気持ちが入り混じる。
「務めすらろくに果たせず、心苦しいばかりです。……もっと精進いたします」
――ガバッ
ドルミールが抱きしめていたシャンテを引き剥がした。
彼の大きな瞳が、更に大きく見開かれている。
シャンテはパチパチと瞬きをした。
「……つと、め?」
呟く声は掠れていた。
シャンテは、彼が何に動揺しているのかもわからず、曖昧に頷く。
ドルミールは何かに思い当たったのか「あれか……そういえば、言っていた……」と呟くと、両手で顔を覆って項垂れた。
「そう……君にとっては全てが突然だっただろうからね……」
務め……。ともう一度呟いて、ドルミールは顔を上げた。
「シャンテ。二人の関係を見つめ直す必要があるようだ。しばらく、歌はよそうか」
シャンテの顔が、絶望に染まった。




