04
その日、赤ん坊が帰るまで、ドルミールは目を覚まさなかった。
職場には従者が向かい、話を付けてきたという。ドルミールの体は久しぶりのまともな睡眠を、どん欲に貪った。
インクを溶かしたような夜空に、星が瞬き始めるころ。ドルミールの睫毛が震えた。
ベッドの脇に座り、小さな明かりの元で針仕事をしていたシャンテは、針山に針を戻す。そして、ベッドが軋まぬように、そっと淵に腰かける。
「よくお休みになれましたか? ドルミール様」
瞼を開いたドルミールに、シャンテは囁いた。その声は、少しばかり弾んでいた。今日はいつもの、陰鬱とした夜とは違う。
ドルミールの瞳が、シャンテを捕える。
「……あぁ、僕の小鳥――」
震える声が、唇から漏れる。
ドルミールがシャンテの細い腰に抱き付いた。まるで、まだ起きたくないとぐずる子供のように。シャンテは一瞬体を強張らせるも、ドルミールの柔らかい髪にそっと触れる。
「お加減はいかがです」
「最高だ」
「倒れた時に、何処も打ってはいませんか?」
「打ったかもしれない。全身、くまなく調べてくれるかい?」
「では、お医者様にお伝えしましょう」
「君に頼んでいるのに」
ドルミールは笑って冗談を言う。くつくつと、彼が笑う度にシャンテの腹に吐息がかかる。
「ありがとう……シャンテ。僕の幸運の鳥は、やっぱり君だったんだね」
「ようございました……ようやく務めを果たせて、私も安心しております」
シャンテは腰を折り曲げて、彼の頭に直接吹きかけるかのように囁く。吐息と共に、彼にこの心が伝わればいいと、そう思って。
「ドルミール様、本当にようございました……」
シャンテの細い指がドルミールの頭皮を撫でる。
トスン、と。
気づけばシーツに背を付けていた。
驚く間もなく、視界いっぱいにドルミールの顔が映し出される。
え。
シャンテの腰にいたはずの彼が、何故かシャンテの両頬を包み込み、熱い視線を注いでいる。
気づいた時には、右に、左に。両手で頬を掴まれ、動かされた。慣れぬ感触が、顔に広がる。
これはまさか、口付けられてる?
ドルミールはシャンテの顔中に口付けながら、器用に膝で移動する。シャンテもろともベッドの真ん中まで移動させられ、気づいた時には、ドルミールの手が背中に辿りついていた。すいと撫でられ、背が仰け反る。
服に手をかけられて、ようやっと。
なされるがまま、呆然としていたシャンテは我に返った。
いやいやいやいやちょっと?! いやいやいやいや!?
不埒な手を掴み、今にも唇を塞ごうとしていた顔を、力いっぱい突っぱねる。
「おおおおおお待ちください、ドルミール様!」
「なぜ? 君が誘ったんじゃないか」
「さ、さそ、さそ?! いえ、そんなはずは……レ、レヴェイユ! レヴェイユーー!!」
「ベッドで他の男の名前を呼ぶのはマナー違反だよ、お嬢さん」
えええええ! ちょ、えええええ!!!
顔を突っぱねていたシャンテの手を掴むと、ドルミールは手のひらに口づけを落とした。
ひえええ、き、気障ー!!
こういう真似が、心底似合うのだから恐ろしい。シャンテは頭がくらくらした。
レヴェイユはドルミールが起きたことに気付いて、夕食を取りに行っている。いくら叫んでも、いましばらくは帰って来てくれないだろう。
「シャンテはスキンシップが嫌いかい? それとも僕が?」
待って待って待って。スキンシップの域は完全に超えている!
シャンテは真っ赤な顔で、沸き立つ頭で、必死に叫ぶ。
「ききき嫌いだなんて」
「いい子だ」
「ひええええ」
「可愛いよ」
「まままま待ってくださ、こここ困ります!」
心底焦っているシャンテを、ドルミールは抱き寄せた。
あ。違う。
その手つきは、先ほどまでとはまるで違った。鳥の背を撫でるよな、慈愛に満ちた手つきだ。溢れんばかりにかもし出していた色気が、綺麗に収まっている。
「もう婚約しているじゃないか」
いやいやいや、そういう問題じゃないでしょう。
焦りすぎたせいか、涙が滲んでしまっている。彼はもう、シャンテをどうこうしようとは思っていないようだった。
シャンテが涙目で睨みつけても、余裕の笑みで、降参のつもりか両手をあげている。
悔しいのに、憎めない。こんなところも誠実だと感じてしまうから。
「仕方ない。今の僕は君の奴隷だ。勿論、愛のね」
ドルミールがシャンテの髪を撫でる。一等優しく、目を細める。
「僕の小鳥の、望みのままに」
***
いつまでも眠っていたい、ぬくもりにまどろむ。
日の出とともに体も目覚めるようになっていたのに、こんなのは久しぶりだ。最近めっきりと寒くなってきた外気から逃れるように、シャンテはぬくもりににじり寄った。
ぬくもりがシャンテを包み、遠い遠い幼い日に乳母にされたかのように、背中をトントンと叩いてくれる。
気持ちいい、誰だろう。もうずっとこんな幸せは遠かったのに――
おぼろげな記憶を漁ってみてもわからない。シャンテは母とも父とも、同じベッドで眠ったことはなかった。家の名で生きているのだ。それが当たり前なのだと、シャンテはずっと思っていた。
背筋を伸ばして、当たり障りない笑みを浮かべ、世の中の全ての者を受け入れ、受け入れられ、拒絶し、拒絶され、生きていくのだと。
こんな幸せに、もう二度と寄り添うことなどなく、生きていくのだと、そう思っ――
――ぱちり
音を立てるほど勢いよく、シャンテは目を覚ました。驚きのままに、顔を上げる。
え? ん。え?
朝日よりも爽やかで、白いミルクパンよりも柔らかい、とろけそうなドルミールの笑顔がそこにあった。枕に肘をつき、頭を手の平で支えてこちらを見ている。流れる一筋の髪から、シャンテにはまだ備わっていない、大人の色香が漂う。
開いているカーテンの向こうから、すっかり色深く染まった葉が見える。
「……おは、ようございます?」
全く眠れなかったのだろうか。シャンテは顔にかかる髪を耳にかけながら、シーツに肘をついた。
不眠症といっても、全く眠れないわけではないらしい。寝つきが悪く、やっと眠れても何度も目が覚めてしまうようだった。
これまでは、先にシャンテが寝て、先にシャンテが起きる。シャンテが目覚めると、少ししてドルミールも目を覚ますのが、常だった。こんな風に寝起きを見られるようなことなかったのに。見苦しくはないだろうかと、顔を両手で覆い隠す。
「おはよう。可愛い僕の小鳥」
ドルミールがシャンテの髪に触れる。選り分けてくれているようだ。
最初に「近い」と言ってから、距離には気を遣ってくれていたのに――なんだか昨夜の出来事で、なし崩しになってしまったような気がした。
あんなことがあったのにベッドを共にしているのは、シャンテが彼の言葉を信じているからだ。シャンテが感じた「誠実」な彼を。
「お仕事は……」
昨晩、夕食を取った後に職場へ行くと言い出したドルミールを、慌ててシャンテは引き留めた。レヴェイユが「門兵から許可など出ませんよ」と助け船を出してくれなければ、ドルミールはそのまま出かけてしまっていたかもしれなかった。それほど、昨晩の彼ははた目にも浮かれていた。
レヴェイユに取りなされ「仕方なし」と彼は夜間の出勤を諦めたが、仕事は屋敷にも転がっている。ドルミールはシャンテを寝かしつけつつ、夜半だというのに、膨大な量の書類と向き合っていたのだ。
シャンテはそんなドルミールを、半ば呆れて布団の中から眺めている内に、いつの間にか眠ってしまっていた。
「君の寝顔を見ていたら、とても捗ったよ」
やっぱり、ど気障。
いまだシャンテの髪を弄ぶドルミールに、寝ぼけ眼でそう思う。
シャンテが体を起こした。ドルミールの指からシャンテの髪がするりと抜ける。
寝室に持って来ていた可動式の机の上に山積みにされていた書類が、きれいさっぱり消え去っている。
え、うそ。
「あの量を……すべて……?」
唖然としてドルミールを見上げる。
ドルミールは、枕に顔をぽすんと落とした。その様子が、まるでシャンテの視線から逃れるようにも思えて、シャンテは驚いた。
しばらく沈黙したのち、そっと顔をずらしたドルミールが、片目だけでシャンテを見上げる。
「ぐっすり眠れたおかげかな……頭がすごく、冴えてたんだ……」
目を閉じて、再び枕に顔を伏せる。消え入りそうなドルミールの声を、シャンテは耳を近づけて聞き取った。
「……ありがとう、シャンテ。僕に、希望をくれて」