03
どうやら、初日は失敗に終わったらしい――
次の日、朝の挨拶よりも早くシャンテを迎えたのは、屋敷に広がっていた噂話だった。
皆、期待していただけに消沈を隠せないのだろう。
顔も見たことのないシャンテを土下座して待ち構えるほど、当主の寝不足を屋敷中が心配していたに違いない。
申し訳なさに肩を落として歩くシャンテを、使用人たちが噂話で撫で、目配りで慰める。
昨夜はあのあと、三曲歌った。
一曲はシャンテが選び、二曲はドルミールが眠ったことがあるという曲を。
そのどれも、空振りに終わった。
愕然とするシャンテとドルミールに就寝を勧めたのは、部屋の隅で置物になっていた従者のレヴェイユだった。
シャンテは大変ありがたかった。
必然的に夜型になってしまったドルミールと違い、修道院暮らしが長かったシャンテは朝型だ。眠くて眠くて仕方がなかったが、言い出せるはずもなかった。眠りを欲している、眠れない侯爵になんて。
自らの不徳を詫びるドルミールに情けない笑みを返し、シャンテは倒れ込むように眠りについた。
ところで、まだ朝早い。
同じベッドで眠ってしまったシャンテが起きるころ、ドルミールは何とか眠りの淵に足をかけていたようだった。眠れるだけ眠らせてあげたいと、そっと抜け出てきたのはシャンテだ。
ドルミールが支度して下りてくるには、もう少しばかり時間がかかるだろう。割り当てられた部屋に戻り、待ち構えていた侍女と手早く支度を済ませたシャンテは、食堂へと向かった。
そこでは、男爵家の実家のように、朝早くからパタパタと使用人たちが走り回っていた。皆、シャンテに気付くと、慌てて足を止めて礼をする。
「忙しい時間にごめんなさい。私も何か、お手伝い出来ることがないかと思って」
とは言われても、客人であり、貴族令嬢であり、当主の婚約者でもあるシャンテに仕事を押し付ける使用人はいない。
「未来の旦那様のために、何かしてさしあげたいわ」
皆、昨夜の噂は聞き及んでいたのだろう。一気に場に同情の空気が漂った。
白いエプロンを付けた、一人のメイドが躍り出る。
「では、お茶の準備を手伝っていただけますか?」
「もちろんよ、ありがとう」
メイドに、ドルミール好みの加減を教えてもらいながら茶の準備をしていると、丁度ドルミールが食事を取りに降りてきた。
「おや。僕の可愛い小鳥が何処へ飛び立ってしまったかと心配していたが、ここでさえずっていたのか」
「おはようございます、ドルミール様」
シャンテはドレスの裾を持って礼をした。メイドがすぐに一歩下がり、従者がドルミールのために椅子を引く。
「昨夜はありがとう、シャンテ。素晴らしい歌だったよ。君の歌は美しい」
ドルミールの表情は、昨日修道院で会った時と変わりなかった。つまり、目の下にくまを隠すためのおしろいを、はたいているのだ。
「ありがとうございます、ドルミール様」
ふがいなさに唇を噛みながら、手を動かす。シャンテの様子に気付いたのだろう。ドルミールがふっと笑う。
「君が重荷に感じる必要はないんだよ。無理を頼み込んでいるのはこちらだ。ありがとう」
見合うだけの対価を支払っているではないか。シャンテは無言でポットを傾けた。
「それに、初日じゃないか。まだ僕たちは婚約したばかりだろう? 今夜もお願い出来るかな、僕の小鳥さん」
ドルミールがにこりと微笑む。庭を染める秋のように美しく、待ち遠しい春のようにさわやかに。
きっと、あまりにも美しすぎるから、夜の女神に嫉妬されてしまったのだろう。だから彼は美しい月を眺め続けなければならないのだ。
不憫な婚約者に、シャンテは笑顔を取り繕う。
「……はい、もちろんです。ドルミール様」
しかし、目論見に反して、次の日も、そのまた次の日も――
ドルミールがシャンテの歌で眠りにつくことはなかった。
***
膨らんだ期待に応えられないことほど、辛いことも少ない。
シャンテは身の置き所のない日々を過ごしていた。申し訳なさ過ぎて、顔をあげて屋敷を歩くことさえ出来ない。最初から不相応に感じていた立派な侯爵邸が、なおさらよそよそしく感じた。
「このままじゃいけないわ。どうにかしないと……」
期待していたのはドルミールも同じだ。どれほど落ち込んでいるだろうとシャンテは彼の胸中を推し量る。
いくらドルミールが大人で、シャンテよりずいぶん年上とはいえ、状況は切迫している。毎夜、すやすやと隣で眠るシャンテに、内心、さぞや悔しい思いをしていることだろう。
にも拘わらず、ドルミールは役立たずのシャンテにも優しいままだった。
――大丈夫、次こそうまくいくよ。
喉を枯らすほど歌うシャンテの背を、眠りたいはずの体で撫でるのだ。そしてシャンテを布団にしまい、自分は隣で書類を開く。そんな夜が続いていた。
「せめて、原因がわかれば……」
場所が悪いのだろうか。かと言って、忙しいドルミールを毎晩修道院に通わせる訳にもいかない。
ドルミールとは、毎日少しの時間しか会えない。歌う間と、朝食にお茶を飲む間程度だ。あとはずっと、彼は職場に居ついている。シャンテが来るまでは、帰宅することも稀だったという。
屋敷中が一丸となって、なんとかドルミールを眠らせられないか、試行錯誤している。
使用人たちも、最初にドルミールが告げたように「彼に仕えるように」丁寧にシャンテにも接してくれる。
期待外れのシャンテにも態度を変えないドルミールの存在が、一番大きいことを、シャンテはよく知っていた。
状況を打破出来ないまま、一週間が過ぎたころ。
屋敷に、赤ん坊がやって来た。
いつも預けている祖母が風邪を引き、赤ん坊の面倒を見れないのだと、通いのメイドが使用人室に繋がる勝手口で泣き崩れていた。食堂で朝の茶の準備をしていたシャンテは、その騒ぎに気づいて顔を覗かせた。
「お願いいたします。今日だけでいいのです! 背負ったまま、どうか、どうか仕事をさせてください。人一倍働きます」
悲痛なメイドの声に、シャンテは胸を痛めた。
「そうは言ってもねえ……」
家政婦長はメイドの懇願に渋面を浮かべている。シャンテが一歩前に出た。
「まあ、大変でしたね。私が引き受けましょう」
「いけませんわ、シャンテ様!」
赤ん坊を抱きかかえていたメイドに手を差し出す。シャンテの腕に、軽くて、だけど重い温もりが移る。手慣れた手つきで、シャンテはおくるみに包まれたままの赤ん坊をあやした。
「勝手をしてごめんなさい。叱られるときは、必ず私だけが叱られます」
「ですが……そんなこと、シャンテ様にさせられませんわ」
「つい先週まで、女神の御許にいたのよ。子守りもよくしていたわ。赤ん坊のおしめを洗ってもいたんですよ」
家政婦長は、シャンテが修道院で暮らしていたことを思い出したようだ。
「ですが……」
この屋敷を纏める家政婦長として易々と許可を出せないのだろう。とはいえ、赤ん坊は大人の手がなければ生きていけない。皆が考えあぐねている内に、赤ん坊が泣きだした。
「ふ、ふ、ぶうええ……」
「ドルミール様には駄目でしたけれど、あなたはどうかしらねえ」
抱いている赤ん坊の背を、とんとん、と叩きながら、シャンテは息を吸う。そして、ステップを踏みながら歌い始めた。
「――森の葉を、覗いてごらん」
秋の風が、シャンテの歌を運ぶ。
「――そっとそっと、覗いてごらん」
「きゃああ!! ドルミール様!!」
ガチャン、と食器の音。それから、メイドの悲鳴。
シャンテは驚いて歌を止めた。家政婦長と顔を見合わる。赤ん坊を母親に預け、ドレスの裾を持ち上げた。
「ドルミール様がどうなさったの?!」
淑女らしからぬ勢いで廊下に躍り出たシャンテは、固まった。
そこには、呆然とするメイドと、食器を運ぶためのカート。
「ド、ドルミール様が……」
そして、従者のレヴェイユの腕の中に――瞼を閉じて横たわっている、ドルミール。
「ね、眠っておられます……」
……えええ?