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02

 結局、説明のひとつもないまま、夜である。


 修道院での生活とは、正反対の生活だった。時計の鐘の音に縛られもこともなく、仕事に追われることもない。ただ座って待っていれば、食事や音楽がもたらされる。

 数年前までの暮らしを完全に忘れてしまっていたシャンテは、慣れることに必死で、ただ流されている間に夜になってしまっていた。

 しとやかな闇が顔を出し、厚手のカーテンが月あかりを遮る。侍女は隣の部屋で待機している。優雅だが自由のない生活に、ほんの少しだけ息をついた。


「ドルミール・リトゥリ様……」


 割り当てられた部屋で一人、シャンテはぽつりと言葉をこぼした。

 彼の顔も名も、シャンテは勿論知っていた。彼女が世話になっていた修道院は、ドルミールの治める領内にあったからだ。彼は侯爵として、度々修道院に訪れていた。


 結婚は家が決める事。

 いずれは母が見定め、父の決めた誰かと結婚することを覚悟をしていたし、それを厭うつもりもなかった。

 それどころか、シャンテが想像していたどの家よりも、家格が上である。随分と玉の輿に乗っている。よほど父が上手くやったのだろうか――と思ったが、首を横に振った。父のことは心から愛しているが、それほど敏腕だとは、とても評せなかった。


「我が家に何か、侯爵様がお気に召すような素材があったかしら……」

 何故婚約の運びになったのだろうかと、不思議でたまらない。


 海からは程遠く、大きな街道とも離れている領土は、土壌が特別豊かという訳もなく、ぱっとしない。産業もありきたりなものばかりで、成果もそこそこだ。何かに新しく着手するいう話も聞いていないし、勿論ながら、それらすべてを覆せるほどの美貌をシャンテが持っているわけでもない。


 騙されてここまで来た――という線は考えたくない。

 というか、無いはずだ。彼が侯爵を騙るペテン師でもない限り、リスクしかない。


「どちらにしろ……あとは、式を待ち、妻の務めを果たすだけね」


 貴族の女の幸せは夫で決まる。

 友人と別れる時間がなかったことは悲しかったが、それ以外は悲観することもない。


「それにきっと誠実な方だわ……」

 信じられないほど忙しそうだけど。

 真顔になってシャンテが呟く。


 慌ただしく去った修道院。書類に埋め尽くされた馬車。シャンテを屋敷に送り届けて、すぐに仕事場に引き返した彼。

 彼の職場は、王城。職業は、宰相補佐。

 紅茶を一杯、新しく迎えた婚約者と飲む時間もない程の激務なのだろう。


 どれも、彼の忙しさを象るに相応しい。それほど忙しい合間を縫って、婚約者を迎えに来てくれたようだった。そこまでして直接求婚にくる姿は、誠実と言えるはずだ。


 ……とは言え。


「シャンテ様、旦那様がお呼びでございます」


 これは――


「やあシャンテ。すまないね、こんな夜分になって。起きて待ってくれていたなんて光栄だな。どうだったかい我が家は。少しはくつろげたかな?」


 いくらなんでも、びっくりじゃあ、ございませんこと……?!


 呼び出された先の寝室の入り口で、シャンテは凍り付く。

 修道院で使っていたベッド四つ分はあるのではないかと思われるほど大きなベッドに、真っ白な寝間着を着たドルミールが腰かけていた。

 大きなアーチ状の窓の向こうで月と星が協力し合って、何とかこの部屋を照らそうとしてくれているが、今のシャンテにはあまりにも心許ない。


「婚姻前に万が一にも間違いがあってはいけませんので、私も控えさせていただきます」

「おや、信用がないね」

 シャンテを修道院に迎えに来る時にも同行していた従者レヴェイユは、ドルミールに会釈を一つ返すと、部屋の隅で置物のように気配を消してしまった。


 残されたシャンテは、胸元で手を合わせる。神にも祈る思いだ。言われるがままに着せられたネグリジェの薄さが、随分と頼りない。苦し紛れに羽織ってきたガウンの前衣を、ぎゅっと寄せる。


「おいで」

 硬直したシャンテをドルミールが迎えに来る。あまりにも自然な手つきで腰を支えられ、ふわりとベッドの上に座らされた。


 隣にドルミールが腰かける。

 座った姿勢のままベッドシーツに突っ張っているシャンテの両手を、上から包み込むように彼が覆いかぶさった。


 衣擦れの音がいやに響く。月明かりがそっと、ドルミールの明るい髪を染めた。

 暗がりでも、彼の表情がくっきりとわかるほど近くで、見つめ合う。


「頼む、シャンテ」


 前髪が重なり合い、吐息がかかる。


「君の声を聞かせて欲しい」


 シャンテを覗き込むドルミールの瞳は、もう一瞬だって待てないかのように切羽詰まっている。シャンテは突然降りかかった色気に、息さえ出来ないでいる。


「君の……」


 耳に、熱い唇が触れる。


「――歌を」


 熱い吐息が注ぎ込ま……れ?


「ん?」


 硬直していたシャンテは、予想外の展開からの、予想外な言葉に、ようやく少しばかり自我を取り戻した。

 ドルミールを不躾に見つめ返し、まるで幼い子供のように、舌足らずな口調で問い返す。


「歌?」

「歌」


 鼻の先が擦れそうなほど近距離で、美貌のかんばせが真顔で頷く。


 しばらく無言で見つめ合っていたが、ハッとすると、シャンテはひとまず彼の下から抜け出そうと身を捩る。


「どうして逃げる?」

「近い。とにかく、近いからです」


 この人に、淑女の対応を心掛けても、無駄なんじゃないだろうか。

 シャンテが淑女らしからない言葉を発しても、ドルミールは不快だとは思わなかったようだ。「そうか?」と首を捻ってはいるが、シャンテを開放してくれた。


「ええと、それで、なんですっけ。歌?」

「そう、歌だ」


 ハイクラスベッドの上にこじんまりと正座して、二人は向き合った。


「なぜ、私の歌をご所望なのです?」

「……説明していなかったか。いや、説明する時間はいくらでもあっただろう」

 前半は自分に向けて。後半は、部屋の隅に向かってドルミールが言う。


 薄暗闇の中でも、まるで隣同士で話しているかのように自然に声が返ってくる。

「旦那様から、ご説明なさると思っておりましたので」

「僕の忙しさは知っているだろう」

「ええ坊ちゃま。夫婦――ああ、まだ婚約者でしたかね――の問題に、手間を惜しんじゃいけませんよ。特に、仕事と引き合いにして、仕事を取るなんて愚かな男のすることです。その男は生涯、女房の尻に敷かれたままろくに深呼吸も出来ん生活をせにゃならんでしょうなあ」

「……坊ちゃまと呼ばないでくれ」

 ドルミールが、全面降伏をレヴェイユに告げる。


 シャンテは口元に指先を当てて、二人の攻防を見守っていた。シャンテもよく、実家にいるときは世話係の侍女にこうして窘められたものである。


「近いと怒られてしまったばかりで恐縮だが……僕の顔を見てくれないか」

 顔? とシャンテは膝でにじり寄った。ドルミールは一切動くことなく、薄く瞼を閉じてシャンテが顔を見終わるのを待っている。

 ドルミールの顔をシャンテは見つめる。目を瞑っていても、彼は月明かりよりも輝いている。


 一体何があるのか……と思った時に、彼の美しさに一点の曇りを見つけ、シャンテが息を呑んだ。


「まぁ……ドルミール様……」


 シャンテは震える唇を指先で覆う。

 彼女が確認したことを悟ったドルミールは、まるで女神の目覚めのように優美に、瞼を開いた。


「――なんて……濃いくま」


 心の底からの同情をシャンテが滲ませる。きっと日中は舞台俳優のようにドーランを塗って覆い隠しているのだろう疲労のあとを、痛まし気に見つめる。


「恥ずかしいが、仕事を口実に不養生していたら……このザマだ」

 今日一日関わっただけでも、彼の忙殺ぶりは見て取れた。加えて、帰宅時間を考えればこの濃いくまも納得だ。

 王城から馬車が帰って来たのは、シャンテが眠ろうとしていた時刻だった。出迎えようかどうか迷っている内に、彼に呼び出されてしまったのだ。


「不養生などするものじゃないね。おかげで、眠り方を忘れてしまったようだ」


 不眠症。

 修道院に祈りを捧げに来る人々の間に、いなかったわけではない。しかし、これほどまでに国の機密に深く関わっている人物が患うには、少しばかり、酷な症状だろう。


「医者の言う通りに山のような薬も飲んだし、法師を招いて神通力で乗り切ろうともした。遥か海向こうの怪しい呪術にまで手を出していたが、今のところ改善されてはいない」


 なんて苦労だ。シャンテは聞いている内に、彼が不憫でたまらなくなってしまった。

 これ程までに神に愛されたような男なのに、そんなインチキに自ら飛び込むほど、困ってしまっていたのだ。

 八の字に垂れ下がってしまったシャンテの眉を見て、ドルミールが苦笑する。掛け布団をそっと肩にかけてくれた。まるで、やさしさで包み込むように。シャンテは感謝を伝えるように、目元を和らげる。


「そこで現れたのが、君だ」


 さて、このインチキのラインナップに並べるほど、自分は何かを得意としていただろうか。シャンテは途端に真顔になった。手品も薬術ももちろん使えない――あ、でも。そういえば、彼は先ほど……


「……歌、ですか?」

「その通り。シャンテは頭がいいね。とても助かるよ」

 彼は部下を、褒めて伸ばすタイプなのだろう。修道院の副院長にも見習ってほしかった。

 とはいえ、これからの婚約生活。これはもしかしたら予想以上に順調かもしれないぞと、シャンテは心の中で喜んだ。


「私の歌が、何になるんでしょう……?」

 特別歌の練習をしていたわけでも、得意だというわけでもない。人前で歌ってくれ、と改めて言われるのは勘弁してほしい腕前だ。


「僕は修道院へ視察に向かうことも少なくなかったのだが――」

 存じております、と返事をする代わりに、シャンテは短く顎を引いた。

「君がよく、働く傍らに歌を口ずさんでいる場面に遭遇してね」

 シャンテの顔面が固まった。そんなものをこの方のお耳に入れていたのかと思うと、顔から火を、頭から煙を噴いてしまいそうだった。

 両手で頬を覆うシャンテに、ドルミールが真顔で告げる。


「君の歌を聴くと、僕は意識が飛ぶらしい」


「はい?」


 それほど壊滅的な音程でしたか?

 てっきり、褒められる流れだと思っていたのに。シャンテは驚き過ぎて素っ頓狂な声を返してしまった。


「あぁ、悪い意味じゃない。文字通り、君の歌が聞こえた瞬間にその場で昏倒するだけで。眠ってしまうんだ、何故か」

 おかげで、従者は僕を受け止めるのが上手くなった。と茶目っ気たっぷりにウィンクする。


「原因はわからない。他の者に同じ曲を歌わせたが駄目だった。抱えの医師に相談しても、医学的に解明は出来ないという――だが、君の歌は僕に眠りをもたらす。これだけは、事実だ」


 ようやく納得のいく説明を受けたシャンテは、ドルミールの目を見てしっかりと頷いた。


「……そのための、婚約だったのですね」


「未婚の女性を寝室に招く、一番確実な手段だろう?」


 やはり彼は、誠実だった。

 シャンテは、自分がその事に深い喜びを感じたことに気付いていた。


「君の望みは出来る限り、なんだって叶えよう。不自由はさせない」

「ありがたいお言葉です」

 目を伏せ、そっと礼を述べる。


「君に眠りに誘われると、そのまま数時間は目が覚めない――起きた時の爽快さは、筆舌に尽くしがたい」


 眉根を寄せ、苦しそうにドルミールが笑う。

 その笑いから、彼がどれほど――自らの人生と、シャンテの人生を曲げてまで、「眠り」を欲しているのかが伺える。


 お互い、正座で向かい合ったまま、シャンテは背筋を伸ばした。そしてゆっくりと頭を下げる。


「私の拙い歌でよろしければ……全身全霊で、お仕えさせていただきます」

「ありがとう、シャンテ。君が歌声のままに、心美しい女性でよかった」

 柔らかい微笑み。シャンテは再び頬に熱がのぼる前に、彼に横になるように身振りで勧める。

 体を横たわらせた婚約者に、そっと布団を掛ける。ドルミールが布団の中に納まったことを確認すると、シャンテは彼に背を向けてベッドの淵に腰かけた。


「曲目のリクエストはありますか?」

 シャンテが修道院で歌っていた曲は、劇場で歌われるような改まったものではなく、近隣から集まってくる子どもたちに向けた童謡ばかりだ。

 流行曲を求められても歌えないかもしれない。そう不安に思いながらも彼の意向を尋ねたシャンテに、ドルミールはすぐに首を振った。


「ない。君の調べなら、僕はどんな曲でも眠れるようだから」


「それでは……失礼致します」

「あぁ、宜しく頼むよ」

 告げる彼は、心からの笑みをシャンテに向けた。


 彼には予感があるのだろう。

 期待もあり、確信もしている。これから、素晴らしい眠りが訪れることを。


 息を吸う。背筋を伸ばして胸を張る。喉を開いて、旋律を載せた。


「――森の葉を覗いてごらん。そっとそっと、覗いてごらん」


 ――ほら。ふくろうが、見ているよ。


 ――まあるい目をして、見ているよ。


 ――君を誘う、ふくろうたちが。


 ――眠りの森へ誘う、ふくろうたちが。



 ふぅ、と息を吐く。胸の前で組んでいた手を、気づけばきつく握りしめすぎていた。痺れる手を解きつつ、もう眠っているだろうドルミールをそっと振り返った。


 驚愕の色を移している瞳と、目が合った。


 目が、合った。


 ……。


 ……あれ?






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