初めての訪問 後編
「こんにちは」
一学期の終業式が終わった翌日、いわゆる夏休みの最初の日の朝10時。
倉内楓は、わざわざ花の家まで彼女を迎えに来てくれた。初めて、倉内宅を訪問するのだが、花は家の場所を知らなかったのである。
分かりやすい近くの場所まで行って合流でもよかったのに、倉内は迎えに行くと言ってきかなかった。
言葉でのやりとりであったら、花は言いくるめることが出来たかもしれない。しかし、ゆっくり考えて書くことの出来るメールでは、どうにも倉内のペースになってしまう。彼は、結構頑固な部分があるようだ。
お邪魔するのも、本当は倉内家の昼食の終わった午後を考えていたのに、『母さんが、お昼ご飯を振舞うのを楽しみにしているから』とか『午後からだと、ゆっくり出来ないから』とか、メールで言葉を尽くされて、こんな早めのお出かけになってしまった。
余程、ゆっくりとフルールを自慢したいのだろう。彼は、この日をとても心待ちにしているように見えたので、素直にそれを受けることにしたのだ。
父は仕事中だったが、母がわざわざ玄関まで見送ってくれるものだから、「花をよろしくね」「は、はい!」と、会話が交わされるのを、花は傍から見ていた。
「僕が、持つよ」
彼女がさげていた、倉内家へのおみやげであるお菓子の紙袋は、あっさりと倉内に奪われる。少しゆっくりめの言葉は、どもり防止策か。それがかえって、言い聞かせらるように感じた。
さすがは、お父さんが紳士っぽい人の息子だと、花はありがたくも感心してしまった。立派な教育の賜物だろう。
こんな優しい態度が自然に出るのだから、本当に周囲の女子は、勘違いしてしまって当然だ。美点であるわけだから、止めるわけにもいかないが、ままならないものだと花はこっそり苦笑する。
彼女は黒いキャップにTシャツ、ハーフパンツという、夏らしいが色気の足りない格好で、倉内楓の横を歩く。彼もTシャツ姿ではあったが、頭にはストロー素材のテンガロンハットをかぶっていて、いつもと随分印象が違う気がする。
「もうすぐ従兄妹がカナダから来る」と言う話題が気になって花が食いついたら、そこから話が穏やかながらに弾んだ。
そんな話をしている内に、20分くらいかかったはずの時間は、瞬く間に過ぎていた。気がつけば、倉内家の前らしきところで、彼の足が一度止まる。
その家は、ちょっと大きな一軒屋だった。病院やシェルターの併設している花の家は、敷地こそ広いものの、自宅部分はそうでもない。
倉内家はレンガ風の外壁を持つわりと新しい建物だが、あきらかに一般家庭より一回りは大きい。煙突は無いので、サンタクロースを招き入れる仕様ではないようだと、花はくだらないことを考えていた。
「ただいま」
「お、お邪魔します」
初めての倉内家に、ちょっと緊張しながら、花は彼の後に続いて玄関に入った。さすがの彼も、自分の家ではどもることはないようだ。
そう思った直後。
ニャーンと、猫が玄関まで駆けてきた。よたよたした子猫から、すたすたと歩けるようになった、まだ少し小さい白猫だ。赤くて細い首輪が、よく似合っている。
「ただいま、フルール」
お出迎えのお姫様に、たまらなく嬉しそうに身をかがめ、一度荷物を側におくと、倉内が両手を広げる。それが日常風景だと思えるほど自然な流れで、フルールは彼の胸に飛びついた。
『おかえりなさい、あなた』『ただいま、僕の可愛いフルール』という新婚夫婦のアテレコを、花はしたくなったが口には出さない。
ごろごろと、ご機嫌な喉の音が聞こえてくる。本当に倉内に懐いているのは、その音を聞くだけでよく分かった。
「あら、おかえりなさい。いらっしゃい、花さん」
「あ、こんにちは」
猫を抱いた倉内に、スリッパを出されて上がりかけたところで、倉内母が出てくる。慌ててキャップを取って、花は頭を下げた。暑いから帽子をかぶっていけと言われたが、とったら髪がぺったりになってしまうのが、少し恥ずかしい。
「これ、花さんからいただいた」
片手でフルールを支え、彼はもう片方の手で紙袋を再び廊下から持ち上げる。
しまったと花は慌てた。本来であれば、玄関に入る前に一度戻してもらおうと思っていたのに、家の外観に見とれたり、フルールと倉内の姿に目を奪われたりで、すっかり忘れてしまっていたのだ。
「あら、気を使わせてしまって……ありがとうございます」
「い、いえ。つまらないものですが……」
両手で丁寧に受け取った倉内母に頭を下げられ、花はあわあわしたまま、二度三度と頭を下げた。母の贈答品のやり取り風景を思い出し、借りてきた言葉で消え入りそうに、もごもごと口にするのが精一杯。
「暑かったでしょう? 冷たいお茶をすぐ用意するわね」
どうぞどうぞと、冷房のよくきいたリビングに案内される。
いかにも団欒の場という広さに、テレビを中心に立派なソファセットが置いてある。雑然とした花の家とは、大違いだ。
虎の敷物はないのか、鹿の角が飾ってないのかと、花はキョロキョロしたが、そんなものは見当たらなかった。ただ、家族の写真らしきものが壁にいくつも飾ってあるところが、この家らしいと彼女は思った。
倉内母に勧められるままに横長のソファに座り、辺りを見回していると、倉内がそんな彼女の横に腰掛ける。
思わずどきっとしたが、彼がフルールを二人の間に下ろそうとしているのを見て、すぐに納得した。
猫をよく見せるには机ごしではなく、これが一番だったのだ。倉内もフルールとは、遠くに離れたくないだろう。
「久しぶり、フルール」
花は少し猫背になって、視線を低くしてから懐かしい猫に挨拶をする。
にゃーんと彼女は鳴いたが、理解をしている鳴き方とは思えなかった。倉内家にすっかり馴染んでいるフルールは、花のことを少し怪訝に嗅いでいる。
覚えているのかもしれないが、猫はその辺の態度が曖昧である。ただし、不快な思いを与えられた相手のことは、結構しつこく覚えていることを態度で表すが。
猫に敵意を見せられないということは、花に悪い思い出はないということだと考えるようにしている。
しかし、フルールはくるりと花に背を向けて、にゃんっと鳴くと倉内の膝の上に戻ってしまった。
「フルール……ちゃんと挨拶しなきゃ駄目だろ?」
困ったように膝の上のお姫様に言い聞かせている横顔は、花の笑みを誘う。声音が優しすぎて、フルールに『挨拶ならちょっとしたもん』という風に、ぷいっとされてしまったのだ。
ブログや彼の様子から垣間見える、フルールへの甘やかしっぷりが、そこには確かにあった。
「本当にもう楓にべったりで、楓が学校に行ってしまうと、玄関でしばらくぐるぐる回って鳴くから大変なのよ」
キッチンから現れた倉内母が、目の前にグラスを置きながら、少し困ったように言う。
「夏休みに入ったから、しばらくはいいんだろうけど、二学期になったらどうするのかしらね」
母の言葉に、倉内は視線をそらして肩をすくめた。うるさいなあと、言葉で言わなければそういう態度になるのだろうか。
「あ、そうですね。二年生は二学期に修学旅行もありますし……」
お茶のお礼を会釈で倉内母にしながら、花はごくごく自然な流れの思考で、それを口にしていた。
まさか、それに倉内がピキンと固まってしまうなんて、思ってもみなかった。
「あ、修学旅行があったわね」
倉内母も、固まった息子を見つめてちょっと目を細める。
彼の膝の上のフルールが上を向いて、固まっている倉内に『大丈夫?』と鳴いた。
「ど、どうしよう……4泊5日だっけ」
すっかり忘れていたのだろう。倉内は、膝のお姫様を見つめて、心底困った声を出した。
うーんと、花はひとつ心の中で考えをまとめて。
「そうですね……楓先輩は、出かける前に少し長めに時間を取って、フルールとよく話した方がいいと思いますよ。真面目に話せば、猫は何かあるんだなって分かりますから」
猫は、飼い主に対して、怒ることも辞さない生き物だ。理不尽なことが起きた時は、本当に心から怒る。猫が相手を愛していればいるほど、その怒りは大きくなると花は思っていた。
これほどフルールとの仲が近いのだから、倉内はきちんと彼女に説明をしていくべきではないか──それを花は彼に伝えたかったのだ。
すると、ちょっとぽかんと、倉内が花を見た。
「あ……そ、そうだね。そうしてみるよ。ありがとう、花さん」
その惚けた表情が、ゆっくりと嬉しそうに緩んでいく。フルールへの、思いの伝え方が分かったのが嬉しいのだろう。
「あ、いえ、どういたしまして」
倉内楓の笑顔は、相変わらずすごい威力だ。
照れくさくなり、花こそ彼から目をそむけてしまった。今日のにらめっこは、彼女の負けのようだ。
出されているグラスへと向き直ると、倉内母がものすごい笑顔でこちらを見ているのが分かる。
猫と語り合えと言った花が、そんなに面白かったのだろうか。彼女にとっては普通の感覚でも、よその家では違うのだと理解し、花は曖昧に微笑み返して、「いただきます」とグラスを取った。
※
「いただきます」──これは2度目の言葉。
昼食は、カレーだった。
ナスやトマトの入った夏カレーだと、倉内母に勧められる。気取らないメニューなのは、ありがたい。好物に、喜んで花はご馳走になることにした。
「……」
ダイニングの向かいの席の倉内が、スプーンを持ったまま皿の中をじっと見つめていた。その後、短い時間だが、母を睨んだ気がする。
「嫌いなものでも、あるんですか?」
つい、そう聞いてしまった。
「な、ないよ……いただきます」
何かを振り切ったように倉内は、スプーンをカレーに沈めてすくい上げる。
にゃーにゃーとテーブルの下から、フルールが彼に食べ物をねだるが、「これは駄目」と珍しく彼女の要求を拒んでいた。くるくると足元で、しばらくフルールは円を描くように歩いたが、ついにあきらめたのか、ちょっとだけ離れたところでふてくされたように丸くなる。
スプーンの上に乗ったゴロっとした茄子らしき塊は、なかなかそこから動かなかったが、花と目が合った瞬間、彼はそれを口の中に勢いよく押し込んだ。
「おいしいです」
花も一口食べて、倉内母への感謝の言葉をそう表した。
二人の食事を見届けていた倉内母が、花の言葉と息子の態度に、いたくご機嫌に笑って「ゆっくり食べてね」と、ダイニングを出て行く。
お客の前で嫌いなものをよけるのは、きっと男のプライドが許さないのだろう。倉内は、ムキになったように、カレーをすくっては食べている。
そんな彼の姿が、何だかちょっと可愛く見えて、でも笑うのは失礼なのでぐぐっと我慢。
彼にとっては分からないが、花にとっては楽しい昼食だった。
食後は、再びソファでフルールとたわむれる。少し慣れてくれたのか、ようやく花の膝の上にも乗ってくれた。
「かわいいね、おまえは」
手触りのいい毛並みを撫でながら、花はフルールに声をかける。
いつの間にか、倉内は隣から立ち上がって、向かい側へと回っていた。
手には、スマホ。
「花さん……と、とととと撮ってもいい、かな?」
言葉がつまずいて、そのままズデデンとすっ転んだ彼の声。随分、焦っているようだ。
あ、猫、フルール、と。花は自分の膝の上の白猫を、倉内の方へと向けて座りなおさせた。
「はい、どうぞ」
耳の後ろを撫でてやると、フルールは気持ちよさげに目を細めるのは、さっき見ていたので、その顔を作ってやる。
私の撫でテクを見よ、どうだっと、花はサービス満点でフルール姫に尽くした。
パシャッ、パシャッとスマホの軽快なシャッター音が、何度も響き渡る。
「ありがとう、花さん」
ひとしきり撮り終えて満足したのか、彼が嬉しそうにお礼を言う。
花も、自分の撫でテクが倉内を満足させたことが分かって、小さな自尊心が満足しているのに気づく。
倉内はスマホの写真を指先で確認しては、それはもう見ているのが恥ずかしいほど幸せ満開の顔をしている。
今日のブログには、すごく気持ちよさそうなフルールの写真が載るのかもしれないと思うと、花はどきどきしたりもする。
そんなフルールを囲んでのどかで緩やかな時間も、だんだん終わりが近づいて来る。
「そろそろ……」と、花が時計を確認してソファから腰を浮かすと、「あ、花さん……お、送るよ」と、倉内の紳士節が炸裂した。
「いえ、道分かりますから。日も高いですし」
お邪魔してご飯までご馳走になったのに、家まで送らせるなんてとんでもない。花は、そう思って断った。
のに。
「ぼ、僕が呼んだんだから、最後までちゃんと……お、男の仕事だから」
ああ。
花は、メールでは負けるが、言葉では負けないと思っていた。そして、それは思い込みであることを思い知った。
倉内父に、紳士の何たるかをきちんと教えられているのだろう。ここで、それを拒んだら、彼が家で叱られたりするに違いない。
「う……じゃあ、お、お願いします」
フルールと倉内母に見送られ、再び倉内と一緒に朝と逆の道のりをたどった。
朝よりももっと暑い日差しが、ガンガンに降り注ぐ中、冷房に慣れたなまった身体を奮い起こして歩く。
「暑いですね」
「……うん」
話は──余り弾まなかった。
「きょ……今日はありがとう、花さん。楽しかった」
斉藤家の自宅の玄関前で、彼はちゃんと花の方を向いてそう言った。
「はい、私も楽しかったです、お邪魔しました」
そのまま。
少しだけ、沈黙が流れた。倉内が何か言いたそうな気がして、花はすぐには「じゃあ」と言わずに止まる。
「……また、よ、良かったら……遊びに来て」
とつとつと、しかし心の尽くされた言葉は、それが決して社交辞令ではないことを伝えてくる。
彼が、人に対して扉を少しずつ大きく開こうとしているのが、花にはよく見えた気がした。
「はい、じゃあまたフルールに会いに行きますね」
だから花も、社交辞令ではなく誠実に答えたのだった。
その夜。
花は、何度か倉内のブログの更新ボタンを押して、今日の写真がアップされるのを待った。
22時過ぎに、ようやく今日の日付のブログが表示され、花はどきっとする。
『今日は暑かったけれど、僕も、僕の可愛いフルールも最高にご機嫌で幸せな一日だった。ちょっと、叫びたくなった』
幸せな倉内の声が聞こえてきそうな、短いが、彼の思いがいっぱい詰まった文章と、フルールの写真が数枚。
あれ?
花は、首を傾げた。
そこに掲載されている写真は、リビングで撮ったものはない。おそらく倉内の私室らしい場所が、ちらりと背景に映り込んでいた。
花の撫でテクを炸裂させた写真は──どうやらボツになったようだ。
ちぇっ。
花は、ちょっとだけ残念に思った。
『初めての訪問 終』