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【電子書籍化】あの猫を幸せにできる人になりたい  作者: 霧島まるは
二年生編

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卒業式

本日は最終話とエピローグの2本更新になりますのでご注意ください。

 大学の二次試験が終わり、合格発表より先に──卒業式がくる。

 三月をほんの一日踏んだばかりの、まだ寒い日。花の住む地域では、昨日ちらちらと雪が降ったほどだ。

 今年の卒業式は土曜日だが、卒業生を見送るため花も在校生として出席する。広々とした冬の体育館は、生徒がいっぱい入っているというのに底冷えがひどい。

『卒業生入場』

 アナウンスの後に、三年一組から入場が始まる。在校生は拍手をして迎え入れる。体育祭で見たことのある上級生が通り過ぎていく。

 もう涙目の人もいる。憂鬱な表情の人もいる。晴れやかな式ではあっても、ここにいる半数ほどの人は、まだ未来が確定していない。合格発表まで気が気ではないだろう。

 そして倉内楓のクラスの入場が始まる。彼が穏やかな表情をしているのを見て、花はほっとした。

 二次試験が終了して、彼とは何度か会った。正確には、倉内はまだ受験勉強から解放されきっているわけではない。合格発表の結果が悪ければ、次の試験に臨まなければならない場合もあるからだ。

 それでも穏やかな表情で、貴重な時間を花と過ごしてくれた。

 その一秒一秒に、花は高い価値を感じていた。砂時計から落ちていく砂の一粒だけ見れば些細なものかもしれないが、その砂は無限ではない。

 これまで倉内が卒業するということを考える度に、卒業しても友人だから何も問題がないと、自分に言ってきた。それは何ひとつ間違いではない。

 間違いではないというのに──どうしてこんなに寒い気持ちになるのだろうか。

 花はまっすぐに前を向いて歩いて通り過ぎた倉内が、席に着くまで見つめていた。


「卒業おめでとうございます!」

 校舎の前で在校生が卒業生を囲んでいる。同じ部活だったのだろう。ラケットを手に記念撮影をしながらはしゃいでいる。

 花も倉内に直接、卒業のお祝いを伝えたいと探していた。小さなブーケも用意した。

 しかし人が多くて見当たらない。髪の色のおかげで、見つけやすいはずの人だというのに。まだ帰っていないといいのだけれど。そんな不安が胸をよぎる。

 一生懸命背伸びをして探すと、人だかりの向こうの、更に人だかりの女子たちの中に見覚えのあるあの茶色い頭が見えた。

「そっか、そうなるよね」

 卒業式名物、「記念にネクタイをください」だろう。「ボタンをください」もあるのだが、ボタンと違いネクタイは一点ものだ。特に人気が高いという噂を聞いている。

 花は校舎の前で倉内の時間が空くのを待つ。友達はそれぞれ部活などの先輩のところに行ってしまったので、ぽつんとひとりだけ。

 冷たい空気を吸って、吐いて。ああ、と思った。

 いつか、こんな風にひとりぼっちになる日がくるのか、と。

 大切な友達と会いたくても会えない時がきて、話したくても話せない時がきて、それが当たり前になって。新しい友達ができて。フォークダンスのように友達が入れ替わってゆく。

 花の思考は、よくない方向に転がっていく。

 寒い中、一人でいるのがいけなかった。周囲が別れを惜しむ人たちばかりなのがいけなかった。

 その思考が、とある穴に落ちる。

 タロが、幸せになるために花と別れたように、倉内楓もいつか──ぼたり。

 ぽたり、なんて可愛いものはない。ぼたり、だ。大きく重く、塩味のきつい水の塊。

 だめだ、と。

 花は自分に言った。

 だめだ、泣くな、と。

 きてもいない未来を想像して、泣く必要などないではないか。いまの自分は、周囲の空気に流されてセンチメンタルになっているだけで、落ち着いて考えればこんなことどうということもない。

 ポケットを探ってハンカチを出す。ぼたりぼたりと落ちてくる涙を吸わせて目を覆う。早く元に戻らなければならなかった。

 こんな目では、倉内楓を見逃してしまう。おめでとうも言えないまま、ブーケも渡せないまま楽しい思い出をいっぱい作った学校から去らせてしまう。

 ぐしぐしと目をこすって、何とか元通りにしようとしていた時。

「花さんっ」

 目を抑えたハンカチの端に、茶色い髪が見えた。

 別れを惜しむ人たちをよけながら、それでも最短距離で駆けてくる姿を、花は身動きもできないまま見つめていた。ブレザーの上着が少しよれているのは、女子にもみくちゃにされたせいだろうか。ボタンとネクタイは無事のようだが。

「は、花さん、どうかした? な、何かあった?」

 倉内の言葉が、転ぶ。それを乗り越えようと、落ち着いてゆっくりしゃべろうと努力していた人が、その努力が台無しになっても花を心配している。

「あは……あははは」

 それが嬉しくて、鼻声のまま花が笑った。彼がこうして側にきてくれるだけで、自分の中の寂しさが吹っ飛んでいくのが分かる。

 タロに似た人、と花は思っていたけれども、 彼はタロではない。彼はタロではない。

 花はタロに手を伸ばしてはいけなかった。あの犬を、花は最後まで幸せにできる人にはなれなかったからだ。大事な犬ではあったけれども、花の運命ではなかったからだ。

 けれど。

 もしも。

 彼が──花の運命であるというのなら。

「あはは……楓先輩」

 斎藤花という人間は、一目ぼれとは縁遠い。時間をかけてゆっくりと少しずつ、愛と情を積み重ねていくしかできない。

 その積み上がった形を見て──運命と呼んでも許されるのではないだろうか。

 ハンカチを握りしめ、鼻水もずるずるで、興奮で理性のタガが緩んでいるというひどい状態で。

 花は彼に向かってこう言っていた。

「楓先輩……私、楓先輩を幸せにできる人になりたいです」


「は、花さん……ちょ、ちょっと、こっちへ」

 花は手を取られ、ゆっくりと引っ張られる。

 外は寒いというのに少し汗ばんだ倉内の手。それをぼんやりした温かい多幸感に包まれながら、夢のような気持ちでついていく。

 いまの花は、幸せの塊だった。

 自分の中で芸術品のように積み上がった後天的な運命の像が、倉内楓の姿をしていることに気づいた。その運命に向かって、手を伸ばすことができたのだから。こんな幸せなことはなかった。

 むしろこのまま前を歩く倉内楓の背中に抱き着いて、その幸せを噛みしめたい気分だ。

 心を支配する脳内物質が溢れ出して、一歩一歩がふわりふわりと花を浮遊させる。いまの彼女にとって重力は軽く、時間の感覚も薄い。

 だから花は、いま自分が体育館の裏に連れてこられたことも、よく分かっていなかった。ここが、彼と初めて出会った場所であることも。

「は、花さん」

 足が止まって、彼が振り返る。握っている花の手は離れない。

 寒さのせいかそれ以外のせいか、鼻と頬が真っ赤になっている。色が白いので赤がよく映えるんだな、と花はぼんやりと思っていた。

「花さん、ぼ、僕を幸せに、って……えっと……」

 彼が少し混乱したように、さっきの言葉を引っ張ってきたので、花は笑顔で頷いた。

「はい。私は、楓先輩を幸せにできる人になりたいです」

 運命の相手がちゃんとその意味を理解できるようにと、花は正確に繰り返した。

「っ……」

 もう片方の手で自分の胸を押さえて、彼が息を詰めたような声を出す。その顔が、ぐっと力を入れてあげられて、目の前の花に向けられる。

 そしてその口が──

「は、花さん……僕も……ううん、僕は、花さんを幸せにできる人になりたい、よ」

 ──花と同じ言葉を伝える。

 彼の運命である、フルールに向けられた言葉と、それは同じものだった。

 花は、にこにこにこにこと笑い続けた。手を伸ばした相手に、手を伸ばされたのだ。運命を伝えた相手に、運命を伝えられたのだ。これを喜ばなくてどうするのか。

「嬉しいです、よかったです。楓先輩……幸せにしますね」

「うぐっ……ぼ、僕も絶対、花さんを幸せにする、から」

「はい、一緒に幸せになりましょう」

「あぁぁぁぁ……」

 幸せの有頂天。花の全力の口説き文句と笑顔に、倉内楓は何故か彼女の手を握ったまま、へなへなと座り込んでしまったのだった。





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