倉内楓の修学旅行
日曜日の夕方。
花は、今日の犬と猫の世話をすべて終え、裏口から台所へと戻ってきた。そこでは母親が夕飯の支度を始めている。父親は日曜日に駆け込んできた急患の診療を無事終えたらしく、手を拭きながら隣の病院に続いている扉を開けて戻ってきた。
花はちらと時計を見た。もうすぐ6時になるところだった。
ここ数日、彼女は日付や時間ととても親密な関係にあった。気が付くと、時計を見たりカレンダーを見ていた。早く過ぎて欲しいような、そうでないような奇妙で不思議な時間。
もう、帰ってきたかな、楓先輩。
何の震えも伝えてこない携帯を、花はポケットから出した。ここ数日、それはとてもよく震えてくれた。
『花さん、1日に何枚くらいなら、写真送っても、だ、大丈夫?』
慎重でゆっくりめの言葉を、最後に少しだけ転ばせながら、倉内楓は帰宅途中に花にそう問いかけた。分かれ道の直前の出来事だった。
理由を聞くと、彼は「修学旅行でいい景色があったら花さんに送りたいから」と答えた。そう、二年生は翌日から修学旅行に行くことになっていたのである。
花は、パケット定額には加入していない。携帯を彼女に持たせる上の親の方針だったし、料金も毎月きっちりチェックされている。そして、写真は──とてもパケット料がかかるのだ。
だから彼女は、「一枚、くらいです」と困った顔で答えた。倉内からの写真が欲しくないわけではないが、親からの大目玉は欲しくなかった。
そんな花の表情を見て、倉内は少し考えた顔をした後、あっと表情を少し明るくした。「じゃあ」と彼が思いついたいい案を、まごつきながらも説明してくれたのだ。
そして、倉内楓は。
『清水寺に到着した。有名なあの舞台の両側を目にまぶしいほどの緑の木々が包んでいた。修学旅行の僕たちの他にも観光客が本当に多くて、舞台から遠くの景色を見られる時間はほんのちょっとだったけど、ちゃんと目に焼きつけた。下は見なかった。僕は飛び降りる予定はいまのところなかったから、見ないことにした。見ておけばよかったと後で後悔することになるかな。その時はもう一回来ることにする。紅葉の時期がとても綺麗だとガイドさんが言ってた。僕の名前に関係する季節でもあるから、その時にもう一回来たい。今度は、こういう集団の旅行とかそういうのじゃなくて。花さんにも見せたいよ』
写真という映像ではなく、最近ブログで鍛えている言葉を駆使して、花に「観光名所文字ツアー」を決行したのである。
花の携帯を例にすれば、写真一枚のサイズ約50KB。清水寺のメールを約300文字と換算した時、そのサイズは600バイト。写真と桁をそろえると、写真は1枚50,000バイト、文字は1メール600バイトである。
倉内は、分かれ道のところで足を止めて、花にも分かりやすくファイル容量について熱心に説明した。写真は1枚しか送れなくても、文字であれば8回送ってもその1/10のパケットで済む、と。
写真は帰ってきてゆっくり見せるから、それまで僕の文字でいいかと聞かれて、花は笑っていいのか困っていいのか分からなかった。せっかくの修学旅行なのだから、同級生たちと思う存分楽しんでくればいいのに、と。どうせ、花も来年行くのだからと思うと、少しばかり遠慮しかける心が動かなかったわけではない。
けれど、倉内が自分から誰かにそうしたいと働きかける心は、とても良いものに思えたし、それが大事な友達という称号をもらえた自分宛だと思うと、正直すごく嬉しかった。
そのおかげで花はここ数日、ずっと地元にいながらも、倉内楓の言葉と共に修学旅行の文字ツアーに参加していた。
普段のメールではない、ブログを書いているような語り口から綴られる倉内の目に映る別の場所の景色。そこに来年自分が行くのだとふと思った時、花は面白いことを思いついた。彼の旅行メールに、すべて「保護」をかけて別のフォルダに移したのだ。
壊れない限り、花はこの携帯をずっと使うことにしている。少なくとも、高校にいる間は。ということは、来年花が旅行に行く時も、当然これを持って行く。
今年、倉内が遠くにいながら花を旅行に連れて行ってくれたのと同じように、来年の花は、去年の倉内を連れて旅行に行けるという算段だった。
それは彼女にとっては、ささやかでいてとても気長で面白い計画のように思えた。
そんな倉内からの旅行記も、「これからそっちに帰るよ」というメールを最後に鳴りを潜めた。
授業中は電源を切っていなければならない携帯を、休み時間にチェックするのは楽しかったし、週末に入ってからは何をするにもずっとポケットに入れていた。
色鮮やかな写真ではないけれど、携帯から出てくる自分では決して表せない倉内の文字と、その中の彼の気持ちを、花は一生懸命追いかけた。
そんな日も、もう終わりだ。
いまごろ倉内は、家に帰りついただろうか。フルールと感動の対面をしているだろうか。
知りたいことや聞きたいことは、今となってはもはや日常のものばかり。あえてメールを送るまでもないことだ。だが、震える携帯に慣れてしまったせいか、それが少し花にとっては寂しかった。
そんな時。
ピンポーンと家のチャイムが鳴る。
「はなー、手を離せないから出て」
鍋の前の母にそう言われて、「はあい」と花は玄関に向かった。どちらさまですかと問いかけると、隣のおばさんだった。「お母さんいるかしら、町内会のことなんだけど」と言われて、花は台所へと戻った。
「あらそう。じゃあ花、お鍋吹きこぼれないように見てて。アク取ってくれると助かるわ」と、鍋の前をバトンタッチする。彼女はぼんやりと、魚のアラのお吸い物らしき骨の踊る湯の中を見ていた。
玄関からは母の楽しそうな声。町内会の話だけでなく、きっと雑談にも興じているのだろう。お湯の水面を、浮き上がってきたアクが円を描くように回りだすのを見つめる。茶色いアクは、だんだん鍋の金属へ向かって行く。花はお玉と小皿を持った。あの逃げ惑うアクを追い詰めようと思ったのだ。
アクにとっては、生死を賭けた攻防が行われている最中、母が台所に戻ってきた。さっきまで「あらあらまあまあ」とか玄関でやっていたが、それはもう終わったのだろうかと、花はお玉を持ったまま母を振り返る。
「花、ちょっと玄関行って、荷物もらってきて」
手を伸ばした母ににこっと微笑まれて、花は「?」となった。何か気持ち悪い顔に見えたのだ。いつもの笑顔と違うような。
町内会の荷物?
首を傾げながら、花は台所を出た。そこを出て右に曲がれば廊下の先が玄関だ。目隠しも何もない、狭い廊下の先にはもう玄関の扉が見える。
「……!!」
次の瞬間、花は自分の心臓が飛び出さんばかりに驚いたのが分かった。
「か、か、か、楓先輩!」
そこには、まだ制服姿のままの倉内がいたのだ。まさかのフェイントに、花は台所の母に珍しくキシャーッと牙をむきたくなった。あの笑顔の意味は、これだったのか、と。
「……ただいま、花さん」
はにかみながら倉内が、こんばんはではなくそんな挨拶を投げる。
「お、おかえりなさい。どうしたんですか?」
まだバクバクする心臓を抑えられず、花は慌てて玄関まで駆けつけた。
「学校じゃ、これ、渡しにくいから。皆さんで食べて」
差し出されたのは、八ツ橋の箱。個人的な小さなおみやげではなく、わざわざ家用にまで買ってくれていたようだ。義理堅すぎると花は、心の中の来年の修学旅行おみやげメモとして、倉内家の名前を書き込まなければならなかった。
「ありがとうございます、わざわざすみません」
こんな大きいものは、確かに学校には持って行きたくないだろう。友人として渡すにしては仰々しすぎる。
「それと、これは花さんに」
受け取った八ツ橋の箱の上に、そっと乗せられる小さな包み。
「あり、ありがとうございます」
その頃には、ようやくびっくりのドキドキも落ち着いていって、花はまっすぐ倉内を見ることが出来た。
「修学旅行、楽しかったですか?」
「……うん」
一拍、奇妙な間が空いた。何かあったんではないかと、首を傾げると「ないよ、何もない。楽しかったよ」と慌てて言葉を乗せられた。
「私も楽しかったです。名所めぐりのメール。ありがとうございました」
いま両手が空いていたら、ポケットから携帯を出してアピールしていたことだろう。しかし、花の両手の上には八ツ橋と袋が乗っている。
それに倉内が、へへへと恥ずかしそうに、でも幸せそうに笑う。力作のメールを花が喜んでいるのが分かって、きっと嬉しいのだろう。
「来年までこのメールとっておいて、私も一緒に修学旅行に連れていきますね」
そんな彼の嬉しそうな顔に、花も嬉しくなる。だから、彼女のとっておきの計画を、大事な友人には打ち明けた。
「えっ……」
次の瞬間。
倉内は恥ずかしくなってしまったのか、一瞬耳まで赤くなって、「そ、そう」と顔をそらしてしまった。花にとって最初の不意打ちの驚きを、変なところで返してしまった気がする。本来であれば、その反撃にあうべき相手は倉内ではなくて母だったというのに。
江戸の仇を長崎で討ってしまった。
「今年、一緒に楓先輩に修学旅行に連れてってもらいましたから、来年は私が楓先輩を連れていくんです」
仇討ちじゃありませんよーとアピールするために、花は自分の気持ちをちゃんと説明した。「あ、ああ、うん、そう」と何だかうまく伝わっている様子はなかったが。
「そういえば、フルール……フルちゃんは大丈夫でしたか?」
だから、花は彼が冷静になれそうな話題に変える。いま彼がここにいることが、その証明であることは分かっていたが、彼女も気になっていたので聞きたかった。
「う、うん。帰ってくるなり離れたがらなくて、少し大変だったけど、怒ってはいなかった。よかった」
倉内の茶色い目が、フルールを思い出す優しい瞳になる。自然に、花もほわんとした気持ちになった。
「それなのに、家を出てきて大丈夫でした?」
まだきっと、フルールは全然倉内に満足していないだろう。それは彼自身も同じのはずだ。
「あ、うん、大丈夫……というか、車の中で待ってるから」
肩越しに少し後ろを振り返る動き。父親の車で来たようだ。きっと、その中ではフルールが彼の帰りを首を長くして待っていることだろう。
「それじゃあ、早く戻ってあげないと」
彼をあまり長く引き止めてはいけないと、花は言葉をたたみ始めようとした。
「あ、うん……ええと、花さん」
前に向き直った倉内が、何か言いたそうに言葉を開く。しかし、すぐには出ない。彼にはこんな時が多々ある。こういう時の花は、ただ黙って彼が言葉を探し終えるまで待つ。
「いつか……いつか、その……」
言いかけたその言葉は──「ごほんごほん」というわざとらしい咳払いが、花の後方から投げつけられたことによってちぎれて消えた。
ああっ!
せっかく、倉内が勇気を出して何か言おうとしたのにと振り返ると、花の父が台所から顔を出している。
「こ、こんばんは、お邪魔しています」
玄関の倉内がぺこりと、頭をさげた。
「修学旅行のおみやげを、わざわざ届けてくれたの」
花は振り返ったついでに、手に持っているものを父に見せる。この家のボス犬は、若いオス犬に「誰の縄張りか分かってんだろうな」と、一言確認せずにはいられないようだ。困ったボスである。
「ああ、いや、修学旅行だったね。うちにまでお土産、わざわざすまないね。ありがとう」
縄張り確認が終わったのか、うむといかめしいフリをした顔で父が頷く。今日はまだ仕事上がりで普通の服装だったからこそ、威厳らしきものがあったかもしれない。お風呂上りでなくてよかったねというのが、娘の正直な意見だった。
「すみません、夕飯時に。じゃあ、花さん、また……明日」
父親の前で緊張した面持ちに戻った楓は、少し堅苦しいカンジで挨拶をした。
「はい、わざわざありがとうございました。また明日、学校で」
慌てて花も、話の風呂敷を畳む。ぺこ、ぺこと高校生の二人が互いに頭を小さく下げ合った後、玄関は閉ざされた。
くるりと振り返ると、もはやボス犬は自分の出番は終わったとばかりに消えている。
「おかあさーん、はい荷物……八ツ橋」
今日のドッキリの殊勲賞のいる台所に戻ると、母はお玉を持ってにっこり花を振り返った。やっぱり少し気持ち悪い。
「わあ、八ツ橋好きなのよ。食後のおやつにしましょ」
食卓の上に箱を置く花に、笑顔の母。母は薄口醤油の小瓶を取り、鍋に注いでいく。きっと鍋の中では、もうアクは全滅させられてしまったことだろう。
上機嫌な母を置いて、花は八ツ橋の上の小袋を手に取った。こっちは、倉内が花個人にくれたおみやげだ。
何だろうと袋を開けたら。
中から出てきたのは──桜の花の形をしたストラップだった。
おおと、そのピンクのストラップを、目の前に持ち上げて見つめる。和風テイストで可愛らしい。
京都らしくもあり、花の名前にもじって選んでくれたのもあり、それを見ているとついへらっと花の顔も緩む。
そして花は、袋の中のストラップを取り出し、ポケットの携帯にとりつけた。
お前も来年、一緒に京都に里帰りしようね、と自分の携帯にぶら下がる桜の花に向かって心の中で語りかけた。
その夜は、倉内も疲れて眠ってしまったのだろう。ブログは更新されないままだった。
翌日、花は倉内と何の約束もしていなかった。しかし、彼女は授業が終わった後、急いで下駄箱へと向かう。話したいことが、いっぱいあったわけではない。でも何だか話したい気分だった。「もしかしたら」という淡い期待に引っ張られるように、花は三階から駆け下りた。
そうしたら。
倉内が下駄箱の側で、慌てて携帯をポケットから出しているのが見えた。メールを打とうとしているのか、急いだ指がスマホの画面をタッチしている。
それに、あっと思った後、ぷっと噴き出してしまう。
ふたつ、面白いことに気づいてしまったのだ。
ひとつは、きっと倉内も花と同じ気持ちで下駄箱に来たはいいが、彼女がいないのでメールしようとしているということ。もし、最初に花が到着していたら、メールしていたのはきっと自分だったろうと思った。
もうひとつは。
倉内のスマホケースに──紅葉の葉のストラップがぶら下がっていること。花と同じシリーズのようだ。雰囲気がよく似ていた。彼もまた自分の名に見合ったストラップを買ったのだと思うと、すっかり彼女は楽しくなってしまった。
一生懸命花にメールを打とうとする倉内が、それを終えてしまうより先に。
「楓先輩!」
花は、彼に向かって呼びかけたのだった。
『倉内楓の修学旅行 終』
倉内楓 修学旅行翌日のブログ
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無事、修学旅行が終わった。本当は昨日帰ってきたんだけど、すっかり疲れてしまってブログは書けなかったから今日まとめて書いている。
旅行から家に帰って扉を開けたら、いつも以上に必死な顔でフルールが飛び出してきた。
ああ、僕のフルール。僕もずっと君に会いたかったよ。
フルールはニャアニャア鳴き続けて僕にしがみついた。僕がいなかったことを責めているようだった。僕を責めていいよ、フルール。それくらい、僕が必要だったということだから、もっと鳴いていいよ。
ううん、あんまり鳴かないで。フルールを寂しくさせたことを思うと、僕の胸がとても痛んでしまうから。
フルールは、それからしばらく僕から離れなかった。どこにでもついてきたし、身体のどこかを触れさせたがった。可愛い僕のフルール、僕も一緒にいたいよ。
ただ、ひとつ困ったことがあった。旅行のお土産を配りに行かないといけない。従姉兄たちの家と、大事な友人のところへ。フルールに分かってもらおうとしたけど、今日の彼女は話を聞いてくれそうになかった。だから、父に頼んで彼女も一緒に車で行くことにした。
車の中では本当はキャリーに入れなければならないんだけど、フルールはすごくいやがったから抱いていたら、とても安心しているようでおとなしくしていた。
従兄の家についたので僕が降りようとしたら、フルールが離れたがらなくて困った。「すぐ戻るよ」と言って何とか父に預けてから、さっと渡して戻ってきた。フルールはこれで車から出ても帰ってくると理解したに違いない。次の従姉の家の時は、前より少し嫌がり方がおとなしかった。お土産を渡してすぐに帰ってきた。もっと安心したようだ。
次はいよいよ大事な友人の家。ここは、もしかしたら少しだけ時間がかかるかもしれないが、フルールはこれまでの信用で僕を早めに放してくれた。ありがとう、賢くて愛らしい僕のフルール。
大事な友人は僕が来たことに驚いていた。でもお土産をとても喜んでくれた。良かった。ストラップを、僕はお土産にストラップも買って渡したら、翌日(今日)もう携帯につけていてくれた。気に入ってくれて本当によかった。
フルールにもお土産を買った。綺麗な鈴の入った和風の生地のお手玉。転がすとちりんちりんと音を立てる。そのうちフルールの爪で破られてしまうかもしれないけど、それは仕方がない。赤い生地のお手玉は、フルールと一緒にあるとよく映えて綺麗だ。
一緒に旅行には行けなかったけど、旅行先でも一緒にいられた気がして、僕は少しだけ幸せだった。僕がこの目で見たものを同じように伝えることは出来ないけど、一緒にいられない寂しさ以外のものが、確かにあったんだと思う。
ああでも、でももし、もしも一緒に旅行に行けたなら、どれほど世界はもっと美しく輝いていただろうかと思わずにいられない自分が悔しい。小さい自分が悔しい。もっと大きな男になりたい。
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