Prelude
――――――――ポツリ。
一滴の雫が天より降り注ぐ。……雨だ。
――――――――ポツリ、ポツリ、………ざぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ。
一定のリズムを刻んで降り注いでいた雫はやがて、勢いを増し流れていく。
自然が起こした現象を誰も止めはしない。勢いをなお強めていくこの雨が傘を持たない人にとってどれだけの害になろうが、自然―――――――――神はそんなもの知ったことではない。
足元を見れば、ほら。ぽっかりと空いた底の見えない闇の穴。奈落は直ぐそこだ。
東京都 千代田区。
と、"呼ばれていた"この地は既に半分以上死んでいる。一年ほど前は文明の英知を誇った大都市、首都の一部、行政機関さえ置かれていたこの場所も今ではただの『災害地区A』という全く味気のない。価値の欠片もないまるで廃棄物のような扱いとなってしまった。
一年ほど前に何の前触れもなく、東京都心で発生した大規模な地盤沈下。余震もなく、本当の意味で突如発生したそれは老人の驚きも若者の叫びも幼児の泣き声も、喉の奥から発することもできず全てが奈落へと一瞬にして呑み込まれていった。
日本の行政府が消え去ったことにより国民は混乱し、一時は国が崩壊する恐れさえあった。だが、友好国であるアメリカ合衆国の政府が一時的に支持を取ることで混乱は鎮圧される。
そして、安全政策の一時的措置として円形状に見事な形を作り出し、地図に一生残り続けるぽっかりと空いた大穴、『災害地区』を囲うように壁が建設されることになった。
ここはまだ壁の建設の進んでいない、所謂『立ち入り禁止区域』。立ち入り禁止とご丁寧に黒と黄色で大きく書かれたビニール製の看板と同じ色のロープで線引きされているものの、安全は全く保障されていない。
――――――――この場所でひとりの少女が自殺した。
新聞にもテレビ、ラジオのニュースでも、ネットでもあらゆるメディアにこの情報は大見出しで取り上げられた。
「災害によって失った恋人の後を追った」「家族のいる地の底へと行きたかった」「この世界に絶望して、生きる意味を見いだせなくなった」
ネットの掲示板や新聞各社、哲学者、心理学者、精神科医。様々な人間が憶測を語り合う。
家族でも友人でもない人間が、勝手に人の『死』に理由をつけて、いかにも「彼女は悲しい存在だった」と世に知らしめる。一体何様だ? あんたらは他人の感情を手に取るようにわかるサイコメトリーでも持っているのか? ほぼ100%違うだろう。
崖の淵で降り注ぐ雨がどんどん、底の見えない穴へと流れていく。
学生たちの間で流行りの噂がある。
《壁の向こうでは穴から出てきた怪物が死骸を貪り食っている》
《未知のウィルスが発生し、ゾンビになった人間が何人も壁に縋りついている》
ただの噂だ。何の証拠もない。頭のいい現実主義者はそう言って鼻で笑う。―――でも、もしかしたら……マイナス思考の人間は恐れを抱く。
そんな壁の向こうへと自殺した彼女の遺体は見つかっていない。いや、誰も見つけようとしない。
警察も消防も、軍も家族も。どんな人間も組織も目の前に広がる奈落を恐れ、関わろうとはしないのだ。彼女の葬式は昨日行われた。もちろん遺体のない状態での葬儀。美しい長い黒髪の彼女を見た最後の顔は少し前に撮った写真の入った額で儚げに笑っていたものだった。
「………許してくれとは言わない。けど、ごめん」
少年は懺悔した。若干伸びた黒髪は普通だが、目の下に少々できたクマが普通の少年には特徴になっている。
崖の淵に一歩前へと進み、手に持った花束をギリギリのところに置く。ビニール包装された花の束が雨水に打ちけられ、その花弁が揺れる。色とりどりの花は葬儀に使うことのなかった供花であった。
ポケットに手を入れる。豪雨の中一度も使用されない折りたたみ式の傘だ。傘を開くと、供花を覆うように傘も地に置いた。
目線が傘のほど近くまで来ると合掌し、黙祷。それは三十秒ほどで終了した。
「また、来る……から、……」
立ち上がると、少年は瞳を一度外套の袖で拭い、方向を反転させ、歩き出した。
―――――――この日が少年、蒲武 陛斗にとって最後の日であった。
構想は一年以上前からできていたものの二次創作ばかりで、オリジナル小説は初となります。
まだまだ序盤ですが、感想など頂けたら幸いです。