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三体の死神

 日本は国家破産した。

 社会は混乱した。経済への深刻な影響はもちろん避けられないが、当面の困った事態は、社会のインフラが麻痺してしまった事だった。電気ガス水道はなんとか活きていたが、物流に障害が発生し、主に食料品が店頭から姿を消した。もちろん、皆が競うように買い漁った事も大きな原因の一つだ。

 米の配給が行われ、そのトラックに人々は群がって行列を作った。それだけでは、全員分には回らなくて、中には餓死してしまった人もいるらしい。もちろん、食料の略奪や暴行事件もたくさん起こった。

 それで、知り合いが何人か死んだ。

 それくらいは起こるだろうと予想していた僕は、前もって備えていたからなんとか無事に過ごせた。非常食を一か月分用意して、農家や農協に勤めている友達にも連絡を入れて食料を確保しておいたのだ。自分の家に食料がある事は極力知られないよう心がけた。もちろん、僕の予想を超えて社会が麻痺をし続ければ、僕と家族の命も危なくなる。が、なんとか二週間で店頭に食料品が並ぶようになった。もっとも、かなり値段は高騰していて、数も少なかったけど。その食料品も瞬く間に売り切れた。

 社会が安定してくると、ようやく社会の状況がよく見えるようになった。

 中小企業の会社員を中心に、自殺者が急増していた。もちろん、株価や円は急速に下落した。それに伴い、物価も二倍から三倍に高騰した。因みに、国家破産とは国債が売れずに暴落した状態だ。細かい説明は割愛するが、国債が暴落すると、金利が上がる。それにより、金利は20%ほどになった。変動金利で銀行からお金を借りてローンを組み、家を買っていた人は、当然返し切れない。直ぐに家を奪われる訳ではないけど、毎月借金を返すどころか増える事態に追い込まれる人が多く出た。

 早くに社会が安定し、金利が低下してくれなくては、この人達はいずれ家を奪われてしまう。場合によっては、ホームレスだ。

 僕は固定金利でローンを組んでいたから、そうはならなかった。ただ、知り合いで借金で首が回らない状態に陥った人が何人かいて、姉夫婦もそのうちの一つだった。姉にも知り合いにも、固定金利の方が良いと僕は警告しておいたのだけど、彼らはそれを無視したのだ。変動金利の方が得だという、銀行の甘い言葉に騙されてしまっていた訳だ。姉夫婦は、家を手放して僕の家に引っ越すことを真剣に検討し始めた。

 信用収縮によって、破産する企業が相次いだ。通常、社会には実際に発行される通貨よりも多くの通貨が“創造”されている。しかし、国家破産により、それら創造されていた通貨がなくなってしまったのだ。

 これを理解してもらう為には、まず信用創造から説明し始めないといけないかもしれない。

 信用創造。

 誰かが銀行に金を預けたとしよう。すると、銀行はその金を会社などに貸す。借り手である会社はその借りたお金を、ほとんどの場合は、手元に全額置く訳でも短期間で使い切る訳でもない。それは簡単に想像できるだろう。そして使わない金は、銀行に預けられる事になる。すると、銀行はまた会社などにそれを貸す。つまり、貸した金を借りて、それを更にまた貸しているのだ。これを繰り返すことで、金は実際に存在するよりも多く市場に出回ることになる。これが信用創造だ。

 ところが、会社が潰れ始めると、これとは逆の事が起こり始める。金を借りていた会社が倒産すると、“創造”されていた通貨が減り始めてしまう訳だ。銀行などの金融機関が機能しなくなれば、その勢いは加速し、一気に経済社会は萎縮してしまう事になる。自分達が貸していた金が消える事態に陥るから、当然、会社は維持できない。

 こんな事が起これば、失業者が溢れるのは簡単に誰でも分かるだろう。そして、それに伴い自殺者がまた急増する。当たり前に訪れる帰結として。

 僕はそれを冷めた目で見つめていた。ネット上では、税金を無駄遣いをし続けた役人や政治家や民間企業、そして公務員への悪口が大量に書き込まれていた。国家破産したのはお前らの所為だ、と。よくも、家族や友人や恋人を殺したな、と。

 責任の擦り付け合いじゃ、何にも解決しないのに。

 そう訴える人達の中には、どれだけ僕が訴えても、国家破産対策に耳を貸さなかった人物も含まれてあった。こうなる前に、これだけ熱意を持って訴えてくれれば、こんな危機は回避できたかもしれないのに。

 もう遅いんだ。今更訴えたって、事態を益々混乱させるだけ。そしてその混乱は、更なる多くの犠牲者を生み出すだろう。

 急速な物価上昇は、長い間続いた。が、給料はそれほどは増えない。ただ、それでもなんとか生活できるくらいではあった。もっともこれは僕の場合の話だ。職を失った多くの人は、生活できなくなっていた。

 僕はなんとか職を維持できたのだ。もちろん、それは僕がそれなりの対策をしていたからに他ならない。食料を確保したり家のローンを固定金利で組んだりといった事だけではなく、僕は国家破産後に職を維持できる方法も考えていたのだ。

 株価が低下すると、外国の企業は一斉に日本企業の買収にかかった。政治家や官僚は無能だが民間は優秀。これが、日本に対する国際評価の一般的なもののうちの一つだ。国家破産によって通貨が下落し賃金が下がれば、ハンデがなくなり、皮肉な事に国際競争力は強くなる。そして、にも拘らず、その反対に株価は低下している。買収しない手はない。当然、争うような買収合戦が起こる事になる。結果として、株価は急速に回復した。もっとも、それが民間に反映される事はあまりなかったのだけど。更に言うのなら、その買収対象として価値があると見なされた企業は、輸出関連企業だけだった。破綻状態の国内を相手にする企業に光を見出す人はあまりいないから、これは当然の話だ。

 僕はこれを予想していた。それで、予め輸出企業のシステム部に狙いを定めて、その職を担っていたのだ。小さいけど必要なもので、独特の業務知識とプログラムの知識が求められる現場。僕はそこで確かな位置を固め、必要な人材になる事に成功していたのだ。

 しばらくの混乱の後、僕は問題なく職場に復帰できた。もちろん、給料はそんなに上がらなかったし労働は過酷だった。が、それでも生活はできた。

 なんとか生き残れそうだ。

 その中で僕はそんな事を思っていた。家では父と母が右往左往していた。彼らは僕が買った家で暮らしているのだ。保険が支払われない、年金が少ない、などと騒いでいる。彼らにとっては、想定していなかった不測の事態なのだろう。僕にはそれがどうしてなのか理解できない。何故なら彼らは、国家破産前から、政治家も官僚も信用できないとよく言っていたからだ。日本に膨大な借金があって、そんな重要なポストにいる人間達が信用できないのなら、世の中の根幹が揺らいでしまっても別に驚くような事じゃないはずだろう。どうして、そんなに慌てているのだ?

 国家破産前、父や母はよく僕に向けて、どうして結婚しないのかと言っていた。僕が「危険だから」と返すと、怪訝な表情を見せていた。理解できないという感じで。もし結婚していたら、生活は維持できなかっただろうから、僕の予想は正しかった事になる。父も母も、社会がこんな事態に陥るとは考えもしなかったのだ。

 政治家や官僚に対しては不信を抱いている。しかし、自分達の生活には崩壊するほどの大きな不安は感じていなかった。この矛盾がどうして起こるのか、僕はそれをこんな風に考えてみた。

 政治家や官僚の不信は、彼らにとって実際の生活とは違う、異世界の出来事だった。その為に、伝えられる政治経済ニュースが、自分達の生活に強い影響力を持つとは、リアルには想像できていなかった。だから、国家破産が起こるとは思えなかったし、それに対する対策も取ろうとは考えなかった。

 それは或いは、半ば仕方のない事だったのかもしれない。何故なら、そういった生活に対する不安は、巧妙に覆い隠されてあったからだ。例えば借金で誤魔化したり、積立金でフォローしたり。

 結果的に、数々の政治不信を喚起するようなニュースと、現実の生活が乖離してしまったのかもしれない。それで感覚が麻痺し、対策を執る事を忘れ、そして、それを防ごうとも思わなかった。

 もっとも、少しでも積極的に知識を集めようと思えば、危機的な状況である事は直ぐに理解できるし、その嘘も見破れる程度のものなのだけど。

 ……仕事はたくさんあった。わずかな人数で業務を回しているからだ。毎日のように、深夜残業が続く。そんなある日、家に辿り着いた僕は異変を感じた。家に帰ると、父も母も寝ているのが常だから、部屋の中は静寂に包まれている。そして、その所為で人の気配が敏感に感じ取れるのだ。

 誰かいる。居間に足を踏み入れたところで、直ぐにそれが分かった。電灯を灯すべきかどうか迷った。相手に警戒感を持たれてしまう。けど、結局僕は灯りを点けた。すると、台所の奥の暗がりに、男が一人いるのが見えたのだった。男は、何か刃物を持っているようだ。

 「もう見えているよ」

 僕は男にそう話しかけた。すると、男は凶暴な瞳を泳がせながら、僕の目の前に出てきた。怯えているような、脅しているような複雑な表情。口元には、何かの食べカスがついていた。床や流し台に、食べ物の残骸が散乱しているのが見える。どうやら飢えに耐えかねて、この家を狙ったらしい。

 「もう充分、食べただろう? 見逃してあげるから、出て行ってくれ」

 僕はそう言えば男が出て行くと思っていた。が、男は出て行かなかった。それどころか、僕に近付いて来る。

 「なんだ?まだ、何か欲しいのか? 金か?これ以上、罪を深くするのは、あまり賢い選択だとは言えないと思うけどな」

 そう言ってみる。しかし、その言葉も男には効果がなかった。血走った目で男はこう言う。

 「お前みたいなのがいるから、こっちに仕事が回ってこないんだ。自分達だけ、恵まれた暮らしをしやがって! 金はもちろん貰うさ。でも、それだけじゃない」

 男は刃物を強く握り直した。僕の方へ向けてくる。明らかに、僕に対して殺意を持っているようだ。

 僕は心の中でそれに反論する。口に出せば、この男を却って興奮させてしまうだけだと分かっていたからだ。

 僕はこんな事態に陥らないよう、努力するべきだと皆に警告をさんざん発した。それを無視し続けたのはそっちじゃないか。それに、僕が無事に暮らせているのは努力をし対策を執ってきたからだ。生活が破綻したのは、対策を怠った自分自身にも責任があるはずだ。

 しかし、口に出しても出さなくても同じだった。男は、既に極度の興奮状態で、その行動は止まらなかったからだ。

 「死ね!」

 男はそう言うと、僕に突進してきた。刃物を僕の胸に突き刺す。僕はその時、何も感じなかった。ただただ、男の醜い表情だけが脳裏に焼きついた。そして、それを見た瞬間に全てがどうでも良くなった。

 もう、いいか。死んでも。

 その中でそう思った。そして、全てが真っ暗になる。

 

 ……という、小説を僕は書いた。書き終った後で、僕はどうして主人公を殺してしまったのかとふと疑問に思った。いや、そもそも疑問に思うべき点は、どうして強盗が主人公に強烈な殺意を抱いていたかだ。何か食べ物を口にすると、人間は落ち着くものだ。飢えがその原因なら、なお更。しかし強盗の興奮は治まらなかった。

 つまりは、あの強盗……、“他者”が主人公に対して殺意を抱く何らかの必然が、この小説にはある事になる。

 ちょっと考えて、僕はそれに気が付いた。

 そうか。この小説の主人公は、自分だけが助かる方法を考え、実践していたんだ。他人をほぼ見捨てていた。だから、他人がこの主人公に敵意を向けていると僕はそう連想してしまったに違いない。でも、恐らくはそれだけじゃない。諦観。どうしようもない諦観と皮肉を、僕はこの物語に込めたつもりでもあったから。

 皆が助かる方法を実践して実のあるものにする、それは、一人だけの力じゃ無理がある。皆の協力が必要だ。だけど、皆は心の底からやる気がない。このやる気のない連中の目を醒ます為には、一体どうすれば良いのだろう?

 ――そんな事はできない。

 だから、自分一人が助かる方法を考えよう。知り合いが何人死んだところで、気にしない。だってそれは自業自得だから。自ら、悲惨な道を選んだに過ぎない。でも。

 そもそも、生き残る事に何の意味があるのだろう?

 僕はそうも思ってしまう。

 本来は、社会の問題を解決する為には、皆がそれぞれの役割を果たさなくちゃいけない。そのはずだ。だけど、皆は近視眼的になって、目の前にある利益だけを追求して、結局は自分の首を絞めて、自分自身を追い込んでいる。

 損はしたくない。

 直接、そんな表現を使っている訳じゃないけど、実質的にはそれと変わらない言葉。それを恥ずかしげもなく使って、自分に負担がかかる事を敏感に拒絶する人達。僕にはその姿が醜く見えた。

 とてもとても醜く見えた。

 そして、こう思う。

 こんな世の中を生き続ける意味が、果たしてどれだけあるのだろう? 努力して、生き残って、こんなものをまだまだ見続けなくちゃいけないなんて、考えただけでもうんざりするじゃないか。

 ――そんな思いがあったから、僕は恐らくはこの小説の主人公を殺したのだろう。つまりは、絶望していたんだ。僕は。この世の中に対して。

 僕はそう自覚すると、少し微笑んだ。久しぶりだな、この感覚は。そう思いながら。そして、引き出しの中に仕舞ってある、三体の死神の事をイメージした。心の中の部屋、隅にある机、その引き出しの中にある死神だ。僕はそこに彼らを閉じ込めたのだ。

 子供の頃から、大人になるまで。僕はその死神達と一緒に過ごした。“死にたい”という気持ちと一緒に過ごした。

 断っておくけど、“死にたい”というその気持ちは、自分の意思でどうこうできる類のものじゃなかった。眠りたいという思いが、自分ではどうにもならないように、“死にたい”というその気持ちも自然に浮かび上がってくるんだ。そして、僕はその気持ちと必死に闘っていた。その気持ちをどうにかして、抑え込もうとしていたんだ。

 そんな中で、僕は当然その存在について考えた。この死神について。どうして、こんな気持ちが浮かび上がってくるのだろう?

 そして。

 その気持ちが、ただ一種類のものじゃない事にも気付いていったんだ。こいつらは、複数いる。少なくとも三体。

 成長して、ある時期になると、僕はその三体の死神を、閉じ込める事に成功した。心の中の部屋にある、机の引き出しの中に。でも久しぶりに、そいつらを取り出して眺めてみるのも良いかもしれない。危険は恐らくはないはずだ。力は失っているだろうから。先の小説を書き終えた後、そう思った僕は、心の中の部屋をイメージした。そして、その隅にある机の引き出しを開ける。

 しかし、そこにあるはずの、三体の死神達はどこにも見当たらなかった。確かに、ここに閉じ込めたはずなのに。

 僕はそれに悪い予感を覚えた。あれらが消えてなくなってしまったなんて、起こり得るとは思えない。ならば、知らない間にここから抜け出してしまったのだろう。ここから逃げられた、その事自体はそれほど大きな問題じゃない。問題なのは、それに僕が全く気が付いていなかった点だ。それは、僕があいつらをコントロールできていない事を意味するから。

 コントロールできていない以上、どんな形であるにせよ、あいつらは絶対に僕に対して、何らかの働きかけをしてくるはずだ。そして僕は思い出すのだろう。あいつらと必死に闘っていた頃の自分を。そして、それは今の僕に何かしらの大きな影響を与えてくるはずだ。今の僕の現状に対して。それが、悪い影響なのか良い影響なのか、或いはそのどちらでもないのかは別問題にして。

 

 死神三体のうちの一体目が現れたのは、帰宅途中の電車の中だった。

 『苦しいのじゃないの?』

 まずは、そんな声が聞こえた。ふと気付くとそいつは既に目の前にいた。薄くて分からなかったのか、それとも僕が気付きたくなかっただけなのかは分からないけど、とにかく、そいつは目の前にいた。その時のそいつは、真っ黒い影の姿をしていた。電車に乗っている他の乗客達にはもちろん見えてはいなかった。座席と座席の間、そこに身体を滑り込ませた僕の目の前、ちょうど吊り革があるくらいの場所に、そいつは現れていたのだ。そいつは更に語りかけてくる。

 『だったら、逃げちゃいなよ』

 その言葉で僕は察した。こいつの名前は“逃避”。逃避としての自殺願望。

 自殺を望む気持ちには、少なくとも三つの要素があると僕は結論出していた。それが三体の死神の正体だ。そして、そのうちの一つは、逃避としての自殺。苦しみから解放される為に願う、逃避、その手段としての自殺。

 『死ねば、逃げられるよ』

 そう。昔の僕は、ちょうどこんな風に死に囁きかけられていたんだ。いつも。

 「何から逃げるというんだい?」

 はっきりしない黒い影。今の僕にとっては、こいつの存在が一番ぼやけている。子供の頃の自分には、与えられたその環境に抗う力が何もなかった。だから、ただただ耐え続ける事しかできなかった。この死神が、明確な形を得ていたのはその時代だ。死ぬ事が、ほとんど唯一の逃避手段に思えたあの時代。

 死ねば、逃げられるよ。

 だからそれは、厳密に言えば、自殺願望ではなく逃避願望だった。死神は答える。

 『君が今直面している問題から。

 悪い方向へ流れていこうとしている世の中。それを止めようと思っても止められない、己の無力さと、人々への絶望。

 君を苦しめている、それらから』

 僕はその死神の返答を聞くと、「わざわざ死ななくても、逃げられるさ、そんなものからは」と、そう答えた。

 環境に抗えなかった子供の頃とは違う。僕はもう何もできなかった子供じゃない。ちゃんと対策を立てられるし、その為の行動も執れる。

 毅然としている僕が、逃避の死神には理解できなかったようだった。ふわふわと頼りなく揺れている。

 僕はそれを見ると、こう言った。

 「おいで。もう、君が活躍できるような悩みを僕は抱えている訳じゃないんだ。だけど、君は消えない。完全にはね。だから、帰ってきてくれ。そんな風に、僕に外から囁きかけたって、もう何の意味もないんだよ」

 それから僕は心の中に小部屋をイメージした。例のあの小部屋だ。そして、隅にある机の引き出しを開く。

 ここへ。

 頭の中でそう唱えると、逃避の死神は目の前から消えて、その場所へと吸い込まれていった。良かった。思ったよりも、ずっと素直に従ってくれた。この死神は三体の中じゃ、一番扱い易いのだけど、それでも扱い方を間違えると、とても厄介になるから用心が必要なんだ。

 ただ、引き出しの中に入った後も、逃避の死神はまだ顔を出して僕を見ていた。その小部屋に入ると少しは形を得たようで、真っ黒い影に大きな一つの目が浮かんでいる。

 『君が何もしなくてもさ』

 そして、その位置に座った死神は、“死”とは少なくとも直接には関係のないこんな語りをし始めたのだ。

 『実は、それほど大した事態には陥らないのじゃないかな? この社会は。ずっと長く借金をし続けられるさ』

 この死神の本質は、“逃避”だ。恐らくはだから、僕が問題から目を背けていても良いような、そんな“言い訳”を語り始めたのだろう。

 『どれだけ国が借金をしたって、その金は民間に回るんだよ。そして、民間はまたそれを貯金する。すると、国はまたそこから金が借りられるって寸法さ。

 もちろん、いつかは破綻するだろう。こんな事がいつまでも続くはずがない。でも、当面は、何十年かくらいは耐え切れるのじゃないかな?』

 確かに、そんな話もある。説明を省略して要点だけを述べるけど、膨大な借金を抱えている日本が国家破産しないのは、民間の貯金から借金をし続けられているからだ。これは逆を言えば、民間の貯金が減っていけば、日本は国家破産してしまう、という事でもある。ところが、国が借金をして金を使えば、その金は民間に回り貯金も増える。そのお陰で、日本は国家破産しないかもしれない、なんていう楽観的な見通しを抱いている人がいるようなんだ。逃避の死神が語っているのは、恐らくはそれだろう。

 僕はそれにこう反論した。

 「何十年だって? それは、いくら何でも楽観的過ぎると僕は思うね。何しろ、既に国民の借金は減り始めている。

 しかも、2012年から先は、退職する団塊の世代が貯金を使って生活をし、その世代への社会保障費が増大するようになる。つまり、貯金が減る上に政府の支出が増えてしまう訳だ。もちろん、団塊の世代が使ったお金が、若者の収入になり、若者も同額の貯金をするというのなら話は別だ。しかし、そうなる可能性は少ない。団塊の世代が使ったお金の何割かは海外へいってしまうし、日本の国際競争力は落ちているから、海外からの収入が伸びるとは期待できない。更に、若者に金が回っても、比較的貧困だと言われている若い世代は、それほど貯金をしないかもしれないからね。

 つまり、2012年以降は、国家破産してしまう危険性がかなり高いんだ」

 その僕の話に、逃避の死神はこう応えた。

 『そうなる前に、増税が行われるさ。きっと、国家破産しないよ』

 「そうなったらなったで、どれだけの生活者が苦しむ事になると思うんだい? それに、税金が国民に還元される状態なら、それでも比較的マシになるかもしれないけど、そうとは限らないだろう?

 きっと、政治家だとか官僚だとかに税金は奪われてしまうさ」

 僕の反論に対し、逃避の死神は少しばかり機嫌を悪くしたようだった。

 『君は結局のところ、がんばりたいだけなのじゃないの? その悲観的な結論は、可能性の一つでしかないと思うけどね』

 「もちろん、可能性の一つさ。でも、今のところはどう転んでも、悲惨な事態になる可能性の方が大きい。

 僕は、逃げる為に自分にとって都合の良い可能性だけを見るような、そんな馬鹿な真似はしない。公平に判断するのなら、今の日本が、どうしたって危険な状態と捉えざるを得ないのは明らかだ。

 ……それに、僕がそうなるのは、君のお仲間のお陰でもあるじゃないか。君のお仲間の別の死神の」

 僕がそう言うと逃避の死神は、引き出しの中から出した顔をトプンと沈めた。“自殺”という事象で繋がっている彼らは、身内に弱い。その矛盾に耐えられないから。つまり、これは逃避だ。彼らしいと言えば彼らしいかもしれない。やっと引き込んでくれるようだ。しかし、僕が近付いて引き出しを閉めようとすると、彼はこんな質問をしてきたのだった。引き出しの暗闇の中、目玉だけになった姿で。

 もしも。

 と。

 『もしも、君が君の抱えている問題から逃げるとするのなら、どんな方法があるというのだろう?』

 僕はそれにこう答える。

 「それは簡単だよ。自分だけは助かる方法を考え、その為に全力を尽くす。それが、今の僕にとっての逃避手段さ」

 そう。あの、先に書いた小説の中で、主人公が執っていた行動だ。何もかもを忘れて、誰が苦しもうと誰が死のうと気にしない。自分だけが生き残る方法を考える。

 その僕の返答を聞くと、暗闇の中で目を閉じたのか、逃避の死神の姿は見えなくなった。僕はそれから引き出しを閉める。姿は見えなくなったけど、彼がその中にいるのは感じ取れた……

 閉じ込めた。

 まずは、一体目。

 

 ………ガタ、ゴト。

 電車の中。

 「西船橋、西船橋~」

 

 我に返るとアナウンスが流れていて、いつの間にか、僕は自分が降車駅に辿り着いている事を知った。慌てて電車を降りる。

 降りてから考えた。仮に僕が逃避をしたとしよう。何もかもを忘れて、ただ自分だけが助かる道を選択し、それに向けて懸命に努力をしているとする。その時、果たして僕は小説を書き続けているのだろうか? 否、この問いかけは正確じゃない。こう問いかけるのが正解のはずだ。果たして、僕に小説を書き続ける力があるだろうか?

 ――僕は何も、社会問題を訴える為だけに小説を書いている訳じゃない。でも、僕の小説を書き続ける力、その意欲は、恐らく、どうしたって僕に社会問題を訴えさせてしまうのだろう。

 ならば、僕が逃避をしたその時は、もう僕には小説を書けなくなっているのかもしれない。少なくとも、その意欲は削られているはずだ。

 

 死神三体のうちの二体目が現れたのは、駅を降りて、自宅までの道のりを歩いている最中のことだった。辺りは既にすっかり暗くなっていた。

 雪。

 まずはそれが目に入った。人通りの少ない裏道だった。それは街灯に照らされて、キラキラと輝いて舞い降りていた。だけど、その日は晴れていたから、雪なんか降るはずがないのは明らかだった。そして、その雪はどうやら街灯に照らされた時だけ存在しているようでもあった。いくら暗くても、光の外に逸れた雪が全く見えないなんてありえない。

 僕はよく注意して、その雪が降っている場所を観察してみた。すると、電信柱の傍らに奇妙なものが転がっているのを見つけた。骸骨。それだと分かる。

 これはまた、随分と死神らしい姿で現れたものだ、と僕はそう思った。近付いてみて、それに眼球があるのに気付く。骸骨はジロリと僕を睨んだ。

 『ここは、寒いよ』

 それから骸骨はそう言う。

 「雪が降っているからね」

 と、僕はそれに返す。

 憐れに忘れ去られ、朽ちてしまったその骸骨。しかし僕はそこにある種の滑稽さのようなものを感じずにいられなかった。

 「でも、その雪を降らせているのは君自身じゃないか」

 その理由は簡単。この骸骨は、自分で自分を憐れに演出しているんだ。そして、自分で演出した悲劇の世界の主人公に、自分自身がなってそれに浸っている。外から冷静になって観れば、そんなものは滑稽に思えて当然だ。ボクは可哀想な存在。でも、それを求めているのは自分自身。

 『そうかもしれない』

 骸骨は僕の言葉を受けると、そう言った。『でも、そう思えるのは、君が外から此処を見ているからだよ』。続ける。

 『この場所に入れば、この雪はどう足掻いても避けられないものになる。ボクを苦しめ続けるものになる。

 君に、この世界を否定できるのか?

 分かっているとは思うけど、外からこの世界を否定するのはフェアじゃない。中から否定できてこそ意味があるんだ。少なくとも君については、そうじゃなきゃいけない。この世界に散々頼りまくった君はね』

 僕はその言葉を黙って受け入れた。実を言うのなら、こいつが一番厄介なんだ。三体のうちで。こいつの名は陶酔。悲劇の陶酔に甘える道具としてある、自殺。陶酔としての自殺願望。

 僕はストレスのかかった状況で、その解消手段としてこいつに頼りまくった経験がある。人間の精神には、悲劇による浄化作用がある。悲しみによって、カタルシスが起こる。恐らくは、生物として身体のバランスを整える為に必要な仕組みだったのだろう。だけど、それに依存してしまうような状態に陥ると危険だ。その快感を得る為に自殺を妄想し、そして時には実行に移してしまう。

 周囲から観れば、どんなに愚かに思えても本人の中では現実。いや、現実でなければいけない悲劇の世界。依存していればいるほど、その悲劇の世界は、現実でなければいけなくなる。そして、一歩間違えれば、外の世界の声が入らなくなってしまう。

 僕はその雪が降っている街灯の下に、足を一歩踏み入れた。

 だからこそ、こいつと語り合うには、外からでは無理なんだ。こいつの世界で、こいつの世界のまま相対しないと。

 吹雪。

 足を踏み入れた途端、優しく舞い降りていた雪は吹雪へと変わった。冷たい雪の塊が皮膚に当たって、体温を奪う。

 どこだ?

 その中で僕は陶酔の死神を探した。声がした。

 『ここは、寒いよ』

 足元。

 見ると、子供の頭が転がっていた。雪の上。頭だけで僕を見る。

 こいつだ。僕は一目でそう悟る。肉を得ている。

 「ああ、温めてあげる」

 そう言うと、僕はその子供の頭を抱きかかえて、吹雪から護ってやった。冷たい。雪が当たる度に僕は思い出した。冷たい視線や言葉を投げつけられたこと。どう努力しても無駄だった記憶。自分がどれだけ他人とは違うのかを思い知らされた毎日。

 ふふ。

 帰りたい。帰りたいと言って、その異星人は夜空を見上げて涙を流していました。本当は、そんな星が、存在すらしないと知っていたのだけど。

 僕は悲しんでいた。その悲しみに埋没していた。懐かしい記憶。いつも僕がいた場所。しかし、

 「大丈夫だ」

 雪の冷たさに耐えながら、僕はそう呟いた。この世界は、否定できる。子供の頭は、陶酔の死神は、それに戸惑った表情を浮かべる。僕は続けた。

 「しかるべき対応を身に付け、適切な距離を置く事さえ気を付ければ、その差異はそれほど大きな問題でもなくなるから。

 僕は特別に、悲劇的な境遇にいる人間って訳じゃない。そう思うのは贅沢だよ。僕も君も、自分以上に過酷な立場にある人の存在を認めてきたはずだ。悲しみの雪の中に沈んで、そこにうずくまったままでいるのは、ただの甘えだ。いや、甘えであるべきなんだ」

 すると、子供の頭はこう言った。

 『それが純粋に君の中だけの問題ならば、それは確かにそうだろうさ』

 僕はその言葉に顔をしかめる。

 『でも、今回の君の問題は、それだけじゃどうにもならない。君は君の声を届けなくちゃいけない。でも、届かない。君は皆を助けようとしているのに、場合によっては白い目で見られる。

 経済やその他の社会問題。

 乗り越えられなくちゃ、皆が悲惨な状態に陥る現実。まるで君ばかりが、がんばっているように思える。

 君は“悲劇の陶酔”に頼らず、それらを受け止められるのか?』

 陶酔の死神は、クスクスと笑い出した。しかも、頭だけであったはずの彼には、いつの間にか身体が生えてきている。言葉は続く。

 『君はこう思うはずだ。

 “なんて、不当な立場なのだろう?”

 自分の立場を、世の中を、憎まずにはいられない。そして、世の人間達の醜い姿はあらゆる場面で君に入ってくる。君は虚しくなる。こう思う。どうしてボクはこんなにがんばっているのだろう? 力が失われる。でも、失ってはいけない』

 そこまでを陶酔の死神が語ると、突然にピタリと吹雪きは止んでしまった。辺りはただの黒い世界になる。そして、木が一本、僕の横に生えている。

 そして、その木から、輪にしたロープがだらりと垂れた。

 『世の中に何かを伝えるには、何をおいても“宣伝効果”だよ。

 自分の命を犠牲にすれば、それくらいの宣伝効果は、もしかしたら、得られるかもしれない。“この文章は、先日死を宣言し、新聞に載ったあの男が残したものらしいぜ”。そんな風にして、話題が広がれば、もしかしたら、なんとかなるかもしれない』

 文字通りの“最終手段”。

 どうせ、生きる価値のない世界なら。と、僕はそう思う。思ってしまう。僕はそのロープに首を突っ込んだ。ここにぶら下がれば、或いは。しかし、その途端に、また景色が変わった。

 吹雪。再び、僕は雪の中にあった。身体が雪に埋まって、顔だけを出している。陶酔の死神は、そんな僕を見下ろしていた。彼には身体が出来上がっていて、子供の姿をしているようだった。憂鬱な子供。

 『この手段を執った場合、その結果を、君が知る事はできないけどね。皆が助かるのか助からないのか。まぁ、どうせ死ぬのなら、“助かる”という夢を見ながら死んでいくのもアリじゃないの?』

 僕はその中で、どうにかして声を発する。

 「まだ、やっていない事が、」

 『あるだろうさ。でも、君にそれができるのか? 君は長い間、相当無理をして、協力を呼びかけたはずだ。君の性格には合わない事であるにも拘らず。でも、それは何にもならなかった。もしやるのなら、君はそれ以上の無理をしなくちゃならない。単純な意味での努力じゃないぜ。“無理”だ。

 君が抱いていた思いは正しかったんだ。自分が異分子だという事実。

 これ以上、自分の性には合わない何かをするだけの力が君にあるのか? 君は深く人と接する事ができない。人間関係を維持する事ができない。だから、そういうのを利用して宣伝もできない。それは、充分に分かったはずだろう?』

 頭だけになった僕が、身体のある陶酔の死神を見上げている。その状態で、僕は彼の発する言葉に打ちのめされていた。陶酔の死神は続ける。

 『どれだけがんばっても無駄だよ。君は無力だ』

 僕はその死神の言葉を繰り返す。

 「僕は無力」

 無力。

 『どれだけがんばっても無駄だよ。君が思っている以上に、人々は愚かだ』

 「人々は愚か」

 愚か。

 陶酔の死神は、そんな僕を見ながらにやりと笑った。さぁ、あの言葉を言ってみな。そして、そう言う。

 「ここは、寒いよ」

 気付くと僕はその言葉を発していた。すがるように。助けを求めるように。恨むように。でも、陶酔の死神は助けてはくれなかった。先に僕が、陶酔の死神を助けたようには。あの時僕は、彼の頭を抱えて吹雪きから護ってやったというのに。

 僕は可哀想な存在。

 吹雪が辺りを埋め尽くす。そして、僕の視界は真っ暗になった。また景色が変わる。目の前には、首吊りのロープ。

 声がした。

 『妄想なんかじゃなくてさ。本当に首を括ろうよ。それが唯一の君に残された道だ。死ぬ事が』

 “死ぬ事が”

 僕はそう言われて、死ぬための道具を探した。僕は僕を殺さなくちゃいけない。まだ、全然殺せてない。だから、自分を殺さなくちゃいけない。

 手探りで探すと、暗闇の中に何かの気配があるのが分かった。硬い何か。僕はそれに覚えがあった。

 『何をしているの?』

 僕の行動を不審に思ったのか、陶酔の死神がそう問いかけてきた。

 「殺す為の道具を見つけたんだ」

 僕はそう答える。

 『殺す為の道具?』

 「そう。僕自身を殺す為の道具」

 陶酔の死神はそれに戸惑う。

 『君の道具は既にあるよ。君はそこにある首吊りのロープで死ぬんだ。他の何もありはしない』

 「いや、」

 僕はそれにこう返す。

 「ここに、こうして銃がある」

 僕が手にしていたのは銃だった。僕自身を殺す為の銃。その銃を見ると、陶酔の死神は慌て始めた。

 『それはなんだ? ここに、“そんなもの”があるはずはない』

 「なら、」

 と、僕は言った。

 「ここは君が思っているような場所ではないのかもしれない」

 その瞬間に景色が変わった。僕は机の前にいる。ただし、自分が頭の中で作り上げたあの小部屋じゃない。本当の、自分の部屋だ。

 「思い出したよ」

 僕は言う。

 「あの頃も、僕はこんな風にして、この陶酔の状態から抜け出したんだ。その陶酔が本当に死に迫れば迫るほど、最後の死神が色濃くなって、そして僕を殺し、君を殺した」

 それから僕は陶酔の死神に、銃口を向けた。

 「この死神の前では、君なんて本当の死を願う気持ちなんかじゃない。逃避としての死神のその本質が“死”には直結してはいないように、陶酔としての死神である君も、“死”に直結してはいないんだ」

 が、次の瞬間には、僕は銃口を自分自身の頭に向けていた。

 「君なんて、ただの“ストレス解消”の手段だ。僕は君を恐れない」

 引き金を引く。

 ダァンと、銃声が響く。僕の意識が黒くなる。そして、同時に、陶酔の死神の姿は消えた。

 恐らくは、心の中にある部屋の、あの机の引き出しの中へ戻ったのだろう。

 陶酔の死神が、何かストレス解消以外で役に立ったとするのなら(想像の世界を広げてくれた事以外では)、それは、三体目の死神を呼び起こしてくれた事かもしれない。その点は、僕は彼に感謝しなくちゃならない。

 

 死神三体のうちの三体目が現れたのは、僕が自分の部屋のベッドの上で、横になっている時の事だった。

 銃。

 僕は、相変わらずにそれを握っていた。ベッドの上、目を瞑った、その暗闇の中にしかない銃だけど。

 「自分を殺したつもりでいた」

 僕は。

 そう独り言を言う。

 声がした。

 『その結果、君はどんな自分になったの?』

 (または、何をしたのか。

 それまでの自分では、絶対にしないような、どんな行動を執ったのか)

 「他の人に協力を求めたよ。自分の考えを述べ、どんな状況にこの世の中がなっているのかをできうる限り分かり易く説明して、そして少しだけ協力して、とお願いした。

 それをやる度に、胸が苦しくなったよ。やっぱり、僕には合わない行動だったんだ。止めてしまいたかった。でも、続けた。手応えはほとんどなかった。時には反応があったけど、それも強い力にはならなかった。

 どうしてなのか?

 (皆の問題なのに)

 どうしてなのか?

 (自分達も酷い目に遭うのに)

 僕には分からなかった。しょせん、僕は異分子だからね。皆が理解できなかったんだ。辛うじて察したのは、皆が積極的にこういった問題から逃げているという事だけ。

 説得力があるとか、他の皆が評価しているとか、どうも問題はそんな所にあるのじゃなかったらしいんだ。その“無行動”は、もっと、根本的な部分から発していたんだ」

 証拠と共に理屈を述べ、ある程度の評価者を集めて、その信頼性を高める。

 人が(皆が)助かりたいと思っているのなら、そしてその為には“自分が行動しなくてはいけない”という自覚があるのなら、“自分が社会を変えなくてはいけない”という自覚があるのなら、僕の試みはそれで大きな力になるはずだった。

 「ほとんどの人からは“自分自身が主体性を持って社会に働きかけをする”という概念が欠如していたんだ。

 ただただ社会に流される事。ほとんどの人はそういう性質を持った存在だったんだ。僕とは根本から世界が違う。どれだけ信頼性を持たせても、その概念がなければ、何にもならない」

 僕がそこまでを語ると、声は言った。

 『それで君は諦めたの?』

 「いや、諦めなかった」

 そう。僕は諦めなかった。他にも色々と試してみた。自分には合わない行動ではあったけど、苦しみながら。

 「でも、無駄だった」

 僕はそれから手にした銃をいじって遊んだ。

 「少なくとも、今のところはね」

 もし、協力してくれた人達が、これを聞いたら怒るかもしれない。でも、それは今のところは充分な力にはなっていないんだ。

 『そして、今はもう諦めている?』

 「諦めてはいないよ」

 ……ただ、力は。

 「深夜残業を毎日やって、休日出勤もして、通勤途中とかに勉強して、毎日のニュースもチェックして、後に残ったわずかな時間を利用して文章を書く。

 しかも、大量に。

 流石に、疲れちゃってさ」

 前に進んでいるのかどうかすらも分からないのにさ。

 「本当を言うのなら、まだ試せる事は色々とあると思うんだ。

 だけど、力が沸いてこない。まだ試していない事なのだから、それが無駄かどうかも分からないはずなのに。気力が」

 僕が話してきた人の中には、日本が危機的な状況に陥っている事も、やるべきことをしなくちゃいけない事も、納得してくれた人もいたんだ。

 ところが、その後は全く何も行動をしない。もちろん僕が見ている範囲では、だけど。説得に成功した場合ですら、これだ。

 『何を悩んでいるんだい?』

 「分からないんだ」

 『分からない?』

 「昔みたいに、この銃で僕が僕自身を殺したとしよう。だけど、それで僕は昔みたいに新しい“何か”になれるのだろうか?」

 もしかしたら、全てを諦めて、ただただ自分が助かる為だけに努力するものに変わってしまっているかもしれない。今の自分は諦めたがっている。逃避したがっている。もう充分がんばったじゃないか、と自己陶酔して。三体の死神が全部、勢揃いだ。

 ……そう。三体目の死神こそは、本当の自殺願望。自己破壊としての自殺願望。僕は過去、これを利用して自分を少しだけ破壊した。そして、新しい自分を手に入れた。

 声は言った。

 『それは君次第だろう?』

 僕次第……。

 『君は、自分がそんな自分になってしまうと予感しているのかい?』

 そんな予感は感じていない。まだ。でも、自分を殺してしまったら分からない。

 『君は多分、恐れているだけだよ。その銃を使うことを。その銃を使って、また自分自身を殺すことを。

 前の時だって、どれだけ苦しみ葛藤したか。それをまた味わいたくないだけだよ』

 「確かに、そうかもしれない。

 さっき僕が撃ち殺した自分は、自己陶酔に甘える馬鹿な自分だったし。あれは軽い」

 僕は答える。

 「“自己破壊願望”

 なんで、そんなものが人間にあるのか、僕は考えてみた事がある。その時僕は、こう結論出したんだ。

 何かしらストレスがかかった状態に陥った時、生物はこれまでとは違った行動パターンを執る事を求められる場合が多い。同じ行動パターンでは、生存が危うい。だから、別の行動を見つけなくてはいけない。しかし、生物は保守的なものでもある。自分の行動パターンを変えようとはしない。それを打ち破る必要がある。ならば、その為に設定されたものこそが“自己破壊願望”じゃないか。もちろん、証拠も何もない単なる仮説に過ぎないけどね。“自己破壊願望”によって、生物は新たな自分を作り出す事ができる」

 『うん。分かっているよ。君はその自身の結論に従って、“自己破壊願望”を利用し、自身を変えてきたんだ。そして、実際に、色々と乗り越えてきた。そして、今もそれをやろうとしている』

 「でも、最近不吉な考えを抱くようになってね。

 生物にとって、弱い個体を維持する事は負担になる。生き残りに不利になるんだ。そして普通は、劣った個体は、自然淘汰によって滅びていく。しかし、集団で生活する生物種の場合は、それだけでは不充分かもしれない。もっと効率良く弱者を排除できる仕組みが必要になるのかもしれない。

 そして、自己破壊願望こそは、その役割を担う仕組みなのかもしれない。弱い固体が、自らを死に追い込む。暴発的な行動を執る。自傷行為とかね。

 もちろん、これも仮説に過ぎない。でも、もしそうなら……(君は、)」

 『もしそうなら、(僕は、)君を殺す為にだけある存在だって事になるね』

 暗闇。

 僕はずっと目を瞑って話をしていた。銃の感触を確かめながら。

 『だけど君は、僕を一番積極的に求めているように思える。死神達の中で。こんなに仲良くしちゃって良いの?』

 「何を今更。逃避も自己陶酔も、一時的には必要だけど、それだけだ。依存し過ぎると邪魔になるしね。

 自己管理をする上で、僕が一番必要としているのは君だよ」

 言い終えると、僕は握っていた銃を頭に向けた。やっぱり、これを使わなくちゃいけない。前に進めない。

 「さっきのはちょっとした思い付きさ。それに、“何々の為にある機能”なんていうのは、実は進化においては存在しない。それは偶々生き残った形質であって、目的があるものじゃないんだ。

 “生物の機構に目的がある”というのは、思考的な道具としては意味があっても、真実じゃないからね。“自己破壊願望”は自己を変える役割を果たしてきたかもしれない。弱者を効率良く淘汰する役割を果たしてきたかもしれない。でも、それは偶々だ。別に何か目的があった訳じゃない。

 なら、僕は自分にとって有益になるように“それ”を利用してやるだけさ」

 『でも、警戒なしに僕を使い過ぎれば、いつかは君に、本当に境界線を越えさせてしまうかもしれないぜ。

 その一歩を押してしまうかもしれない』

 「分かってる」

 分かってる。もしその時が来たら、その時は……、

 それから僕は闇の中で引き金を引いた。

 ダァンと銃声が響く。

 

 僕は目を開けてみた。もちろん、そこはいつも通りの僕の部屋だ。僕はベッドから身を起こすと、パソコンの前へと向かった。

 電源を入れる。

 パソコンが立ち上がるまでの間で、例の小部屋を頭に思い浮べた。死神達は、ちゃんと三体引き出しの中にいる。

 本当に僕が少しだけ新しい自分になっているのかどうかは、よく分からなかった。どうしてこいつらが久しぶりに暴れたのかも。もしかしたら、過酷だった仕事の後遺症で、調子をちょっと悪くしていただけなのかもしれない。でも、どうであるにせよ、やるべき事は変わらない。書かなくちゃいけない事、伝えなくちゃいけない事がたくさんあるんだ。

 完全にパソコンが立ち上がると、僕は書きかけの文章があるファイルをオープンした。

 案を考えるだけなら、得意なのだけどな。苦笑しつつ、そう思いながら。

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― 新着の感想 ―
[一言]  こんばんは。  そうですね、「どうかせんといかんだろ」とは考えますよね。で、あれこれしなきゃいけないとは思うけど、仮に自分が音頭をとっても影響を与えられる気もしない、という訳で取りあえず静…
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