『フライングゲットはなしで』
十月七日。新幹線のドアが開き、上田駅のホームに降り立つと、思わず肩をすぼめた。
細い秋時雨が、空の青を灰色に濁らせている。冷たい秋風が首筋を撫でていき、遠くの山肌をわずかに揺らしていた。肌寒い。けれど、頭の中に渦巻く雑音を冷ますには、ちょうどいい冷気だった。
純三さんの小説集『スターティング・オーバー』。
活字を追うと行が歪み、文字の群れが頭の中で散り散りにほどけてしまう志乃にとって、一冊の本を読み切るのは途方もない重労働だ。それでも、文字の輪郭を指先でなぞるようにして何度も拾い集めたのは、そこに描かれていた「上田」という街の響きと、大人の淡い再会のぬくもりがあまりに眩しかったからだ。
純三さんの物語には、いつだって穏やかで素敵なお相手がいる。
一人旅の好きな志乃とは、まるで住む世界が違う。
ADHDとディスレクシア。思考は常に四方八方へと跳ね回り、文字は踊り、人と関われば愛着の歪みが暴走して距離感を踏み誤る。近づきすぎて怯え、離れすぎて拒絶されたと思い込む。そのくせ、カッとなるとアンガーコントロールの堤防はいとも簡単に決壊し、舌の先から尖った刃物が飛び出してしまう。
「ああ、また言っちゃった。あんなこと、書かなきゃよかった」
夜ごとに毛布をかぶって頭を抱え、反省という名の泥沼に沈む。近頃では、相手が感情を持たないはずのAIとさえ、画面越しに大ゲンカを繰り広げる始末だった。
そんな自分が、小説に出てきた街を一人で歩いている。
お城へ向かう道すがら、石垣の脇に咲く花に目が止まった。濡れそぼった秋海棠、うなだれた捨子花、絡みつく薮からし。どれも名もなき風情で、どこか自分のように不器用で、所在なげに揺れている。
柳町の古い家並みを抜け、小さな蕎麦屋の暖簾をくぐった。
頼んだのは、名物のくるみそば。
運ばれてきた器には、淡い乳白色のくるみダレ。箸を割る手つきもおぼつかないまま、つゆに蕎麦を浸して一口すする。
――甘い。そして、香ばしいコクが舌の上を包み込む。
とげとげしく尖っていた神経が、まろやかな油脂と出汁のうま味にほぐされていくようだった。美味しいものを食べている瞬間だけは、脳内の騒がしい独白がすっと鳴りを潜めてくれる。
食後、駅前のベンチに腰を下ろしてイヤホンを耳に押し込んだ。
スマートフォンを操作し、純三さんの小説で知ったジョン・レノンの『スターティング・オーバー』を再生する。初めて耳にする、その曲。
鈴のような澄んだ音に続いて、ふわりと軽快なリズムが流れ出してきた。
ゆったりとしていて、肩の力が抜けていて、それでいて「もう一度、ここから始めよう」と歌いかける声。
――再出発なんだから、フライングゲットしないでね。
不意に、自分の心の中で誰かがくすりと笑った気がした。
いつも先回りして焦り、他人の心の敷居を土足で跨いでは躓いて、勝手に傷ついて自爆する。そんな自分への、皮肉まじりの戒め。
恋も、人間関係も、人生の立て直しだってそうだ。焦って手に入れようとフライングした瞬間、全部が手からこぼれ落ちていくのだから。
時雨はいつの間にか上がり、雲の切れ間から柿の実が橙色に光る秋の空がのぞいていた。
風に吹かれ、芒の穂が銀色の波を打っている。
人と上手に関われない。言葉をうまく制御できない。
それでも、こうしてくるみ蕎麦を味わい、初めての曲に耳を澄まし、知らない街の風に吹かれることくらいはできる。
「……ま、いっか。ゆっくりやれば」
口に出すと、少しだけ息がしやすくなった。
志乃は立ち上がり、コートのポケットに両手を突っ込むと、まだ拙い足取りで、秋晴れの光が差す方へと歩き出した。




