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秋空の下で、手を握る

作者: べるねろ
掲載日:2026/02/28

 秋の風が窓ガラスを揺らす教室。午後の日差しは茜色に変わりはじめていた。

 僕――宮沢悠真は、看板をぼんやりと塗っていた。

 昨日から始まった文化祭準備期間。うちのクラスの出し物は演劇に決まったのだが、肝心の衣装デザインが難航し、僕ら衣装班は手持ち無沙汰な状態が続いている。

 仕方なく手伝いで筆を握ってはいるものの、高校三年生最後の学校行事は、僕にとっては「ただの通過点」でしかなかった。


「……ちょっと待ってて」


 隣の机から、凛とした声が飛んできた。振り向くと、学級委員長の浅井紗希がこちらを見ていた。肩まで届く神経質なまでに整えられた茶髪と、整いすぎた目鼻立ちが相まって少し近寄りがたい雰囲気をまとっている。


「このポスター、枚数足りないんだけど」


「……ごめん、今刷ってくるよ」

「次からは、ちゃんと確認してね」

 短いやりとりのあと、彼女は教室の喧騒の中へ戻っていった。


 僕は印刷機に向かいながらため息をついた。生徒たちのざわめきの中でひときわ明瞭に響く浅井さんの声。他の子と比べれば冷静すぎて冷たいと思われがちだけど、実は誰よりも責任感が強くて誰よりも早く動いていることを――最近になって気づき始めた。


 *   *   *


 その日の放課後、僕は美術室でひとり残っていた。完成しかけた看板を乾燥台に立てかけたとき、廊下からパタパタと軽快な足音が聞こえた。


「あら、宮沢くん?」


 予想外の声に僕は顔を上げる。そこには制服のスカートが翻った浅井さんが立っていた。驚いた様子もなく美術室に入り込み、壁際の木箱を指さす。


「ここにある工具借りていい?舞台袖に置く背景パネル、ちょっと固定が甘いみたいで」

「どうぞ。……一人でやるのは大変そうだし、僕も手伝うよ」

「いいよ。すぐ済むから」

 即答されてしまった。


 僕はペンキ缶を片付けるフリをして彼女の背中を見つめる。工具を探している仕草が妙に忙しなくて、それがなぜか心配になった。

 彼女はいつもそうだ。人に頼ることを極端に避ける。

 普段の僕なら、そこで引き下がっていただろう。けれど、今日ばかりは違った。


「……あのさ」

 僕は口を開いた。「もしよかったら、一緒にやらせてもらえないかな」

 浅井さんは一瞬動きを止め、振り返った。

「どうして?」


 その問いには答えづらい理由があった。正直に言えば彼女の姿がなんとなく不安に見えたからだけど――そんなことは言えない。だから代わりにこう言った。


「だってほら、一人だと危ないかもしれないじゃん。それに、万が一倒れて床が傷ついたら、先生に怒られるの僕たちだしさ」

 言い訳としてはお粗末すぎる。けれど彼女は少し笑った。


「……確かにそうかもね。じゃあお願い」


 日が落ちて、少し肌寒くなった教室。僕たちは立てかけられた背景パネルの前に並んだ。

 彼女が持ってきた工具セットから金槌と釘を受け取ると、浅井さんはパネルを支える。僕はその裏側へ潜り込み、支柱に釘をあてがった。

 金槌を振り下ろすたびに、パネル越しに彼女が必死に踏ん張っている気配が伝わってくる。パネルの端を握りしめる彼女の指先が見えた。衝撃に耐えるように、爪の先が白くなるほど力を込めている。

 静かな教室に、乾いた金属音が響く。会話はない。けれど不思議と気詰まりではなかった。


「これでよし」

 最後の釘を打ち終えると同時に言うと、浅井さんは小さく息をついた。


「ありがとう。……正直助かった」

 素直な礼に、僕は胸の奥がじわりと温まるのを感じた。普段クールな彼女がこんなふうに柔らかな表情をするなんて意外だった。


 *   *   *


 帰り支度をしていると窓の外が俄かに暗くなった。遠雷の音が響く。


「雨……」

 浅井さんが呟くと同時に窓ガラスにぽつりと水滴が落ちてきた。


「傘ある?」

「残念ながらない」

 僕は苦笑いを返す。


 彼女はリュックから折り畳み傘を取り出すと、躊躇わずこちらを向いた。


「途中まで一緒に入る?」

 突然の申し出に戸惑いつつも頷いた。校舎の出口へ向かう階段で、浅井さんが小さく溜息をついたのが耳に入る。


「ホント……困るよね」

 独り言のような呟き。それは雨のことなのか、文化祭準備のことなのか。それとも別の悩みなのかは、今の僕には分からない。けれど、尋ねるのは躊躇われた。


 昇降口の庇の下で彼女が広げたのは、華奢な女の子にしては大きなサイズの折り畳み傘だった。最初から誰かを想定していたのだろうか――そんな考えが、ふと頭を過ぎる。


「行きましょうか」

 彼女の促しに頷くと、僕は傘の半分を借りる形で、そっと肩を寄せた。


 雨粒がアスファルトを叩く音だけが、しばらくの間、二人を支配する。学校の敷地を出た辺りで、ようやく浅井さんが口を開いた。


「宮沢くんって本当に真面目だよね」

「えっ?」

「だって、自分の仕事以外にも率先して手を貸してくれるし」

 言われてみると確かにそうだ。でも自分では意識していない。むしろ面倒事を避けたくて早めに終わらせたいだけなのに。


「そういうところ……ありがたいよ」

 浅井さんがふっと微笑んだ横顔が街灯に照らされる。あまりにもきれいな笑顔に心臓が跳ねた。咄嗟に顔を逸らすと、アスファルトを叩く飛沫とともに、濃密な雨の匂いが鼻腔を突いた。


「浅井さんこそ」僕は慌てて声を絞り出した。「いつも一人で全部抱えてない? クラスのことも……」

「うん、まあ」

 肯定する声音には疲労が滲んでいた。けれどそれを悟られないようにすぐに取り繕う。


「でも慣れっこだから平気」


 嘘だ――と、僕は思った。明らかに無理をしている。けれど今の僕には何もできない。ただ彼女の負荷が少しでも減るように願うことくらいしかできなくて――それが悔しい。


 僕たちはそれぞれの家への分かれ道に辿り着いた。傘を離しながら浅井さんが言う。


「じゃあまた明日」

「うん」

 立ち去ろうとする背中に言葉を投げかけてみた。


「あの……無理しすぎないようにね。疲れたら愚痴でも何でも聞くから」


 振り向いた彼女は一瞬目を見開いたあと、ふわりと笑った。


「うん。ありがとう」


 その笑みが消えるまで見送ってから僕は踵を返した。

 雨はいつの間にか小降りになり、湿った空気に混じって、彼女の纏っていた微かな石鹸の香りが残っているような気がした。


 胸の中に生まれた、淡い名前のつけられない感情。


 僕はまだ、それに気づいていないふりをしていた。


 ◆◇◆


 翌週水曜日、衣装作りのピークを迎えた被服室は熱気に包まれていた。

 ようやくデザインが決まったかと思えば、今度は完成が間に合わないという焦りが教室中に募っている。

 浅井さんは監督として、常に手に持った台本へ何事かを書き込みながら、各所へ指示を飛ばしていた。

 一方で僕は衣装班として、縫い目が曲がらないよう針先だけを見つめ続けていた。


「宮沢くん、このパニエ縫ってもらえる?」

 背後から、弾むような声が響いた。

 振り返ると、そこには舞台の主役を務める佐倉美月が、煌びやかな布地を抱えて立っていた。


 背中まで伸ばした柔らかな金髪が、彼女が動くたびに光を反射してふわりと舞う。クラスの中でもひときわ目を引くその容姿は、まるで異国の物語から抜け出してきたかのようだ。

 彼女は大きな瞳をさらに見開いて、覗き込むように僕を見つめてきた。


「いいけど……こんな細かい装飾まで付けたら重くならない?」

 差し出されたビーズの重みに、僕は思わず眉をひそめる。


「それが良いんだよ! だって、少しでも重みがあったほうが、本物みたいで素敵じゃない?」

 夢見る少女のように無邪気に笑う彼女の表情には、不思議と人を納得させてしまうような輝きが宿っていた。


「佐倉さん」


 鋭い声が背後から突き刺さった。

 振り返ると浅井さんが腕組みをして立っている。


「それ、全体のバランス考えて作ったの?」

「え……?」

「舞台袖で踊るときに裾を踏むリスクが高いと思う。縫い上げ部分も甘いし……」

 容赦ない指摘に佐倉さんの眉間に皺が寄る。


「でも可愛くしたいし……」

「可愛いだけじゃダメでしょう」

 語気がきつい。佐倉さんは唇を噛み締め黙り込んだ。

 他の生徒たちも固唾を呑んで見守る。


「じゃあ浅井さんは完璧なの? わたしに文句言うだけで……」

 佐倉さんの反撃に浅井さんは表情を変えないまま言い放った。


「完璧かどうかなんて関係ない。本番で転んで、あなたが動けなくなったら誰が責任を取るの? 私はそのリスクを減らしたいだけよ」


 その瞬間――空気が凍りついた。

 佐倉さんの目に涙が光り始める。


「……もう知らない!」

 走り去っていく佐倉さんを追いかけようと立ち上がったところで浅井さんに呼び止められた。


「宮沢くん」

 彼女の視線は恐ろしく冷静だった。


「追いかけなくていいから。あなたは、自分のやるべきことに集中して」

「でも……」

「あなたの仕事は衣装作り、私情を持ち込まないで」


 ぴしゃりと言い捨てられ思わず言葉に詰まる。

 確かに筋は通っている。でもどうにも割り切れない。

 その後、佐倉さん不在の中、被服室にはぎくしゃくとした空気が流れ続けた。

 パニエの重さを減らすべく、不要な装飾を一つずつ解き、布地をより軽いものへと選び直していく。


 浅井さんは僕たちの作業を厳しい目で見守っていたが、その手元にある台本を握る指先は、時折、白くなるほど強張っていた。

 ミシンの音だけが、苛立った心拍のように部屋に響いていた。


 *   *   *


 夜八時。全員がくたくたになりながら解散すると僕は一人で部屋の鍵を閉めていた。


「……宮沢くん」

 背後からの声に驚いて振り向く。

 浅井さんが一筋の乱れもなかったはずの髪を少しだけ崩して、廊下の壁にもたれて立っていた。

 彼女は、誰もいない暗い廊下の先を一度だけ不安げに振り返り、誰もいないことを確かめてから、力なく壁にもたれかかる。

 窓から差し込む月光に照らされた彼女は、昼間の毅然とした姿が嘘のように、ひどく脆そうに見えた。


「……浅井さん。まだ、残ってたのか」

「君が残ってると思ったから」

 言って彼女は小さく息を吐いた。


「……宮沢くん。さっきは、あんな言い方してごめんなさい」

 不意の言葉に、僕は言葉を失う。彼女は視線を彷徨わせながら、絞り出すように続けた。


「あんな言い方をするつもりじゃなかったの。ただ、私も余裕がなくて……本当に、ごめんなさい」

 昼間の冷徹な姿からは想像もできないほど、その声は震えていた。


「……佐倉さんのことも、言い方が酷かった自覚はあるの。放っておくと舞台で怪我につながると思って、つい……」

 彼女の顔に、深い後悔の色が浮かぶ。

 わずかに俯き、自分の足元に視線を落とした。


「……それでも。もっと、他に言いようがあったはず。今の私は、彼女に謝るべきなの」

 珍しく弱々しい口調だった。

 言い終えると、彼女は意を決したように顔を上げ、僕を真っ直ぐに見つめた。


「明日、佐倉さんとはちゃんと話すから……君は何も言わないで」

 頼むように見つめられ胸が詰まる。


「わかった」

 僕は短く答えたものの内心モヤモヤが晴れない。

 その晩自宅に戻りパジャマに着替えてからも彼女たちの険悪な表情がちらついて寝付けなかった。


 ◆◇◆


 翌朝、灰色の雲が垂れ込める中体育館へ集まり仮設舞台で演技チェックが始まった。

 浅井さんは監督としてスタッフ表を手に走り回っている。

 僕は衣装直し用の裁縫道具を手に舞台袖で待機していた。

 いつ、綻びが出るか分からない、修正したばかりの慣れないドレスで、佐倉さんはぎこちなく踊り始める。

 案の定、彼女はどこか上の空で、明らかに集中力を欠いていた。

 演技後半、スポットライトが移動するタイミングで彼女が転んだ。


「いたっ!」

 床に打ちつけられた膝から血が滲む。

 周りが一斉に駆け寄る中で浅井さんも血相を変え飛び出してきた。


「大丈夫!?」

「だ、大丈夫だから……」

 佐倉さんは反射的に撥ね除けるように言い捨てたがその目には涙が浮かんでいる。

 浅井さんは傷口を拭おうとして自分のハンカチを差し出した。


「保健室に行こう」

「いい、自分で行くから……!」

 佐倉さんはハンカチを受け取らず腕を振り払ってしまった。

 そのまま俯いて足早に体育館の入り口へ向かってしまう。


 舞台裏に戻った浅井さんは沈痛な表情で立ち尽くした。

 その背中が小さく震えているように見える。

 僕はたまらず歩み寄り、彼女の視線を遮るようにして声をかけた。


「……一緒に行こう。保健室、僕も付き添うから」

 浅井さんは一瞬、迷うように視線を泳がせたあと、力なく頷いた。


「……ありがとう」

 囁くような、消え入るような感謝。その声に滲む苦しさに、僕の胸が締めつけられる。

 僕は彼女の半歩後ろをついていく。その震える背中を視界に入れながら、彼女の歩幅に合わせ、つまずかないように見守ることしか、今の僕にはできなかった。

 長い廊下を抜けて階段を下りる。静かな保健室までの道のりはとても長く感じた。

 前を歩いていた浅井さんが、ふいに足を止める。背を向けたまま、彼女の肩が小さく上下した。


「宮沢くんに……こんな姿、見せるつもりじゃなかったのに。情けない……」

 振り返ることのないその声は、今にも消えてしまいそうに細い。彼女は震える指先で自分の腕を強く掴み、溢れそうになる何かを、必死に堰き止めているのがわかる。


 胸がズキンと痛む。こういうとき、気の利いた言葉がどうしても思いつかない。


「情けなくなんか無いよ」

 必死に声を絞り出す。「浅井さんは、誰よりも頑張ってる。それは、僕が見てるから」

 それしか言えなかった。

 静寂のなか、浅井さんの背中が一度だけ大きく揺れた。やがて、ふっと憑き物が落ちたような安堵の息が漏れる。


 *   *   *


 保健室の扉を開くと、幸運にも養護教諭は不在だった。

 薬品特有のツンとした匂いが鼻を突く。

 ベッドの端に腰掛けていた佐倉さんが、肩をびくりと揺らしてこちらを見た。その目は赤く、自分で傷口を拭おうとしていたのか、手にはしわくちゃになったティッシュが握られている。


「……消毒液、棚にあるはずだよね。探してくる」

 僕はあえて背を向け、二人の間に流れる重い空気をやり過ごそうとした。

 浅井さんはパイプ椅子を佐倉さんの前まで引き寄せると、ゆっくりと腰掛け彼女を見つめる。


「……足首、捻挫はしてない?」

「……平気。かすり傷だけだから」

 佐倉さんの声はまだ硬い。けれど、浅井さんは逃げなかった。


「よかった。……それから、昨日のこと。言い方が酷すぎた。本当にごめんなさい」

 椅子から立ち上がり、迷いなく頭を下げた浅井さんの姿に、佐倉さんが息を呑むのがわかった。

 しばらくの沈黙。開いた窓から、カーテンが風に揺れる音だけが室内に響く。


「……私の方こそ、ごめん。浅井さんの言う通りだったのに、意地張っちゃって……」

 佐倉さんの声からトゲが抜け、湿り気を帯びたものに変わった。


 窓から入り込む風が、少しだけ温かく感じられた。

 消毒液のボトルを手に取った僕は、すぐには振り返らなかった。二人の間に通い始めた微かな体温を、壊さないように。


 背後で、浅井さんの震えていた背中が、今は少しだけ、本来の強さを取り戻しているような――そんな気がした。


 僕はそこでようやく、二人の方へと向き直る。

 二人のそばへ歩み寄り、消毒液のボトルと、封を切ったガーゼの袋を浅井さんに差し出した。


「……これ、使って」

「あ……ありがとう」

 浅井さんは僕の手からボトルを受け取ると、慣れた手つきでガーゼを浸し、佐倉さんの膝の傷口にそっと当てた。


「沁みるかも」

「……大丈夫」

 佐倉さんは歯を食いしばりながら小さく答えた。浅井さんは慎重に血を拭い、救急箱から新しいガーゼを取り出し丁寧に貼り付ける。


「捻挫してなくてよかった。でもしばらくは無理しないで」

「うん……ありがとう」

 直接、視線を交わすことはなかった。けれど、二人の間には、さっきまでの尖った沈黙とは違う、確かな和解の空気が漂っている。


 僕は、その様子を窓際から静かに見つめた。

 昨夜ずっと胸に引っかかっていた棘が、朝の光に溶けていくような感覚。

 外では、いつの間にか灰色の雲が切れ、淡い陽光が濡れた校庭を照らし始めていた。


 *   *   *


「……ごめんね、宮沢くん。付き合わせて」

 教室への帰り道、廊下を歩きながら浅井さんが言った。


「いや。僕も心配だったから」

「……助かったよ」

 彼女は肩の力を抜いて、ふっと笑った。少しはにかんだようなその表情に、僕は安堵と共に、胸の奥が微かに熱くなるのを感じてしまう。


「文化祭……まであと二日だよね。間に合うかな」

 佐倉さんが、まだ不安を拭いきれない様子で口を開く。


「間に合わせる」

 浅井さんは前を向いたまま即答した。「演出はまだ詰められる。今日中に構成を練り直そう」

「……うん」

「衣装も、安全性を優先しつつ佐倉さんのこだわりを活かせる形をもう一度探したい。……佐倉さん、また意見を聞かせてくれる?」

「……わかった。私も、協力したい」

 佐倉さんは今度は迷わずに頷いた。


 *   *   *


 午前十時のチャイムとほぼ同時に、僕たちは三人で教室に戻った。

 扉を開けた瞬間、衣装班の仲間たちが一斉にこちらを向く。

「大丈夫!?」「怪我したって聞いたよ!」

 佐倉さんの周囲にクラスメイトが駆け寄る中、浅井さんは喧騒を切り裂くように、凛とした足取りで教壇の前へと歩み出た。


「みんな、ちょっと聞いて」


 教室が静まる。浅井さんは一度だけ深く息を吸い込むと、手元の台本を指先で強く握りしめた。それは、昨日の被服室で見せた焦燥の強張りではなく、自分を律するための力強い握り込みだった。


「佐倉さんの怪我はかすり傷です。安静は必要だけど、舞台に立つことに支障はありません。……それから、私から皆に伝えたいことがあります」

 彼女は一度だけ視線を落とした後、覚悟を決めたように顔を上げた。


「昨日、私は監督として、佐倉さんに対してあまりに感情的すぎました。そのせいでクラスの空気を悪くしてしまったこと……本当に、ごめんなさい」


 凛とした彼女が深く頭を下げる姿に、教室中から驚きのざわめきが起こった。その時――。

「私の方こそ、ごめんなさい!」

 隣で佐倉さんも、弾かれたように声を張り上げた。「安全のことを考えてくれてたのに、私、自分のこだわりばっかり押し通そうとして……」


 二人の謝罪が重なり、一瞬の静寂が訪れる。やがて教室のあちこちから「気にすんなよ!」「本番で取り返そうぜ!」といった、温かな声が飛び交いはじめた。


 その光景を見て、浅井さんの瞳が僅かに潤んでいるように見えたのは、きっと僕の気のせいではないだろう。

 彼女が再び顔を上げたとき、その表情は窓から差し込む陽光に透け、昨日までのどんな時よりも透明で――。


 そして、美しかった。



 *   *   *


 午前中いっぱいを使って急遽、大道具の配置と照明計画を見直した。

 佐倉さんの重心が低いポジションが多いダンスパートについては靴の裏に滑り止めを貼り、衣装の裾も舞台袖で捌けやすい位置へと補正を加える。


「完璧じゃなくても良い。大切なのはお客様の記憶に残る『瞬間』を作る演出だと思って」

 台本を片手にそう告げた浅井さんの声には、昨日までとは違う、静かで柔らかな熱が宿っていた。


 昼休み。食堂の喧騒を避け、僕は人影のない屋上の踊り場へと避難した。

 鞄から弁当を取り出したところで、階段下から浅井さんが姿を現した。


「あ……ここにいたんだ」

 彼女も手に弁当袋を提げている。


「隣、座ってもいい?」

 頷くと、彼女は少しだけ遠慮がちに踊り場の端へ腰掛けた。


 お互い無言のまま、蓋を開けようとしたその時――。

「……ありがとう」

 ぽつりと零れた小さな礼に、僕は箸を止めた。


「どうしたの、急に」

「さっき保健室で……私が佐倉さんに頭を下げたとき、本当は怖かったの。でも宮沢くんが隣にいてくれたから、勇気が出た。だから」

 浅井さんは目を伏せたまま続ける。「君のおかげで、言えた気がする」

「僕は何も。全部、浅井さんが自分で決めて動いただけだよ」

「違うの。きっと……私が一番怖がっていたのは、自分が責められることじゃなくて、クラスがバラバラになることだったんだと思う」

 彼女はようやく顔を上げ、僕の目をまっすぐに見つめた。「だから、君がそばにいてくれて心強かった。……本当に」


 その瞳の奥に浮かぶ、言葉にできない感謝の色。

 僕は頬にじわりと熱が広がるのを自覚しながら、慌てて視線を逸らした。


「そっか。……よかった」

 それだけしか言えない自分が、なんだか情けなかった。


 弁当箱を挟んで気まずい沈黙が流れる。

 それを遮るように、遠くで予鈴の鐘が鳴り響いた。


「……そろそろ、戻らないと」

「うん」

 浅井さんは立ち上がりながら、ふと空を見上げた。

 雲一つない青空が、眩しいほどに澄み渡っている。その蒼さを映した彼女の瞳もまた、一点の曇りもなく、ただ凪いでいた。



 ◆◇◆


 十月二十日、土曜日。午後十二時二十八分――文化祭本番。


 舞台袖の蒸し暑い空間には、開演を待つキャストたちの昂揚と、張り詰めた緊張が飽和していた。


『宮沢くんにしか、頼めないから』


 2日前、浅井さんにそう頼まれて引き受けたのは、劇中盤の衣装早替えのサポートと、トラブル時のバックアップだった。僕は舞台袖で予備の裁縫道具と安全ピンを握りしめ、額を伝う汗を拭った。幕の向こう側からは、すでに満員に近い客席の地鳴りのようなざわめきが聞こえてくる。

 舞台中央では、主役の佐倉さんがマイクに向かって原稿を読み上げ、音響との最終調整を行っていた。


「――マイクOK。準備、いつでもいけます!」


 佐倉さんがマイクを下ろし、舞台袖へと戻ってくる。

 膝の傷を覆うように、けれど踊りを邪魔しないよう丁寧に調整された衣装。それを纏った彼女の表情には、不安を塗りつぶすほどの自信が漲っていた。


 調整の音がフェイドアウトし、浅井さんの合図でキャストと裏方全員が舞台袖の一角に集まった。

 舞台全体がひりつくような静寂に包まれる。浅井さんは一度深く呼吸を整え、僕たち一人ひとりの顔を射抜くように見回した。


「最終確認。客席の照明が完全に落ちたら開幕まで絶対に音を立てない。サブステージへ移動する坂道は足元を意識して。佐倉さん、いける?」

「――いつでも」

 短く力強い返信を確認し、浅井さんは僕たちの顔をもう一度見渡した。


「最後に。……今まで辛かったこと、後悔したこと。全部、この舞台の上で吹き飛ばしましょう。これが、私たちの最後だから」

 一呼吸置いてから、彼女はいつもの凛とした、けれどどこか優しい声で告げた。


「――以上。位置について」

 浅井さんの号令に、誰一人として声は上げなかった。

 舞台上、そして舞台袖。暗がりに潜む全員が、ただ力強く頷き、それぞれの持ち場へと散っていく。言葉にせずとも、重く熱い決意がその場に満ちていた。

 浅井さんは目を閉じて大きく息を吐き出し、振り返って僕を見つめる。


「宮沢くん……何かあったら、すぐに動いて。衣装も、それ以外も。君の判断を信じてるから」

「ああ。万全の状態で佐倉さんを送り出すよ」

 僕が力強く頷くと、彼女は一瞬だけ、張り詰めた糸が緩んだように微笑んだ。


「……信じてる」


 その言葉を僕の胸に残し、彼女は暗転直前の持ち場へと消えていった。


 *   *   *


 開演三分前。

 僕は舞台袖の暗がりに身を潜め、浅井さんの声を待機した。

 やがてスピーカーから、場内の期待を煽るような彼女の凛としたアナウンスが流れてくる。


「――これより上演いたしますのは……」


 その静かな語りが、幕の向こう側にいる観客たちのざわめきを鮮やかに塗りつぶしていく。

 デジタル時計が“十二時五十九分”を示した瞬間、合図の信号灯が赤から緑に変わる。

 僕は掌に滲む汗を拭いながら、暗転した舞台中央へと視線を注いだ。


 インカムを通じて「三、二……」とカウントダウンが届く。


 ――ゼロ。


 暗転した世界を切り裂き、スポットライトの白い光線が一直線に舞台中央を貫く。

 続けて、薄紅色のサイドライトがステージを幻想的に彩り始める。

 ステージに舞い降りた佐倉さんが、光を全身に浴びて輝き出す。――まるで夜明けの光が徐々に世界を染め上げていくような幻想的なオープニング。

 客席から「ほうっ」と吐息が漏れ、それがさざ波のように広がっていくのが分かった。


 そこからは、一瞬の油断も許されない緊張の連続だった。

 僕は舞台袖で予備の道具を握りしめ、佐倉さんのステップに合わせて衣装が綻んでいないか、装飾が外れていないかを鋭い目で見守り続けた。

 浅井さんがこだわった色彩設計の中に、僕が縫い上げた布たちが鮮やかに溶け込んでいく。

 スポットライトが描き出す光の輪郭に合わせ、キャストたちの息遣いさえもが正確に同期していく。


 ――その「完璧」が、一瞬で崩れ去った。


 佐倉さんが次のポジションへ移動した、その瞬間。

 一つのスポットライトが、あらぬ方向へ向いた。

 機材の異常だ。

 舞台上で、佐倉さんの華麗なターンが、不自然に止まった。


 劇の静謐な雰囲気が、一気に引き裂かれた。

 本来なら美しい輪舞の中で交錯するはずの光が、一本だけ不安定に震えている。

 手元の数ミリのズレは、数メートル先の舞台上では致命的な狂いとなる。光は佐倉さんの足元を無様に滑り、不気味な残像を描きながら舞台の端へと逸れていった。

 観客席から不安げなざわめきが波紋のように広がった。

 インカムから、悲鳴に近い焦燥を帯びた声が飛び込んでくる。


「こちら浅井! スポット二番の動きがおかしい! 担当、何やってるの!?」

「だ、ダメです! 土台のねじが緩んで、制御が効きません!」

 操作を担当している女子生徒の絶望的な報告が響く。このままでは、舞台は台無しだ。


「浅井さん、僕が行く!」

 僕は衣装用の道具箱とは別に用意されていた、機材調整用の工具セットをひっ掴んだ。


「……っ、待って、私も行くわ! 」

 観客に悟られないよう、僕は暗がりに身を潜めながら、猛スピードで二階の奥――問題のスポットライトが鎮座する高台へと駆け出した。

 視界の隅では佐倉さんが懸命に即興の振付に変え、なんとか時間を稼いでくれている。


 *   *   *


 二階のバルコニーへたどり着くと、問題のスポットライトは首が傾き、揺れていた。

 操作を担当していた女子生徒は半泣きになっている。

「早く直さないと……! あと二分で次のシーンが始まる!」


 僕は焦燥に駆られ、慌てて工具箱を開け、中を確認するが無機質な金属の塊が並んでいるのを見て、指先が凍りついた。どれが何のための道具なのか、今の僕には判別がつかない。


「落ち着いて」

 背後から、浅井さんの凛とした冷静な声が響いた。

 彼女は迷いのない手つきで、箱の中から頭部が分厚く、顎が突き出たような奇妙な形の工具を掴み取った。


「必要なのはこれ、モンキーレンチ。……私がボルトを締めるから、宮沢くんは本体を支えて」

「あ、ああ……分かった」

 咄嗟に機材へ手を伸ばそうとして、僕はその異様な「熱」に息を呑んだ。稼働し続けていたスポットライトの筐体は、素手で触れれば火傷を免れないほどの熱気を放っている。


「……素手じゃ無理ね。何か、厚手のものを」

 浅井さんがレンチを握ったまま、周囲を見回す。

 だが適切なものが見当たらない。


「あ、あの! これ、私の……っ、使ってください!」

 担当の女の子が泣きそうな顔で自分の手に嵌めていた軍手を差し出す。

 しかし――。


「これは……入らない」

 小さすぎる。女子用のサイズでは、僕が無理に嵌めようとすれば指の節々が詰まってまともに動かせない。


「貸して。私がやるわ」

 浅井さんは僕の手から軍手を奪い取ると、迷わず自分の両手に嵌めた。


「宮沢くん。私があのライトの本体を押さえるから。君はこのレンチでボルトを締めて」

 その視線に一切の迷いはない。彼女はリスクを承知で最も危険な作業を自ら請け負おうとしている。


「でも……」

「大丈夫」彼女は毅然として答える。「私の指示通り動かして。……できるよね?」


 ――選択肢など、もう残されていなかった。

 僕は短く「……分かった」と答え、彼女の傍らに踏み込んだ。

 浅井さんは熱せられたスポットライトのハンドルを軍手越しに力一杯掴み、正しい角度へと強引に引き戻して固定する。


 ふと、視界の端で浅井さんの横顔が重なる。

 文化祭の準備期間、教室で倒れかけた背景パネルを必死に支えていた彼女。あの時僕は、彼女が支えるその裏側で、必死に金槌を振るっていた。

 状況も、場所も、手に持っている道具も違う。けれど、僕たちの関係はあの時から何か変わったのだろうか。


 ……いや、変わっていてほしいと、僕は心のどこかで願っていた。


 あの時はまだ、彼女の背中は遠く、手を貸すことさえどこか遠慮があった。けれど今は、こうして彼女の吐息が聞こえるほど近くで、同じ熱を共有している。この距離が、僕たちが積み重ねてきた時間の答えだと信じたかった。


「……宮沢くん、レンチのダイヤルを回して。顎の幅を調節したら、ボルトに隙間なく噛み合わせて!」


 浅井さんの鋭い指示が飛ぶ。

 僕は言われた通り、指先でダイヤルを操作した。金属が擦れ合う感触が、掌から心臓にまで響く。


「噛み合った!」

「そのまま、右に……時計回りに思い切り回して! 佐倉さんのソロまで、あと一分!」

 彼女の腕の間から手を伸ばし、僕は夢中でレンチを回し始めた。

 至近距離。

 彼女の荒い息遣いと、機材から放たれる熱気が混ざり合い、バルコニーの狭い空間はサウナのような熱気に包まれている。

 力を込めるたびに、僕の腕と彼女の肩が擦れる。

 浅井さんは熱さに顔を歪めながらも、決してライトを離さない。彼女の全身が、機材の振動を抑え込むために小刻みに震えているのが分かった。


「……っ、あと、少し……!」

 僕は歯を食いしばり、渾身の力で最後の一回を回し切った。


 手応えが変わる。

 あれほど不安定だった機材が、吸い付くように台座へと固定された。


「……止まった」

 浅井さんが短く息を吐き出すと同時に、階下のステージから劇的なピアノの旋律が響き始めた。

 佐倉さんの、見せ場が始まる。


 二階から見下ろす舞台中央。再び完璧な位置で放たれた光の輪の中に、佐倉さんがふわりと舞い降りた。

 ――間に合った。


 安堵が全身の力を奪いそうになる。けれど、僕たちに立ち止まっている暇はなかった。


「宮沢くん、戻るわよ!」

「……っ、ああ!」


 浅井さんの声に弾かれたように、僕たちは狭い足場を駆け下りた。

 立ち尽くしていた女の子の元へ戻り、浅井さんが急いで軍手を外す。


「……はい、これ。助かったわ、ありがとう」

 彼女が女の子に軍手を返そうと手を伸ばした、その瞬間。

 僕は息を呑んだ。


 街灯のような照明に照らされた浅井さんの白い手のひらが、痛々しいほど赤く腫れていた。

 熱せられた機材を、彼女はあの短い時間、軍手越しであっても必死に力一杯抑え込んでいたのだ。


「浅井さん、その手……」


 駆け寄ろうとした僕を、彼女は鋭い、けれどどこか充足感に満ちた視線で制した。


「今は、自分の持ち場に集中して。……最後まで、完璧にやり遂げるのよ」


 彼女は赤くなった手を隠すように台本を強く握りしめ、前を見据えた。

 その横顔は、僕が出会った誰よりも誇り高く、輝いて見えた。


 僕は込み上げる感情を飲み込み、急いで自分の持ち場――舞台袖へと戻った。


 そこからは一瞬の油断も許されない、怒涛のような時間だった。

 激しく踊る佐倉さんの衣装が乱れるたびに、暗転の数秒間で駆け寄り、指先に全神経を集中させて形を整える。

 舞台の熱、キャストの涙、そして照明が照らし出す僕たちの結晶。

 僕たちが縫い上げた布たちが、光の濁流の中で、誰よりも雄弁に物語を語っていた。

 幕が降り、客席から割れんばかりの拍手が沸き起こったとき、僕は自分がひどく震えていることに気づいた。


 *   *   *


 文化祭の喧騒が嘘のように、放課後の校舎は静まり返っていた。


 後片付けもほとんど終わり、僕は一人、被服室の窓から茜色に染まる校庭を眺めていた。

 結局、あの後浅井さんとゆっくり話す時間はなかった。彼女は監督として最後まで走り回り、気づけば打ち上げの輪の中にもその姿は見当たらなかった。


「……まだ、いたんだ」


 聞き慣れた声に振り返ると、そこには廊下の明かりを背負った浅井さんが立っていた。


「手、大丈夫?」

「ええ。少し赤くなった程度よ。冷やしたらだいぶ引いたわ」


 彼女は見せるのをためらうように、少しだけ指先を動かした。まだ熱を帯びているのか、彼女の肌は夕焼けの色を吸い込んだように淡く染まっている。

 彼女は僕の隣まで歩み寄ってくると、並んで窓の外を見つめた。


「宮沢くん……あの時、あんな無茶なお願いしてごめんなさい。でも、君がいてくれて本当に良かった」

「……僕の方こそ。浅井さんと一緒にいられて良かったと思ってる」


 彼女は窓の外を見つめたまま、しばらく沈黙した。

 やがて、彼女は意を決したように、僕の方へと体の向きを変えた。

 そして、少し赤みの残る右手を、ためらいがちに、けれど真っ直ぐに僕の前へと差し出した。


「来年の春には、みんなバラバラになっちゃうけど」

 浅井さんが、僕の目をまっすぐに見つめた。


「……また、一緒に何か作れるかな」


 その問いに、僕は迷わずに頷いた。


 胸の中にあった名前のない感情が、ようやく確かな形を持って、秋の空へと溶け出していく。

 僕は彼女の手を優しく握り返し、ゆっくりと、新しい季節の予感に身を委ねた。

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