第九章 残された者たち
直樹が死んでから、私は時間の流れを正しく感じられなくなった。
朝起きても、夜が来ても、すべてが灰色に滲んでいる。
彼は科学を信じて、最後まで冷静だった。その冷静さのまま、呑まれた。
私には、それを「ただの事故」で済ませることはできない。
だから行く。
彼が残したノートを手にして、彼が見逃したものを確かめに。
——彼の死を無意味にしないために。
真理子もそうだ。
彼女は笑っていたけれど、その奥で震えていた。
「配信者たちの死を、ネタで終わらせたくない」
その一言が、私を支えてくれた。
私たちは残された者。
失われた声を記録し、
意味を与えるために、
あの家へ向かう。
「……本当に行くの?」
カフェの片隅で美和が声を震わせる。外では夏祭りの喧騒がシャッター越しに揺れているのに、彼女の目だけは異質に静かで、まるで祭りの音を遮断するフィルターがかかっているようだった。
私の胸の中では、違う音が鳴っていた。直樹の最後の声、実験ノートに残された数式、夜中に彼が繰り返したあの――確信めいた呟き。悲しみというよりは、怒りが先に立つ。怒りは細い火花のように体内で点滅し、やがて大きな炎になって私を燃やしていく。あの人は、理屈で世界を切り刻む人だった。どんなに冷静にデータを積んでも、そこで終わるはずの人間が、あっさり、説明も痕跡も残さず消えた。この不条理に私は耐えられない。
「直樹が死んだのよ。何も分からないまま。私は——知りたい」
言葉が出たとき、自分の声がいつもより硬かったのに気づく。声の中に、眠れない夜に抱きしめたまま忘れられない匂いが混じっている。彼が最後に触れたノートの角、インクの匂い。彼は不完全な答えを残して、あの家に消えた。答えを放置することは彼への裏切りになる。そう思うと、胸が締め付けられると同時に、冷たい決意が骨の奥に生まれる。
真理子が低く、それでいて掠れた声で続ける。
「配信者の二人も、ただの笑い者にされる。動画のコメント欄は酷いよ。……あれを残したままじゃ、彼らが浮かばれない」
画面の中で消費された笑いが、今は私の胸をえぐる。彼らは笑いの道具だと言う人間がいる。蓮も翔太も、嘲笑の中で死んだのか――それだけは無いと、私は思う。彼らの最後の瞬間が、ただのネタに消えることを許すわけにはいかない。
美和が売り言葉のように言う。「やめてよ……もう十分でしょ。これ以上、誰かが行く必要なんて」
目の前で彼女は、私たちを守ろうとしている。わかる、わかるけれど、それでも抑えきれない。私の手がテーブルの縁に食い込む。指先の爪が肉に当たり、痛みが現実を取り戻させる。痛みは正直だ。痛みがある限り、私は動ける。
「私たちにとって、それは“必要”なのだ」──私は言い切った。言葉は冷徹だった。涙が口の端に滲むが、拭わない。涙も怒りの一部だ。直樹の冷徹さが好きだった。だがその冷徹さが、今、私の中で復讐の道具になる。彼が見落とした事象を、私が確かめる。彼のノートの余白に書かれた可能性を、私は拾い上げる。そこに答えがあるなら、私は夜でも行く。たとえ命を落とすとしても、死んだ理由を明らかにすることと、彼をただの事件の統計にしてしまうこと――どちらが残酷か、私には分かる。
真理子が私の手をつかむ。暖かかった。彼女の掌は震えている。言葉は少ないが、その目が何を語っているかは十分だった。怒りと悲しみと、そして―恐怖を押し殺した強さ。二人の小さな決意が私の内側で合わさり、逃げる選択肢を潰す。
外の街灯が一度だけ不吉に瞬いた。窓に映った私たちの影が、三つに、四つに、揺らいで重なった気がした。背後に誰かが立っているような気配に、私は息を詰める。だが振り向かない。振り向けば、すべてが止まる。止めるのは簡単だ。止められるのは美和だけだ。だが私は止めない。
夜道を歩きながら、私は何度も直樹の名前を呟いた。声は風に消え、返って来ない。だがその空白こそ、私にとっての証拠だ。空白を埋めるために私は行く。悲しみと怒りで満たされたこの身体を道具にして、私は真実を掘り起こす。たとえ見つけたものが許されざるものであっても。たとえそれが、私たちを飲み込むものだとしても。
——夜。
家の前に立った瞬間、世界が切り替わった。
蝉の声が一斉に途絶え、風の流れさえ止まった。空気は張りつめ、呼吸をするたびに肺の奥へ湿った冷気がしみ込む。懐中電灯の光が壁をなぞると、木造の外壁はまだらに黒ずみ、まるで皮膚の下を蠢く血管が浮き上がったかのように見えた。私は息を呑み、足がすくむ。だが背後から真理子が私の手を握る。
「二人なら……大丈夫」
その掌の温もりに、ほんの一瞬だけ心が解ける。けれど同時に理解していた。彼女も私も、怒りと悲しみのためにここに立っているのだ。私は直樹を、彼女は配信者たちを、奪われた。愛する人を無残に失った者の怒りは、冷たい剣のように鋭く胸を貫いている。悲しみは底なしの海のように私を沈め続け、息が苦しい。それでも前に進む。怒りと悲しみが混じったこの感情こそが、私を歩かせている。
玄関を押し開けたとき、重い湿気が身体に絡みついた。古い木材と血の腐臭が入り混じり、ただ吸うだけで喉が焼けたように痛い。真理子の指先が震えている。私も同じだ。けれど私たちは手を離さなかった。
仏間に踏み入れた瞬間、時間が止まったように思えた。
畳の上には、これまでの犠牲者の残骸が散らばっていた。
野村の科学機材のケーブル、僧侶が持ち込んだ焦げた数珠、ジャーナリストの破れた新聞記事、建築士の残した焦げ跡のスケッチ用紙。まるで見せしめのように、失われた者たちの痕跡が散乱していた。
そしてその中央に、赤黒い掌の跡が何重にも重なり、今も脈打つように震えていた。
「直樹……」
私は膝をつき、指先でその跡に触れる。熱が走る。次の瞬間、それは赤く脈動し、私の血と呼応するように光を帯びた。
「由佳!離れて!」
真理子の叫びが響く。振り返った私は、絶句した。彼女の顔が血に覆われ、口は裂け、眼は赤く爛れていた。私は思わず後ずさる。だがその瞬間、真理子もまた、私を“女の亡霊”として見ていたに違いない。
「近寄らないで!」
互いに叫び合う。互いの瞳に、愛する人を奪われた者の怒りと悲しみが映っているはずなのに、そこには怨霊の影しか見えない。言葉は届かず、耳に響くのは「返せ、返せ」という声。しかもその声は、私たち自身の口から漏れているのだ。怒りと悲しみが反転し、呪いの言葉に変わっていた。
床が裂けた。
赤い手が這い出し、私と真理子の腕を掴む。冷たいはずなのに、焼けるような熱が皮膚に食い込む。肉が裂ける音が耳元で響き、私たちは必死に抗った。互いの手を取り合った瞬間、それは救いではなく呪縛だった。手と手が絡んだ場所から赤黒い脈が走り、私たちを一本の鎖のように繋ぎ合わせる。
「違う……私は……!」
声にならない声を吐くが、喉から出るのは怨嗟の呻きだけ。真理子も同じだ。互いの目に涙が滲む。だが涙さえ赤く染まり、滴るたびに床に掌の跡を増やしていく。
掌の群れは私たちの足から腰、胸、喉へと這い上がる。骨が軋み、肉が剥がれ、愛する者を奪われた悲しみと怒りが、肉体そのものを侵食していく。
真理子の頬が裂け、私は叫んだ。彼女も同時に私の口元を見て、絶望した顔をした。きっと、私も同じ顔になっていた。
最後に見たのは、真理子の涙で濡れた瞳。
その瞳は、私の中の悲しみを映していた。怒りも憎しみも呑み込み、それでも友として私を見ていた。
次の瞬間、赤黒い闇が私たちを一気に呑み込んだ。
腕も、胸も、喉も、声も、すべてが溶けていく。
私たちは叫んだ。だがその叫びは木の軋みになり、家そのものの呻き声に変わった。
——私と真理子は、怒りと悲しみに満ちた最後の瞬間を抱いたまま、家の闇の一部に組み込まれた。
互いの存在を握りしめたその手は、もう永遠にほどけることはなかった。
由佳と真理子は戻らなかった。
それは覚悟していたことなのに、胸の奥が焼けるように痛んだ。
机の上には、彼女たちが残したコーヒーカップの跡がまだ残っている。
由佳は「直樹を知りたい」と言った。
真理子は「彼らを浮かばせたい」と言った。
その二つの想いは、私には止められなかった。止めるべきだったのに。
彼女たちは怒りと悲しみの渦の中で、どうしても答えを求めてしまった。
そして“あの家”は、それを知っていた。
悲しみも怒りも、すべてを呪いに変えて取り込んでいく。
これで犠牲は十二。
あの玄関の奥で、何人の声が重なっているのだろう。
きっと今は、由佳と真理子の声も混じっている。
耳を澄ませば聞こえる気がする。
「返せ」でも「助けて」でもなく、ただ——私の名前を呼ぶ声が。
私は震える指で日記に記した。
——次に行くのは、私だ。




