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第八章 心の闇に沈む部屋

 心理学者にとってカルテは、“記録”であると同時に、“鏡”でもある。

 患者が語った言葉、診察時の所作、沈黙、泣き声……それらを記した文字列は、臨床家に過去の心を再現させる。

 だが時に、鏡は向こう側からこちらを覗き返す。


 古い病院倉庫で埃をかぶったカルテを整理していたとき、ひときわ厚いファイルに出会った。

 患者名「工藤暃彁子(くどう・ひかこ?)」とある。

 昭和四十年代に記された精神科記録。

 見た瞬間、胸の奥にざわめきが走った。

 それが、“例の家”と結びつくとは、そのときまだ知らなかった。

 初診の記録は、ごくありふれていた。

 診察票には〈抑うつ傾向・入眠困難・中途覚醒〉。初回面接のMSE(精神状態診断)は、外見および身だしなみ良好、発話は小声だが連続性あり、感情は抑うつ気分に整合、思考は遅滞軽度、現実検討力は概ね保たれる、知覚異常は否定的——とある。併記された尺度は、BDI-II:24(中等度)、STAI-S:58(高不安)、PSQI:11(不眠)。この段階での仮診断は「適応障害/抑うつ不安混合」。薬理はSSRI少量と短期の睡眠導入、心理療法は行動活性化+簡易CBTが妥当——そう、教科書通りに見えた。


 だがページを繰るほど、記録の文体が暗転していく。医師の端正な記載の行間に、患者自身の筆圧の強い文字が混入し始めるのだ。

〈夫に裏切られた〉

〈あの女を殺してやりたい〉

〈子どもが私を見下して笑う〉


 嫉妬、憎悪、劣等感。妄想性嫉妬(オセロ症)を想起させる語彙の濁りに、私は鑑別を組み替える。気分一致性の被害念慮か、それとも一次妄想体験の立ち上がりか。境界例(BPD)様の見捨てられ不安もちらつく。だが臨床家として冷静でいようと、私はメタ認知を噛み直す。——これは被害妄想であり、認知の歪みだ、と。


 それでもカルテは、ただの“語り”で留まらない。第六回診以降、医師の記述の余白に患者の文字が浸潤し、ついには署名欄にまで侵入している。記載の境界が曖昧になる現象は、紙の上の小さな事故に見えるかもしれない。だが臨床的には、自我境界の脆弱化と投影性同一視を示す赤信号だ。語りが他者へ越境するとき、治療者は巻き込まれる。


 読み進めるほど、感情は単なる言葉の域を超え、情動の濁流として私の中へ流入してきた。

〈裏切られた〉

〈笑われた〉

〈奪われた〉

〈返せ、返せ、返せ〉


 胸郭の内圧がわずかに上がる。私は身体所見を手早くスキャンする——心拍は普段より速い、呼吸数も上がっている、皮膚電気活動(EDA)は高振幅。HRVは低下傾向、迷走神経トーンが落ちている。これは逆転移(治療者側の情動反応)や二次受傷性トラウマの初期徴候に近い。だが違う。波が早すぎる。記録の文字が、私の生理を同調させている。


 気づけば、私は自分の診療ノートに自動筆記のような荒い字で書き殴っていた。

〈嫉妬〉

〈怨恨〉

〈憎悪〉

 手指に8–12Hzの微細振戦。ペン先は私が止めたあとも数ミリだけ勝手に動き、インクが赤黒く膨張していく。私は呼吸法で自律神経を引き戻そうとするが、情動調律が噛み合わない。言葉が、私のなかで粘性を帯びた物質へ変貌している。


 そこで越えたくない記載に出会う。

〈診察中、机下より赤色液滴下を患者・医師双方が視認〉

〈夜間、病棟廊下に濡れた足跡出現。翌朝消失〉

 この**“双方が視認”というメタ記述は異例だ。通常、幻視・幻聴は患者の主観として括られる。ここでは観測者まで巻き込まれている**。私の鑑別リストから“純粋な精神病性”が外れ、代わりに不吉な語が浮上する——感染性の語り、情動の伝播、オステンション。言葉が現実を生成している。


 資料室の空気が3℃ほど下がる感覚。体温が外側からではなく内側から奪われる。棚の上段からばさりとカルテが落ち、掌形の赤い斑が紙面に浮く。転移ではない。出現だ。

足音。——いいや、湿った足裏が塩ビ床に吸い付く音。

そして、目の前に女が“立っている”。白いワンピース、濡れた黒髪、裂けた口角。顔貌はカルテの語彙で出来ている。嫉妬の凝視、咬筋の緊張、唇の“返せ”の形。私は自己に問う。これは錯視か、複合幻覚か、あるいは**存在幻(Presence)**か。現実検討が短時間揺らぎ、内的対象が外在化している。


「見たでしょう」

 発声のホルマントが紙の上から聞こえる。声帯ではなく、文字が喋っている。

 同時に前胸部に圧痛。V1–V3相当の冷たい疼痛が内から走る。パニック発作の胸苦しさとも違う。誰かの手が心臓に直接触れている感覚。私はグラウンディングを試み、五感の確認——見える:赤、聞こえる:擦過音、触れる:冷たい紙、嗅ぐ:鉄、味:血の味。ここに私はいる。はずなのに。


 カルテの文字が視界いっぱいに拡大し、語が形を捨て、色になる。真紅が波打ち、語尾が滴へ崩れる。

 私は声を上げようと喉を開く。

 が、そこから漏れたのは私以外の女の声だった。

「……返せ」

 音節が私の喉を通り、他者の意味で世界に出ていく。言語生成の主権が剥奪され、私は媒介に落ちる。


 臨床家の最後の線として、私はフレーミングを立て直そうとした。

——ここは資料室、私は治療者、これは記録、あなたは工藤さん、私は境界を引く。

 だが“境界”という語自体が、紙面でにじみ、滲み、染みへと変質する。言葉が物質になる瞬間を、私は学術的興味と根源的恐怖の両方で見つめてしまった。


 視野はトンネル化し、辺縁系が警報を鳴らす。

 鼓動は音から圧へ、圧は痛みへ、痛みは命令へ。

 〈返せ〉が上位命令となり、私の運動系を乗っ取る。

 指はカルテの余白に私の名を書き始め、止めようとした前腕屈筋群は他人の手のように拒む。自己他者境界は崩壊し、私と彼女は同じ器に注がれる液体になる。


——臨床メモ:この瞬間、私は患者の断片に触れた。恨み・嫉妬・劣等・屈辱。どれも人間的で、どれも底がない。器から溢れたそれらは、怨霊と呼ぶ他ない力で動いている。理解は到達ではなく、接触だった。接触は侵入であり、侵入は死だった。


 視界の周辺に黒い縁取りが生まれ、中心の赤が呼吸に合わせて脈打つ。

 私は最後に自分の技を呼ぶ——名前を呼ぶ。

「早……瀬……」

 自分の名は滑落し、彼女の文に編み込まれる。


 闇が、私の臨床を、私の声を、そして私の心臓をまとめて閉じた。


——記録者としての私の仕事はここで途切れ、記録の一部として続く。


 早瀬知里が亡くなったと、病院から連絡があった。

 死因は心不全。だが、机の上に残されたカルテの最後のページには、赤く滲む文字があった。

〈嫉妬〉〈怨恨〉〈憎悪〉

——そしてその下に「早瀬知里」と追記されていた。


 由佳は呆然と呟いた。

「……触れてはならないモノに触れたから」

 真理子はうつむき、手を組んだ。


 私はカルテを閉じながら思う。

 人の心の闇は、記録されるだけで済むものではない。

 時に、紙の向こうからこちらへと滲み出す。

 そして触れた者を、確実に呑み込んでいく。


——犠牲者の数は、また一人、増えた。


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