第七章 器と屍
建物を読む人間
図面、梁、礎石、痕跡——それらは口をきかぬが、歴史を語る。
この家についても、古い登記簿や測量図を洗った。
築年は昭和二十年代、戦後すぐの工法だ。
だが奇妙なことに、増改築の記録がまったく残っていない。
外観と図面が一致せず、いわば「存在しない建築」となっている。
本来、家は器だ。人を守り、人を入れ、時に人を葬る。
だがこの家は逆だ。
人を外に返さず、内部に吸い込む。
——器が器であることをやめ、棺に変わっている。
だからこそ、私は調べに来た。
真実を知るために。
そして隣には、法医学者の村尾がいる。
彼は死体を解剖し、私は建物を解剖する。
対象が違うだけで、やっていることは同じだ。
玄関を跨ぎ、私は梁を仰いだ。
まず矩計を切る。軒高、梁成、柱芯のピッチ。天井裏の補強にZマーク金物とホールダウンが見える——普及は平成以降、築は登記上昭和二十年代(旧耐震)。羽子板ボルトの座金は溶融亜鉛メッキの新規格、金物と母屋の木口の擦り傷が最近の増し締めを示す。年代の食い違いは、改修届の不在と矛盾する。器は後から噛み直された。
「……川嶋、これ」
村尾が畳にしゃがみ、黒赤い染みを指差した。鉄臭が強い。
「血痕ならオキシ→メト→ヘマチンの順で褐変する。こいつは赤を保ってる」
私は畳縁をめくり、根太・大引きを露出。針葉樹の仮道管が赤く充填され、光を受けて微かに半透明に見える。
「導管じゃない、仮道管だ。木の導水路に血が入ると、乾いても凝固色素が管壁に固着して抜けない。材が呼吸している限り、色は戻る」
村尾は無言でTMBを綿棒で点け、ABFOスケールを添えて撮影。
「反応、一撃で青緑。酸化触媒……血だ。しかも再潤湿で可逆に近い。生きてる血の振る舞いに似てる」
仏間へ進む。差鴨居、床框、長押の意匠は戦後復興期の簡素化様式——のはずが、柱の木目が妙に撓む。通常は柾目に沿う仮道管が、渦巻のように偏流している。
私はノギスで年輪間隔と木目の膨らみを測る。
「……このピッチ、成人の肋間に近い。20〜30mmの繰り返し」
村尾が苦い顔をする。
「床下で低速燃焼があった。脂肪が滴り、還元炎で煤が上がるパターン。曲がったのは熱より、脂の浸潤と長期のクリープだ」
彼は鼻先で空気を嗅ぎ、分光計で540nm/575nmの吸収を取る。
「ヘモグロビンの二峰が生きてる。材の中で血が呼吸してるみたいだ」
私たちは丁寧に床板を剥がす。釘の頭を起こし、根太の上で梃子を効かせると、下層に灰。黒く固まり、ところどころに白い粒が混じる。
村尾がピンセットで拾い上げ、携行ルーペをかざした。
「大腿骨の皮質骨。熱灼色は黒→灰白。700〜900℃の火葬域だ。ハバース系がガラス化しかけてる。歯のエナメル片もある」
私は喉が鳴るのを抑え、大引きの炭化パターンを見る。
「ドラフトが下を走ってる。炉の吸い込みは仏間の奥へ。火葬炉を床下に置いたみたいだ」
「置いたんじゃない、家が炉になった」村尾が言う。
語の温度が下がる。
そのとき、梁が軋んだ。普通の木のクリープ音は乾いた金属音に似る。今のそれは——湿った声だった。
見上げる。梁成に沿って木目の渦がさらに捻じれ、赤黒く脈打つ。
「……川嶋、聞こえるか?」
耳を澄ます。梁の芯から低い呻き。
「う……め……」
人の声だ。材の中で、声帯の仕組みを模して鳴っている。私は手で材を押さえる。ヤング率が狂っている。木は柔らかい肉のように沈む。
床下から冷気。灰の海面が盛り上がり、無数の掌がせり出す。灰と脂の塊と骨片が寄り合って掌の形に。指腹の皮紋が木目へと継がる。
「退け!」村尾が叫び、私の腕を引く。
だが遅い。掌が彼の前腕屈筋群を把持し、皮膚ごと吸い込む。表皮が剥がれ、真皮のコラーゲンが糸のように延び、筋区画が分類される。
「やめろ……! 俺は解剖する側だ……!」
叫びは梁の鼓動に分解され、音節が木目に溶けた。チェーン・オブ・カストディのラベルを貼ったサンプル袋が、勝手に封緘され、赤い滲みで署名が上書きされる。
逃げようと振り向いた瞬間、背後の柱が蠢く。
柾目が割れ、赤い肉片のように開く。
——それは肋骨だった。
貫が肋軟骨の弧を描き、差鴨居が鎖骨の角度で喉を横切る。
梁は大動脈弓のカーブで脈打ち、胴差が腸間膜の襞になってぶら下がる。
私は理解した。
この家は建築ではない。
人体の設計記号で組み上げ直された巨大な死体だ。柱は骨、梁は血管、壁は筋膜。仏間は口腔。奥は咽頭。
村尾が肘から解体される。屈筋腱が糸として長押に巻き付けられ、骨端が栓のように柱頭へ打ち込まれる。学会で幾度も見た切開ラインが、家に習得され、逆用されている。
私は図面を描くように逃走経路を計算する。敷居の先、式台の角で回頭——。
柱間から手。隙間は在来の仕口寸法なのに、指はその寸法でぴたりと出入りする。継手は人の手を想定して設計されていたのか。
次の瞬間、柱の狭い間から無数の掌が伸び、私の肋下を板と板の間に押し込む。
木目が皮膚を吸い、汗腺が道管に接続される。
骨が梁の一部に組み込まれ、骨髄の赤が梁の拍動に色を与える。
私は叫ぶ。
その音は木の軋みに翻訳され、胴差の共鳴として家の内部に反響する。
声は構造音に変わり、私は家の剛性をわずかに上げるための部材になった。
視界の端で、村尾の胸骨が床框に嵌め込まれるのが見える。
ABFOスケールが床に落ち、目盛りの**“12”に赤が滲む**。
灰が吸い込み、数字が見えなくなる。
——私と村尾は、器の中に屍として組み込まれた。
家が息をし、私たちを呼吸の一部にした。
梁が鼓動し、柱が脈を打つたび、どこかで**“う……め……”が続く**。
それはもう、誰の声でもない。家という巨大な遺体の、生きてはいけない鼓動だった。
二人の専門家が、帰ってこなかった。
建築史の川嶋と、法医学者の村尾。
彼らが残したはずの調査資料は、どこにも届かない。
代わりに警察から渡されたのは、焼け焦げたスケッチ用の方眼紙と、破れた鑑識用のスケールだけだった。
紙面に残っていた線は、間取りではなかった。
——人間の骨格を模した線図。
梁や柱の位置と、肋骨や大腿骨の比率が正確に重ねられている。
まるで、家そのものを「死体」として計測した痕跡。
私は、編集者として彼らの言葉をどう記事に残せばいいのか考えた。
だが、思考は途中で凍る。
もし書けば、それはまた一人語り部を増やすことになる。
八雲が証明したように、この家は「語られるほど強まる」。
由佳はノートの黒ずんだ断片を見て、ただ震えていた。
真理子は言った。
「二人は……“建材”にされたんだよ」
その言葉を聞いた瞬間、私は家の図面を見るたびに、梁や柱の一本一本に声が詰まっているように思えて仕方なかった。
——呻き声は、もう誰のものか分からない。
けれど、その中に確かに二人の名前が含まれていると、直感してしまった。
人数はまたひとつ、重なった。
十二に至る道が、着実に埋められていく。




