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第六章 都市伝説の臨界点

 私の研究対象は論文に載るような固い学問ではなく、人々の口の端に上る「噂」や「怪談」。

 だが、都市伝説は単なる笑い話ではない。

 反復され、修辞され、形を変えて伝わる。

 その背後にあるのは「人間がどのように恐怖を共有するか」というメカニズムだ。


 この家のことも、私は掲示板で初めて知った。

「十二人死んだ家」「血まみれの女が出る」「赤い手に引きずられる」

 断片的な証言はすでに伝説化しており、語りの型を備えている。

 私はその型を分析するため、実地調査に踏み切った。

 玄関の前に立ち、私は録音機を回した。

 収録メモ——サンプルレート48k、無指向性マイク×2、背面に風防。

「昭和四十九年以降、十二名の犠牲者が伝えられている。目撃証言の核は“白い女”と“赤い手”。反復される二項モチーフは**伝播適応度(fitness)が高く、典型的なオステンション(ostension)**型拡散と一致する」


 ここに来るまでに私は、掲示板・動画コメント・事故物件サイトの書き込みを時系列で刈り取り、形態素解析で頻出句を出した。上位は〈白い服/黒髪/顔が見えない/赤い手/仏間/引きずられた〉。FOAF(friend of a friend)症候が強く、“友だちの友だちが見た”という距離の近さが恐怖の信憑度を高めている。

 モチーフ・インデックスに便宜上のタグを振る——

•W-01: 白衣の女(White-clad woman)

•H-05: 赤い掌(Red-hand grasp)

•R-12: 仏間の奥(Recessed altar room)

 語りの核は三つで充分だ。三つは物語が自己複製できる最小単位だから。


 語りながら、私はカメラで家を写す。

 ファインダーは、撮るごとに窓枠の比率を数%ずつ歪ませた。縦横の黄金比が崩れ、開口部が眼窩のように膨らむ。建物は幾何でできているはずなのに、形は語りに従属している。私は露出を固定し、三脚に替えて、三点測量で枠の変形率を測る——無意味だ。語りは数値の外に立つ。


 仏間に足を踏み入れる。

 壁に古い落書き。

 〈血まみれの女を見た〉

 私は息を止める。最初期ソースと一致した文言だ。匿名掲示板の第一波、紙面から消された“女”の語。

 ここで一つ仮説を置く。

「この家は“語り”そのものを取り込む装置だ。語られるほど強くなる。犠牲者の増加は語りの累積であり、反復される語が呪いの回路を閉じる。つまり、伝説化のプロセス自体が家の力を増幅している」


 その瞬間、壁の文字が赤く滲んだ。

 “見た”が、“見ている”に変形する。完了から進行形へ。対象が証言から監視へ。

 私は凍る。

 ペンを持つ右手が止まらない。私の意志を外れ、ノートへ文字が刻まれる。

〈語った者は、必ず数に加わる〉

——これは二次 elaborationではない。自動記述(automatic writing)。いや、記述の自動化ではなく、語りの自動化だ。語り手が器になっている。


「……ばかな」

 口が乾く。私は声で否定する。

 次の瞬間、録音機から私自身の声が再生された。

——〈語った者は、必ず数に加わる〉

 遅延ゼロ。ループの継ぎ目に位相の段差がない。再生と録音が同時だ。部屋の空気が低く震え、音が空間を彫る。


 私は出口に走る。

 廊下の壁に、私の書いた文章が赤く浮き彫りになる。

〈八雲恵介、十二人目の伝説になる〉

 最初は未来形で浮かび、次の瞬間に断定へ変わる。これは言語行為(performatives)の罠だ。宣言は現実を作る。私は自分の言葉で自分を裁いたのか。


 脚に押しを感じる。見えない手が背を前へ進めるのではない。奥へ沈める圧だ。

 振り返る。

 顔が近い。

 白い肌、濡れた髪、裂けた口——W-01の完全形。

 ただ、眼が規範から外れている。白目が広がりすぎ、黒目が固定している。視線が動かないのに、見ている。

 「あなたが“語った”から」

 声が喉ではなく、文字のほうから響いた。壁の赤が発声している。


 私は理性の防波堤として、頭の中に拡散モデルを描く。

——初期感染者(seed)、閾値モデル、模倣、修辞の磨耗。

 だがここでは、すべてが逆だ。

 語られた型が人を選ぶ。

 型が私を使って自分を増やす。

 都市伝説の本態は、物語が生き延びる戦略に過ぎない——そう書いてきた。

 では、生き延びるものが物語のふりをしていたら?


 録音機の録音ランプが、再生と同じオレンジで点滅する。

 モードの区別が消えた。

 私は口を開く。声が出る。

 同時に吸われる。

 音素が分解され、母音だけが取り出され、赤の文字に置き換わる。

 壁に母音の尾が連なり、やがて文に変わる。

〈語った者は、必ず数に加わる〉

〈語った者は、必ず数に加わる〉

〈語った者は、必ず数に加わる〉

 行が増え、私が減る。


 ノートを閉じようとした手が、紙に張り付く。

 手の平の熱が失われ、代わりに紙の冷たさが皮膚の内側へ入ってくる。

 ページの余白が歯になり、私の言葉を噛み切る。


 最後に、廊下の突き当たりで私の名が整形される。

〈八雲恵介〉

 その下に、斜線で数が書かれた。

「十一」だった線が、赤で「十二」に訂正される。

 誰が訂正した?

——語りだ。語りそのものが、記者の赤の手際で私を校正した。


 世界が一拍、静止した。

 私の声は全部録音機に吸い込まれ、波形は直線になった。

 残ったのは、一冊のノートだけ。

 最後のページに、私の筆跡で、しかし私の意志ではない書きぶりで——

〈語り部は、これで終わり〉


 ページの紙目が赤でじわりと濡れ、文字の角が柔らかくなった。

 私は理解する。

 都市伝説は“人が作る噂”ではない。

 語りが人を作り、増やし、食う。

 そして、私はその語りの栄養になった。


 八雲が残したノートは、警察の封筒に入れられて私たちのもとに届いた。

 封を切った瞬間、紙から漂うのはインクではなく、生乾きの血の匂いだった。


 ページをめくると、同じ文が延々と繰り返されていた。

〈語った者は、必ず数に加わる〉

一行ごとに赤黒く滲み、最後のページにだけ、はっきりと名前があった。

〈八雲恵介〉

 その下に、太く塗りつぶされた「十二」という数字。


 由佳は震える手でページを押さえ、声を失った。

 真理子は唇を噛み、かすれた声で言った。

「……彼は自分の研究の中に、取り込まれたんだね」


 私は答えられなかった。

 ノートを見つめるほどに、そこに書かれた言葉が耳に響いてくる。

 声でも音でもなく、文章そのものが鼓膜を叩いている。

「語った者は必ず数に加わる」


 犠牲者の数は確実に増えている。

 「十二人の死」という公式記録が、もう過去の出来事ではなく、いま私たちが歩んでいる道筋そのものだと気づいた。


「……あと、何人で揃うの」

 自分でも気づかないうちに、そう呟いていた。

 返事はなく、蝉の声だけが窓の外で続いていた。

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