第四章 祓えぬもの
私は白川道心。僧であり、霊を視る者だ。
呼ばれたのは、郊外に取り残された木造の二階家。
「十二人が死んだ」と噂される場所。
不動産会社は“祓え”と言う。だが、祓えるものなら、とっくに消えているだろう。
霊というのは、ただの残影ではない。
恨みと記憶が積み重なり、土地に根を張り、時に人を喰う。
私は数多の場所で経を唱え、幾つも見送ってきた。
だが、この家の匂いは違う。
封筒を開いた瞬間から、墨のような冷気が肺に沈んできた。
私は思う。
「祟り」とは信じる者の心に宿る。
だが時に、信じようが信じまいが、すでにそこに在るものもある。
この家がそうだ。
私は経を唱える。
声は定拍で出している。調息は四拍吸って八拍で吐く。腹が先に動く。——はずだった。だが口から漏れる音は、私の喉で響いたあと、家の奥で二度目の声を立てた。反響ではない。“応える”声だ。
入る前に、門下で結界を敷いた。四隅に塩・米・酒・麻を置き、榊を立て、地を撫でるように四方祓い。右掌に塗香(沈香と白檀)を擦り込み、掌心の熱で香気を立てる。
左手に独鈷杵、右で九字を切る——臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・前。印は外金剛合掌印から不動剣印へ。
その瞬間、背筋を這い上がったのは「内から外へ溢れ出している」という感触だった。普通、呪は器(家)の内側に溜まる。ここは器が吐き出す。結界の外側で、風もないのに榊が逆立った。
玄関を跨ぐ。
腐った木の臭いに、洗い晒した濡布の冷たさが混じる。呼気を一度止め、智拳印で臍下を固め、第一声に光明真言を置く。
オン アボキャ ベイロシャノウ マカボダラ マニ ハンドマ ジンバラ ハラバリタヤ ウン
音は出た。だが文節の末尾が必ずひと拍、闇に吸い取られる。
仏間の前で、護摩壇を簡易に組む。折敷に灰を盛り、護摩木に種子(梵字)を書き入れる。
不動明王には「カンマン」、大日には「ア」。墨はよく乗る。だが書き終えた刹那、墨の端から別の字がにじむ。見慣れぬ二字——暃と彁。典拠のない、あの“幽霊文字”が、梵字の上を書き換えるように赤く浮いた。私は筆を引き、塩で指先の汗を落とす。錯視だ、と言い聞かせる。
請来。香を多めにくべ、金剛界の方角に額ずき、不動明王真言を高める。
ノウマク サンマンダ バザラダン センダン マカロシャダ ソワタヤ ウンタラタ カンマン
火はまっすぐ立たず、天井手前で反り、仏間の奥へ斜めに吸い込まれる。煙の筋が途中で途切れ、まるで黒い口へ吸われているようだ。
耳のそばで音が重なる。経文の音価(四分・八分)が二重にずれ、私の声の裏に嗚咽が乗る。女のもの、だが喉の座は低い。
「——かえせ」
性別の輪郭がない。だが“奪われた女”の温度を持つ声だ。
私は数珠(星月菩提)を強く握る。掌に熱が走る。熱傷のはずなのに、冷たさが皮膚の芯へ沈む。離そうとしても離れない。皮膚に掌形の痕が、内側から赤く押し出される。掴まれている。
仏間の奥を視る。目で見るのではない。印を結び、心を一点に落とす——内観。
黒の渦。そこで赤い点が幾つも点滅し、やがて掌の形に合流する。
床下から、幾千もの手が、上へ上へと押し寄せ、板の裏を叩き、撫で、掴む。
「成仏していない」
自分の声が、家に取り上げられて返る。
対機の段へ移る。
「名を名乗れ」
怨を抜くには、まず相手を言葉へと落とすのが道理だ。名は鎖。
沈黙。沈黙の重みが畳から膝へ昇る。
護摩木の赤い二字が、位牌の無い床の間にまでにじみ広がる。
暃彁
読みは、——ひか……こ……?
口に乗せようとした音が、喉で千切れる。音節が前へ進まない。言葉が喰われる。
ならば命令で押す。
不動剣印。剣先で空を切り、邪縛の字(悉曇)を描く。
「未練、断ずる。怨、鎮まれ」
言葉は出る。だが“鎮”の字だけ、空気の中で反転して私へ戻る。
“鎮”が“鎖”に、“断”が“綻”に変わる感覚。言霊が裏返される。
護摩の火が青へ落ちた。
青い火は冥の色。ここで火を止めるべきだ。だが止める前に、天井から赤い手が一本、垂直に降りてきた。
不動剣印の刃が鉛になり、腕が上がらない。
背後の不動産会社の男が、吸い込むような囁き声で「先生」と呼ぶ。振り向く。
——そこに男はいない。
畳の目の間から、指が五本、表面張力のように突き出ては引っ込み、油紙の下の水のように、部屋全体を波打たせる。
私は最後の綱に手を伸ばす。
鎮宅の札(檜板)に「ア」「ウン」を刻んだ護符。梵字の輪郭に、また暃彁が滲む。墨ではない。血の温度で赤い。
札を柱に打つ。音がしない。衝撃が柱に入らず、空気が打たれた感触だけが掌に残る。
札は表からではなく裏から焦げ、字だけが先に黒く崩れ、灰が内側へ落ちた。
私は腹を決める。
請召していた不動へ、退転の覚悟で身を寄せる。
「この身は捨つ。縁を切り、路を開けよ」
大威徳の名を借り、五大を胸で組み合わせ、呪を命の長さで引き伸ばす。
——その長さを、家が測る。
音価が短くなる。五音が四に、四が三に。寿命を削るように、真言の文字数が減っていく。
私は気づく。ここは「祓う/祓われる」の関係ではない。言葉そのものを食う場所だ。
床が沈む。沈むのに、沈んだはずの位置から赤い手が肩まで伸びてくる。距離が計れない。
数珠の玉がひとつ、弾け、ふたつ、みっつ。星月の斑が飛沫のように散る。
五鈷杵を握り直す。重い。重さが増える。腕が自分のものではない。
仏間の奥に顔が浮かぶ。濡れた黒髪、白い肌、裂けた口。
白目だけが、火の青を映して輝く。
私は不動の名を呼ぼうとした。カンマンが喉で欠ける。
「……祓えぬ」
私の声が、私の声ではない響きで部屋の四方から重なる。
天井の欄間から、いくつもの手が簾のように下がる。
床下からの手と、合掌するように私を挟む。
膝。腰。胸。
胸骨の上に置かれた冷たい掌が、心臓の鼓動を数える。
数え終わるのを、待っている。
仏間の闇が口になった。
襖の影が唇、敷居が歯。
私は真言の残りを掻き集める。
オ——
音節が、闇の口に吸い込まれる。
言葉が先に飲まれ、次に息が、最後に体が。
沈む間際、護摩壇の灰の上に二字が残った。
暃彁
読みは、終ぞ得られない。
だが、それがこの家の名であることだけは、骨で知った。
不動産会社から連絡が入ったのは翌日だった。
「霊能者を派遣したが、現場で倒れ、搬送されたきり消息がつかめない」と。
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥に冷えた杭が突き刺さった。
——また、だ。
野村が消え、配信者の二人が帰らず、そして今度は僧侶までも。
「祓う」ために呼ばれたはずの人が、逆に呑まれた。
あの家は、もう人間の領域を踏み越えている。
夜、私は由佳と真理子に会った。
三人で机を囲んでも、誰も口を開かなかった。
やっと由佳がぽつりと言った。
「……直樹が言ってた。科学で証明できるはずだって。
でも……誰も帰ってこない」
真理子は両手を握りしめていた。
「僧侶さんなら違うって思った。でも、同じ……」
その声は途中で途切れ、嗚咽に変わった。
私は言葉を失ったまま、ただ二人の姿を見ていた。
胸の奥に湧くのは、怒りでも悲しみでもなく、どうしようもない恐怖だった。
科学も、笑いも、祈りも通じない。
「祓えぬもの」がそこにある。
蝉の声が外から聞こえていた。
その単調な鳴き声が、まるで死者の数を数えているように思えた。
次に数えられるのは——私自身かもしれない。




