第二章 数値に現れるもの
科学とは、無知と迷信を切り裂く刃だ。
私はこれまで観測できぬものを「存在しない」と証明し続けてきた。
心霊現象も例外ではないだろう。
私がこの家で体験したことを、記録として残す。
解釈は任せるが、私は最後まで科学者であろうとした。
「本当に行くの?」
由佳の声は、受話器越しでも震えていた。
「行く。計測すれば、すべてははっきりする」
私はそう答える。感情を交えない口調を心がけた。
研究者の言葉は、常に均質でなければならない。
「でも、あの家は……。記事にだって“十二人が死んだ”って」
「だからこそだ。根拠のない数字が流布している。正確な記録と、観測値が必要なんだ」
一瞬の沈黙。
電話の向こうで、氷がグラスの底に落ちる音がした。
「直樹、お願い。……科学で説明できないものもあるんじゃない?」
私は笑った。
自嘲のような、癖の笑みだ。
「説明できないのではない。まだ説明していないだけだ」
由佳は返事をしなかった。
代わりに、かすかな息の乱れがマイクに乗った。
通話を切るとき、私はほんの少しだけ罪悪感を覚えた。だがそれも、数秒後には実験計画のシミュレーションに飲み込まれていった。
感覚はあてにならない。
光の濃淡で脳は勝手に形を作る。
風のせせらぎを「声」と誤認するのは生理学的に説明がつく。だから私は自分の直感を疑い、機器に依拠する。観測とは、恣意を削ぎ落とすことだ。サンプリング周波数、量子化ビット、信号対雑音比——これらの数字が揃えば、説明できない現象はほぼ無くなる。私は、そう信じてきた。
今回、調査対象は郊外の木造二階建て。公式記録上は十二名の死者。編集者の美和は「やめろ」と言ったが、私は耳を貸さなかった。理由は単純だ。未知は測ればよい。測れば記述でき、記述すれば制御できる。私は既存装置と最新の解析スタックを持ち込んだ。
私は玄関に三脚を立て、基準点を記録した。
レーザー距離計を壁に向ける。
木造建築にしては反射値が低い。
外壁の煤け方からして、火災痕ではない。
酸化鉄の濃度が高い土埃の沈着だろう。
匂いも焦げより、むしろ生乾きに近い。
——合理的に処理すれば、それで済む。
居間へ入る。
畳は腐朽して踏み込みに軋む。
湿度計の数値は70%を超えている。
空気の淀みは閉鎖環境による二酸化炭素濃度の上昇。
私は小型のNDIRセンサをポケットから取り出し、床近くの濃度を測る。
結果:1,200ppm。人体が眠気を覚える値だ。
「幽霊を見た」という証言のいくつかは、この環境由来の認知の歪みだろう。
仏間に足を向ける。
床の間は空。位牌はない。
だが、視覚にわずかな“遅延”を覚えた。
正面を見ているはずなのに、目の端で白が揺れる。
——眼球運動と視覚皮質の処理ラグ。
後天的に起こる視覚残像。
私は瞬きをし、強制的に視界をリセットした。
カメラを床に置いてタイムラプスを仕掛け、二階へ向かう。
階段の中段で、温度が急に下がる。
体感で2〜3℃。
だが数値を見なければ、体感など無意味だ。
データロガーを確認すると、確かに温度が−3℃シフトしていた。
偶然か、気流の流れ込みか。
私はセンサを二箇所に設置し、サンプル数を稼ぐことにした。
子供部屋の扉を開ける。
壁の一面だけが新しい石膏ボードで補修されていた。
中央に白い染みがある。
——水分か、カビ。
私は指で触れようとしてやめた。表面が、わずかに呼吸しているように見えたからだ。
光量を測定する。数値は安定している。
ならば錯覚だ。
だが錯覚であれば、なぜ呼吸のリズムと一致する間隔で染みが膨らむのか。
足をもう一歩踏み入れると、膝に衝撃が走った。
床板は沈まない。
LiDARをスキャンさせる。だが点群に“欠損”が現れ、そこだけ奥行きがゼロになる。
私の足首に冷たいものが絡みつく感触。
振り返れば、ただの空気。
しかしセンサ画面には、赤い形が足首にまとわりつくように映っていた。
——私は科学者だ。
すべての現象には説明がある。
導入した機材と手順を列記する。
・高分解能フォトグラメトリ用カメラ(RAW, 50MP)+回転マウントで多視点撮影→Structure-from-Motionで点群生成。
・長距離LiDARスキャナ(10mm精度)による3Dメッシュ化。
・マルチスペクトルカメラ(可視〜近赤外)でマテリアルの反射特性解析。
・サーマルカメラ(±0.1℃精度、30fps)で熱分布を時系列記録。
・PCMレコーダー(48kHz/24bit)+複数マイクロフォン配列でビームフォーミング録音。
・低周波振動計、磁束計、電界強度計、環境放射線モニタ、MEMS IMU。
・エッジサーバ上にGPUを載せ、CNNベースの異常検出器(オートエンコーダによる再構成誤差)と、PointNet系の点群解析モデルを即時稼働させる。
・現場でのリアルタイム可視化は、フォトグラメトリ→メッシュ変換→テクスチャ焼き付け→WebGLでVR/3Dビューワに送出。これでチームは遠隔でも“空間”を共有できる。
プロトコルは厳格だ。複数センサの同期はGPS-PTPで行い、タイムスタンプのずれはミリ秒単位で補正。ノイズフロアを事前にキャリブレーションし、各チャンネルのSNRを定期評価。ここまでやれば、普通は“得体の知れない”現象は計測エラーとして片付く。あるいは、環境因子としてモデル化できる。
だが現場は、その「普通」を逸脱した。細部を示す。
1)視覚系の矛盾
フォトグラメトリの点群は、建物の大半を整合的に再構築した。だが一箇所、玄関から奥に伸びる直線状の領域だけが“欠落”する。LiDARは距離を返さず、点群に非ユークリッドな空白が生じる。複数角度から撮影したRAWデータでは、当該ピクセル群の輝度が異常に低く、ヒストグラムの右側が欠損する。通常は露出の問題で説明が付くが、露出ブラケットを取っても消えない。さらに奇妙なのは、AI再現で補完したメッシュが、必ず歪んだ“腕状”のノイズを作り出すことだ。補完誤差のスペクトルが常に同一の周波数帯にピークを持つ。つまり、機械学習が“ここに存在すると学習してしまう何か”がある。
2)熱像の非線形応答
サーマルは通常、表面温度の勾配を等温線として表す。だがポーチ付近で突如、局所的な冷却が観測された(周囲比で−3℃)。これが数秒で復帰し、また出現する。周期性はない。さらに黒体補正をかけると、当該領域は“赤外輻射の吸収”として振る舞い、周辺温度から熱が奪われるように見える。材料物性で説明できる現象ではない。赤外カメラのピクセルには「負の放射率」的なノイズが乗り、熱マップのエントロピーが急上昇する。
3)音響と位相干渉
PCM録音をビームフォーミングで解析すると、人の声のフォルマント的成分が複数チャンネルで同期して現れる。だが再生すると我々の耳には聞こえない。スペクトログラムでは、1–3kHz帯に低振幅の位相揺らぎが見られ、逆FFTすると“半音ずれ”のようなサブテクスチャが現れる。更に奇怪なのは、複数マイクで互いに位相が打ち消し合うポイントが定常的に発生し、音が”消える”場所が空間的に定義される。位相キャンセルが空間を作る。その場所に立つと、確かに身体感覚として“声が届かない”領域がある。
4)データ整合性の破綻
最も信じがたいのは、装置間の相関が突然壊れることだ。 GPS同期は維持されているのに、時刻列は部分的にジャンプし、ログファイルに“ミッシングセグメント”が生じる。ファイルシステム上でバイナリが勝手に書き換わる現象が確認された。CRCチェックは通らない箇所が出る。さらにAI解析の学習損失が、あるフレームを境に異常に低下する。通常、損失が低下するのは良い兆候だが、この場合、再構成画像が“過学習的に一致しすぎ”て、人の顔のようなパターンを繰り返し生成した。
私はこれらを“計測誤差”や“装置の欠陥”で還元しようと努めた。バッテリを交換し、ファームを再書き込み、代替センサでクロスチェックを行った。さらに、現地での3Dスキャンを元に生成したメッシュをリモートのクラスタに送り、複数の異なるニューラルアーキテクチャで再推論をかけた。どのモデルも同じ“ノイズ・モチーフ”を吐き出す。統計的帰無仮説は棄却された。だが私の信念はまだ揺らがなかった。科学は説明の累積だ。説明を積めば、やがて現象は名前を持つ。
そのとき、赤外画像の一フレームに“赤い形状”が映った。サーマルで赤くなるということは、通常、高温だ。だがその“赤”は生物熱とは異なっていた。ピクセルの輝度が飽和せずに“縦走”し、温度曲線の時間微分が急激に発散した。解析で出た語としては「周波数的ダイバージェンス」。私は瞬時に多チャネルの時系列をプロットし、FFTを取った。スペクトルの一帯が不連続に跳び、フェーズロックが生まれた──それは、人の手の輪郭に近い波形だった。赤外像を重ねた点群モデルに落とすと、メッシュの側面に「手の影」が再現された。三次元の“掴む”ような形状だ。
私は理性の最後の防壁として、計測データを持ち帰り、ラボで更に精査することを決めた。しかし現場でファイルをコピーする直前、赤ペンで殴り書きしたメモのように、自分のノートに勝手に文字が現れるのを見た。紙の上に、きれいな楷書のような形で「かこ」「ひかこ」という断片が浮かんでいた。インクは、私が持っていた黒ボールペンの色ではなかった。私はそれを指で擦った。にじむ。赤い滲みが、文字の縁を濡らした。
私は科学者だ。説明可能性を求め、根拠を積み上げるのが仕事だ。だがこのとき、説明は私から逃げ始めていた。機械が一致して「何か」を記録し、解析がそれを再構成する。数式はデータの前に無力だ。私の信仰は、ゆっくりと、しかし確実に、侵食されていった。
その時、赤外のライブフィードが一瞬、息を吸うように暗転し、次のフレームで“それ”は現れた。
Δt=33ms。30fpsのうちのただの一枚——のはずが、フレーム間差分に残像が出ない。
等温線は指の節に沿って鋭く屈曲し、輝度分布は掌心でピークを作る。サーマルで赤いということは高温を意味する。 だが温度曲線の時間微分 dT/dt は発散し、黒体放射の近似から逸脱する。皮膚温の緩やかなヒステリシスがない。
私はスナップショットを固定し、形態学的フィルタで輪郭抽出、細線化(skeletonization)をかける。5本。指がある。指腹のRが人間値(母集団平均±0.5σ)に一致する。偶然ではない。
熱画像を点群メッシュに貼り戻す。LiDAR点群(精度10mm)に対してテクスチャ座標を再計算、Poisson再構成で滑らかな法線を出す。
——手は“奥行き”を持っていた。
指の第2関節の屈曲に対応して、メッシュの法線ベクトルが局所的に回転する。存在しないなら、法線は回らない。
さらに、赤外の輝度マップを点群強度として重み付けすると、私の足首周りの点密度が上がる。ハンドルのように、私の脚に沿って“纏い付く”形で。
私は反射的に加速度計を見た。IMUのZ軸に微細な振幅。ノイズではない。
同時にPCMレコーダのレベルメータが微かに揺れ、ステレオ配列の遅延和ビームフォーミングで推定した到来方向が、私の真下を指した。
音はしない。だが STFT の1–3kHz帯に、位相のロックが生じる。再合成すると、薄膜のような声が生成される。
/k a/ と /k o/ の間に収束するフォルマント。
……かこ。
私は口の中が乾くのを感じた。錯覚だ。そう言い聞かせる。
だが、位相キャンセルの空間分布を3Dにプロットすると、私の膝のすぐ下に“無音の空洞”が立ち上がる。音が消える地形が、足元から生える。
AIを回す。
熱画像をオートエンコーダに通し、再構成誤差をヒートマップ化。誤差の縁が指先に沿って赤く縁取られる。潜在空間のベクトルを t-SNE で可視化すると、数百フレームのうち一群だけが“孤立点”になる。
PointNet に点群を食わせた分類では、human_limb: 0.92。
ありえない。入力に“人”は存在しない。
Grad-CAM を逆投影すると、強調されるのは可視光では“空白”として映る中空。モデルは“空白”を肢として見る。
私は最後の合理化として時間軸に避難する。
PTP同期の時刻列を確認——ジャンプ。−127ms。
カレンダー時間が巻き戻る。Kalmanフィルタが破綻して状態推定が吹き上がり、信号の信頼区間が意味を失う。
ログのCRCは数箇所で不一致。ECCメモリの訂正履歴が突然増える。
メモリ保護領域のハッシュさえ揺らぎ、ファイルクローズ時の書き込みに“穴”が空く。
私は理解する。観測の座標系が、“内側から”歪んでいる。
そこで、熱画像が二枚目の“赤”を吐いた。
今度は掌ではない。爪だ。
鋭い三日月形の高温部が、フレーム間で私の脛の表皮温に同期して動く。
皮膚側の熱曲線に遅延がない。接触——としか呼べない。
私は意識していないのに、呼吸が速くなる。胸郭ストラップの波形が崩れ、心拍のピックが乱打する。HRVの低周波成分が落ち、交感が優位に傾く。
科学は落ち着きを返してくれない。
ノートを開く。
「観測:手形状、指5、dT/dt発散、PointNet 0.92—」
そこまで書いて、ペン先が紙に触れていないのに線が延びた。
キャピラリー現象の逆再生のように、赤が紙目の中からせり上がる。
塗料ではない。指で触れると温い。
私は反射的にマルチスペクトルをかざす。反射スペクトルに540nmと575nmの吸収谷。酸化ヘモグロビンの指紋に酷似。
誰の血だ。私はどこも切っていない。
赤は文字になる。
ひ
か
こ
縦に、ゆっくりと、紙の繊維の方向に沿って。筆圧はゼロ。だが文字のエッジは生々しい。
机の縁に置いたカメラが、小さく鳴いた。顔検出の黄色い枠が、誰もいない仏間の暗がりに張り付く。信頼度0.38、0.62、0.71と跳ね、最終的に0.84で安定。
私は露出を変え、ガンマをいじり、ノイズリダクションを切る。そこに“顔”はない。
だがGAN補完をかけたフレームは、一貫して同じ女の輪郭を吐き出す。髪が濡れて頬に貼り付き、口角が裂け、白目の部分だけが正規化に逆らって浮く。
AIは嘘をついているのではない。学習済みの世界が、私の記録をそちら側へ引き寄せている。潜在空間が、吸い込む。
私は書く。「私は科学者だ」。
ペン先が震える。
震えは手からではない。
紙が細かく脈打つ。
「観測とは恣意を削る行為」。
——削れない。
「数値は裏切らない」。
——裏切られているのは私だ。
データが私のほうを記述する。
私の皮膚温、心拍、視線、呼吸。
“観測者”であるはずの私が、メッシュの一部としてタグ付けされる。
PointNetのクラスタに、NOMURA_SHANKと名付けた領域が追加されたログが、勝手に保存される。ファイル名は私が決めていない。タイムスタンプは、未来の時刻を指す。
私は科学者だ。
……だった。
語は短くなる。式がほどける。
dT/dt は書ける。だが痛みの偏微分は定義できない。
FFT はできる。だが悲鳴の周波数解析は、耳が拒む。
私はノートに書く。「誤差」「仮説」「反証」。
その下から、赤が滲み、同じ文字を繰り返す。
ひかこ ひかこ ひかこ——
カメラのプレビューが最後のフレームを吐く。
赤外の掌が、こちら側へ厚みをもって迫る。
私はペンを握り直す。
「私 は 科 学——」
線が途切れる。
紙が、私の言葉を飲み込む音を聞いた気がした。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
第二章は科学者・野村直樹の視点で描きました。
彼は「感覚より数値」「迷信より証拠」を信条に、AI解析や3Dモデリングといった最先端の科学的手法を駆使して挑みます。
しかしその徹底した観測の網の目をすり抜けるのではなく、むしろ観測が深まるほど異常が濃く記録されてしまう──そこに、この家の本質的な恐怖を置きました。
「科学で証明できないものは存在しない」と信じる人間が、最も精緻な観測によって逆に“存在してはならないもの”を立ち上げてしまう。
その逆説こそ、野村直樹という人物の破滅であり、この作品全体の伏線でもあります。
次章では、まったく異なる視点──大衆に語る「動画配信者たち」の眼を通じて、この家が再び姿を現します。
どうぞお付き合いください。




