助けてバケツくん
高校生になった初日、透と友達になった。 後ろの席を振り返ってみたら、大人しそうな少年が文庫本を読んでいた。視線に気付いた彼は大きな瞳で友哉を見つめて、小さく頭を下げた。
友哉は誰とでも仲良くなれる性分である。 名は彼の性質をよく表している。口数の少ない透に一方的に話しかけ、家も一駅違いということで、一緒に帰った。
後ろの席に前の席、隣の席と順番に友達になっていった友哉はクラスの中心人物となった。男子も女子も関係なく、一ヶ月足らずで同級生全員と話し、彼ら彼女らの人となりを知った。
しかし、一番よく話すのは透だ。
「あれ、次の授業って移動だっけ?」
そう尋ねると、透がすぐに教えてくれて、一緒に廊下を歩く。
「やっべー、俺、完全に寝てたわ。透、ノート貸して」
すぐに透はノートを貸してくれる。彼の字はきれいで、ノートは参考書のように見やすい。
透は同級生たちと距離を置いていた。
ラインのクラスグループにも入っていない。友哉が粘って透とラインの交流をしているが、スタンプなどもちろん、絵文字も使ってこない。
休憩時間はスマートフォンではなく、いつも古びた文庫本を手にしていた。
あいつは変わっている、と同級生たちは言う。でも顔はよく見たら美形で、ミステリアスな雰囲気があるね。そう言ったのは噂好きの女子だ。
透は体育の時間に、時々、具合を悪くした。
運動神経は敏捷なぐらいだが、細い体で体力がないらしい。付き添いを断って、透はよくふらついた足で保健室に行った。
「もっと食べないと。君は痩せすぎだよ」
保健室の先生に言われても、透は昼にメロンパンを一個食べてから、すぐに机に突っ伏して寝てしまう。
持病でもあるのかと体育教師に聞かれても、透は貧血気味だと答えるだけだ。
ある日、透は高飛び棒を飛び越えたあと、マットに倒れたまま起き上がらなかった。
慌てて教師が抱きかかえて保健室に連れていった。友哉は透が心配でたまらず付いていき、体育教師が保健室の先生を呼んでくる間、ベッドの傍にいた。
透は青ざめていた。細いあごが小さく震え、いたい、と言った。
「どこが痛い?」
問いかけると、透は仰向けになっていた体を横に倒し、腹を抱えた。
友哉は痛みにうめく透を見て、鼓動の震えを感じた。衝動的に肩に触れて体操着をまくった。
透のへこんだ腹は、青黒かった。あばらが上下するたびに、痣がうねり形を変える。
「……見ないで……欲しい……」
切れ切れに、透が言った。友哉の手首をつかんで、起き上がる。細い指が友哉の手首にくいこんだ。
「もう、大丈夫だから……お願い、黙ってて欲しい。ただの貧血だから」
透がベッドから降りる。保健室の先生が入ってきて、透に具合を聞いた。もう大丈夫です、そうしっかりと答えて歩き出した透の背を、茫然と友哉は見送った。
それ以降、透は友哉から離れた。
友哉の後ろで透は気配を消していた。儚い彼が本当に消えてしまうのではないかと、何度も友哉は後ろを見た。視線は合わない、かける言葉は届かない。
「いいかげんにしろよっ!」
もどかしさは、怒りとなった。
誰もいない、夕焼けで染まった廊下で友哉は透の腕をつかんだ。
「……なんで、避けるんだよ。俺、あれからおまえのこと、すげぇ心配で……でも、どうやって声かけていいかわかんねぇし、おまえ避けるし。何なんだよ!」
透は顔をそむけた。
「……君には、知られたくなかった」
弱い呟きを聞いて、友哉は腕をつかむ力をゆるめた。
「……君のこと、友達だと思ってるから、友達になってくれて嬉しかったから、知られたくなかったんだ」
涙が落ちる音を聞いた。
友哉の手は彼の肩を抱いた。透の涙をとめたい。後ろから、抱きしめた。ひんやりしていた透の体がぬくもっていくのを、友哉は全身で感じた。
「友達なら、知りたい。おまえの苦しんでる理由。友達って、そういうもんだろ?」
透は夕闇の廊下に座り込んだ。
まるで他人事のように、淡々と、義父から暴力を受けていること、母からは無視されていると話した。
「義理の妹が生まれてから、お義父さんは僕が邪魔になったみたいだ。いきなり僕を見る目が変った。すごく……すごく怖い顔で睨んできて、台所で水を飲んでいるだけで、いきなり怒られて……」
「母さんはお父さんと再婚して、とても幸せになったんだ。妹が生まれて……とても可愛い女の子で……だから、僕さえ我慢すればいい」
我慢すればいい、と透は虚ろに繰り返した。
それは友哉の怒りを燃やす油となった。
「もう限界だろう、あんなでっかいアザができるほど殴られて! ひでぇよ、おまえの家族! なんでだよ……なんでおまえが、そんな目に遭わなきゃなんねぇんだよ!」
怒鳴られて、透は不思議そうな顔をした。
大きな眼が震えて友哉の怒りを理解した。食いしばった歯の間から、小さな嗚咽がもれた。
「……痛むんだ。全身が。時々、吐いてしまったら……血が、混ざってて……殴られて吐いたら……血が……」
透が虐待を人に話すのは始めてだと、友哉は察した。透の背中を友哉はなでた。
「どうにかしなきゃ、おまえ、このままだと殺されるよ。どうにか……しないと」
言いながらも、透をどうやって助けよう。担任教師に相談する、児童相談所に行く、警察に通報する。信じられる大人は誰だ?
「せめて一晩、安心して眠れたらいいと思う。あの家じゃなくて、一人きり」
そう言った透は、放心してあどけない。
「……俺の家、来る?」
透は首を横に振った。
「友哉くんの家族まで、巻き込みたくない。人の家って、緊張するし」
その答えに不満だったが、繊細な彼の気持ちを思って友哉は文句を飲み込んだ。
「俺に頼って欲しい。だから、仕方ないとか言って諦めんな」
強く言った言葉に、透は少し微笑んでうなずいた。
透は友哉の部活が終わるまで、待っていてくれた。体育館で友哉が男子バレー部の練習をしている間、透は体育館倉庫の隅っこで、ペンライトで本を読んでいた。
虐待のことはごまかし、家に居辛いみたいだから、とバレー部のキャプテンに話をつけて、跳び箱台の後ろは透の休息場所となった。
「透ー、帰るぞ」
部活が終わると迎えに行くのが習慣となった。透はほっとした顔で跳び箱の陰から出てきて、一緒に帰る。
「気をつけて帰れよー」
部活の先輩、今西が声をかけてきた。
自転車にまたがり、後ろに彼女を乗せている。
「はーい、先輩も気をつけて帰ってくださいね」
にこにこと笑って友哉は手を振った。しかし今西先輩はじーっと透の方を見て、動かない。
「……体育館倉庫には、バケツ君っていう幽霊が出るって聞いたことあんだけど、それらしいの、見た?」
今西先輩が神妙な声で透に聞いた。透は目を丸くして、首を横に振る。
「なんですか、バケツ君って?」
「友哉、おまえまだ知らないのか? 青いバケツをかぶった、男子学生の霊が出るって有名なんだぜ。だから、な、気ィつけろよ」
怖がらせるつもりなのか、今西先輩はにやにやと笑って言った。べし、と今西先輩の頭を彼女が殴る。
「ばか、後輩を怖がらせてんじゃないの。早く帰るよ」
彼女に叱られ、しょげた顔で今西先輩はじゃあな、と自転車を漕ぎ出した。笑顔で彼女は手を振ってくれた。
「……いーよな、今西先輩、美人の彼女がいてさ」
友哉は笑って言った。透も、曖昧に笑う。
「俺さ、あれから色々と考えたんだけどさ」
「うん」
「……やっぱり、俺らってまだ子供じゃん。岩橋先生なら頼れそうじゃね?」
岩橋は友哉のクラスの担任だ。三十過ぎの若い教師だが、大柄で声が大きく、責任感は強そうだ。生徒の話はしっかりと聞いてくれると評判だし、頭ごなしに叱る教師ではない。
「……うん」
透は曖昧な返事をした。
彼が消えてしまいそうな気がする。
色が白すぎて、細すぎて、空っ風に吹き飛ばされてしまう。
「なあ、大丈夫だって。なんかとかなる、なんとかしようぜ!」
つい声が大きくなった。透は困った目で友哉を見る。うるんだ瞳を見て、息が詰まる。
「……わかってる。でも、怖いんだ。……もっと悪いことになりそうで。あの人と別れたら、母さんはどう
なるだろう……妹はどうなるんだろうって……妹は、まだ三才だし、あの人は妹は可愛がってるから、だから僕だけ我慢していれば……」
「ダメだ! このままじゃ、おまえ、ヤバイよ……」
透の腕をつかみ、友哉は声を震わせた。
「でも……ごめん。怖いんだ……怖くて」
透は虚ろに繰り返す。
無力だ。どうにもできないのだろうか。
せめて彼が暴力に怯えない日を、増やせないだろうか。彼がゆっくりと眠れる日を。
「ごめん、早く帰ろう。寒いよ。君には感謝してるよ。放課後に、体育倉庫で少しだけ安心して過ごせる、その時間をくれたから……」
透は微笑んで、青信号に変わった横断歩道を渡ろうと言った。彼の口角は無理に上げられていた。
*
きつね色に揚がったからあげを、ぽいっと口に放り込む。
「こら、つまみ食い!」
母に手を叩かれそうになり、さっと避けてもう一つからあげをつまむ。
「まったくもう、あんたは。手も洗ってないし制服のままじゃないのさ、ばっちいからあっち行って」
母がしっし、と友哉を追い払う。
「息子を菌扱いかよ……」
醤油味がしみこんだ鶏肉をかみしめながら、友哉は文句を言った。
ベージュのテーブルに、四つの椅子。友哉は両親と兄の四人家族だ。父は会社員、母はスーパーのパート、兄は大学生とごく一般的な家庭だ。
リビングのオレンジ色のソファーに、黄色いゲームのキャラクターが、鎮座している。 母がクレーン
ゲームで取ってきた、大きなぬいぐるみだ。
透の家には、ぬいぐるみなんて、あるんだろうか。幼い義妹がいるのだから、男兄妹の家よりもあるだろう。もし同じキャラクターのぬいぐるみが透の家にあったとして、にっこりと可愛く笑っていると想像できない。
透からする、冷ややかな家庭の匂い。
「……なぁ、母さん、俺がもう一人増えたら、どうする?」
母の背に問いかけると、振り返って思いっきり顔をしかめられた。
「何言ってんのよ、あんた。そんなのものすっごく困るに決まってるじゃない。男子高校生は一人で十分よ」
まったくヘンな子ね、と母は溜息をつく。
「いや、俺みたいじゃなくて、もっと小奇麗な感じの男子高校生でもダメ?」
「キレイでも汚くても、高校生は一人でいいの! まったく、お兄ちゃんの学費だけでも大変なんだからね、ヘンなこと言ってないで、さっさと着替えてきて、手伝ってよ」
だよな、と友哉は諦めの溜息をつく。
透を養ってやる力は友哉の家にはない。友哉にもない。でも放っておけない、どうすりゃいいんだろう。
学ランのポケットの中で、スマートフォンが光った。通話を知らせるチャイムが、やけに大きく鳴った。
「……もしもし? 透?」
初めてかかってきた透からの電話だ。
荒い呼吸が聞こえてきた。
「透、どうした? 何かあったのか?」
嫌な予感で、頭の中心がずん、と重くなった。
「……ごめん、あの……」
「どうした?」
「来てくれる……? あの、学校まで」
「わかった、行く」
細い透の声に、友哉は即答した。
「母さん、ちょっと出かけてくる!」
台所に向かって叫び、友哉はスニーカーに足をつっこんで、焦る手で自転車の鍵を差込み、またがって漕ぎ出した。
雨が一筋落ちてきて、友哉の肩に落ちた。
透は体育館倉庫の前にいた。彼はうなだれて瞳は長い前髪に隠されている。
学ランの一番上のボタンはなく、シャツの襟に血がついている。白い首筋に赤い輪が浮き上がっていた。急いで袖を通したらしいダウンジャケットは、大きく左に傾いて袖がまくれあがっている。左手首には、青黒いアザがあった。
ひどい暴力の跡があった。
「なんでだよ……」
友哉が透を抱きしめたとき、下校のチャイムが響いた。直後に雷の落ちる音がして、遠くから女子の悲鳴が上がった。透は友哉に抱きついた。
「……くびを、絞められて……殺されると思って……」
透の慄きを、受け止めたい。
友哉はきつく彼を抱きしめた。
*
体育館倉庫の鍵を返し忘れたのは、偶然ではなかったのかもしれない。
義父に絞殺されかけた大切な友人を、一夜かくまうために、用意されていた。
雷と雨も示し合わせかもしれない。
「……帰るの、やめた。雨降ってるし、雷イヤだし。俺もいる」
友哉は体育館倉庫のドアを閉めて、鍵をかけた。
透が白く浮かび上がっている。傷ついた彼を、こんな暗闇にひとり、置いてはいけない。さっき帰ろうとした自分に、友哉は腹が立った。
友哉は透の隣に座り、母に友達の家に泊まると連絡を入れた。勝手さを母は責めたが、納得してくれた。
「……雨が、やんだら……帰ったほうがいいよ」
透が言った。
横殴りの雨が古い倉庫の壁を、叩いている。
「いや、もう帰るの面倒臭いし。なぁ、さっきのカイロ、背中に貼ってくれよ。寒いなぁ、ここ……」
かび臭くて暗い寒い。こんな場所を透は安楽の場所としている。
友哉は学ランをまくって、透に背を向けた。
軽く押すようにして、透がカイロを背に貼ってくれた。
「おまえも」
友哉がカイロを手にすると、透はゆっくりと背中を向けた。細い背中にカイロを張って、力強く押す。このシャツの下にもアザがあって、彼のいろんな所が痛んでいる。
「……なんで、なんでだよ……」
「なんで?」
「なんでおまえがさ、こんな辛い思いしなきゃいけないんだよ。なんでさ、あいつ……」
透の養父を見たことはない。けれどきっと醜い顔をしているに違いない。ひどい奴だ。透を殴るなんて、人でなしだ。
「さぁ……どうしてだろう。質問を返すことになるけど……どうして、君は僕にこんなに親切にしてくれるの?」
透が振り返って、柔らかく微笑んでいた。
「僕といても、面白くないでしょ? 友哉はたくさん友達がいるのに、どうして僕に構ってくれるのか……嬉しいけど、不思議なんだ」
「なんでって……言われたら……なんでかわかんねぇけど、いや、だって友達だろ。それに面白いとかつまんねぇとか、考えたことねーよ」
「友哉らしい答えだね」
透がくすりと笑った。
「なんで笑うんだよ」
友哉はむっとする。壁に立てかけられた懐中電灯は、薄汚い天井に白い丸を描いて、その光が友哉と透を照らしていた。
透の笑みは一瞬にして消えた。
ダウンジャケットのポケットに手を突っ込み、壁に頭をもたれかける。それから眠ったように、動かなくなった。
「同情なら、やめて欲しい。前にも言っただろう。君を巻き込みたくない」
透の声は大きかった。
友哉は何を言われたのか、すぐに判断できなかった。
「おせっかいは止めてくれ。僕に関わっても、いいことなんか、ない。出ていってくれ」
「何言ってんだよ、同情とかそんなんじゃなくて……」
「もう、うざったいんだよ! 出てけよ! 哀れみとか、そんなの……いらない」
透の叫びを、友哉は初めて聞いた。彼の眼光は鋭く光って、肩を上下させていた。
友哉は下がりかけた。ショックで、彼との距離を置きたくなった。傷つけられるのは嫌だ、嫌われていたとしたら、頭をガンと殴られたみたいな気持ちになる。
だけど、ここで下がったら、二度と透は口を利いてくれない気がした。彼がいなくなる。
「うるせぇよ! 勝手に決め付けんなよ!」
友哉は怒鳴り、透の胸倉をつかんだ。
「俺がどんなにおまえのこと、心配してるか知ろうともしないくせに! 同情すんなとか、かっこつけてんじゃねぇよ! ……おまえ……は……」
透の首には、絞められた跡がある。太い指がくいこんだ、細い首。白い肌に命を失いかけた恐ろしさが、くっきりと浮かんでいる。
「お願いだよ……もっと自分のこと、大切にしてくれ、頼む……俺、怖いんだ。このままだったら、おまえ、死んじゃうよ……」
透の顔が、ゆがむ。唇が震えて、涙を流した。
「……死にたく……ないよ……でも、すごく怖かった。身動きができなくて……首を絞められて……もう死ぬんだって……こわくて、何もかも、どうでもいい気がして……」
しゃくりあげて、透は友哉の腕をつかんだ。
倒れそうになった透を、友哉は抱きしめた。
透の腕が背中に回り、しがみついてきた。 友哉は透の頭をなでる。熱い体温と透の骨格を体で感じる。小さくて細くて、鼓動が脈打ってる。彼をもっと感じたい。友哉は透の濡れた頬に、頬をくっつけた。
薄い皮膚の柔らかさが、愛しい。
「ほっとける訳ねーじゃん。だって、俺、おまえのこと好きだから」
ぎゅっと抱きしめて呟いた自分の言葉に、友哉は赤面した。慌てて透から離れる。
好きだから。教室にいる時はいつも視界に透がいた、というか入れていた。
好きだから、彼を虐待する義父「あいつ」と憎んだ。好きだからかばいたい、今夜も好きだから、二人きりになれるチャンスだと思った。
行動にようやく感情が到達した。自覚した友哉は、全身が熱くなった。
透に告白してしまった。
「い、いや、あの、ごめん、男に告白されても気持ち悪いだけだよな。聞かなかったことに……」
「僕は好きだよ」
透がさえぎって、言った。
「好きだから、巻き込みたくなかった……」
透はぽかんとした顔で、言った。その後から頬を赤くして目を伏せた。
「だから、聞かなかったことにできない」
拗ねたような言い方が可愛くて、友哉は透をもう一度、抱きしめた。頬に唇をつける。心臓がばくばくと大きな音を立てている。
透の方から、唇を近づけてきた。友哉は思い切って、唇を重ねた。熱くて柔らかくて、なんだか泣きたい気持ちになった。
ドン、と音がした。コンクリートに響き渡ってきた振動に、透が怯えた。体育館倉庫の扉が開く。友哉は透を背中の後ろに押しやって、彼を隠した。
足音が近付いてくる。
「……誰だ?」
透が肩に手を置き、そっと様子を見ている。透の前髪が頬をくすぐっている。大丈夫だから、と友哉は透に小声で伝えた。
ライトを人影のある方に向ける。
頭は青いバケツ、その下は学ラン。
奇妙な奴が立っていた。ゆっくりと片手を上げる。青いバケツ頭は、指を三本、立てていた。
「やぁ、僕はバケツ君。三つ、君たちに教えよう」
バケツから、明るい少年の声が聞こえてきた。足元を見ると白いスニーカーを履いていて、きっちりと紐が結ばれている。立てられた三本の指は真っ白だが、透けてはいない。
先輩が噂していた「バケツ君」が、こいつなのか。
「まず、一つ。僕は人間ではない。バケツ君は学校に住んでる幽霊だよ」
バケツ君は笑って言った。
「二つ、僕は君たちに危害を加えない。いい幽霊だからね」
「三つ、君たちは今、とても困難な情況にいるようだから、ぼくが助けてあげよう」
助けに来た?
友哉は混乱する。透も同じらしく、怪訝な顔でバケツ君を見ている。
青いバケツに穴はない。内部がどうなっているのか分からないが、人ではない幽霊のバケツ君は、友哉と透を知り尽くしたような口調だ。
心を読み取るのだろうか。
透を見る。彼は少し怯えながらも、興味深そうにバケツ君を見ている。
助けてくれるなら、何者だっていいんじゃないか。友哉は自身のひらめきを信じて、バケツ君を見つめた。
「……本当に、助けてくれるのか?」
「当然だよ。ぼくはバケツ君だからね。一瞬さ、君たちが目を閉じて開いているときにはもう、救いが来るよ」
バケツくんは後ろで手を組み、悠々と言った。
「見返りは? ただで助けてくれるほど、親切そうには見えないけど?」
友哉が言うと、バケツ君は笑った。
「うん。その通り。助けてあげよう、その代償は君たちのさっきの記憶だよ。甘美な初めてのキス、そのときめきを僕はもらうよ」
バケツ君は人差し指をくっつけ合い、からかってきた。
かっと友哉は顔を赤くした。透は顔を伏せる。
「み、見てたのかよ!」
「ばっちりね。助ける替わりに記憶を一つだけもらう、それが決まりなんだ。僕が欲しいのは君たちのキスの記憶。さて、どうする?」
怪しい者との取り引きに応じるか、否か。 頭が追いつかない。なぜこの霊はバケツを被っている? なぜ助けてくれる?
「……どうする?」
友哉は小声で、透に問いかけた。彼は腕を組んで悩んでいる。
「助けてくれるっていうけど、具体的にどう助けてくれる? 僕を殺そうとした義父を、亡き者にでもするのかい?」
透は鋭くバケツ君を睨んで言った。
「人の命を奪うことはしないよ。君がもっとも信頼する人が、助けに来てくれて、君の生活の安らぎが保障される」
バケツ君は透を指差した。心当たりがあるのだろうか。透は的を射たれた顔になった。
「……まさか、叔母さんが……でも、叔母さんはアメリカに……」
透が呟く。
友哉はバケツ君が、信頼できる人物に思えてきた。それ同時に、憎らしさも芽生えた。
「……透、どうする?」
「友哉、僕は彼に助けてくれるように、願いたい」
「そうか……」
友哉は落胆した。透が救済されることが一番だ。彼が暴力に怯えず、安心して生きられるむこと。失うものが惜しいのは、エゴだと友哉は自分を戒める。
「……もう一度、できるよ。何度だって、キスはできるよ」
透が耳元で囁いた。熱くなった頬に指でそっと触れて、透は微笑んだ。
「バケツ君、お願いします。僕を助けてください」
きっぱりと透が言った。
「いいよ、わかった。じゃあ、二人とも目を閉じて。三秒数えるよ。途中で目を開けてはいけないよ」
バケツ君が言って、歩み寄ってきた。適度に保たれていた距離がなくなり、得体の知れない者への恐怖を感じた。
友哉は透の手を握る。透も強く握り返してきた。
目を閉じる。
「一」
本当は、助けたかった。
「二」
無力だけど。
「三」
友哉の力で透を助けられなかった。
バケツ君にその役目を奪われた。そのことが、悔しいんだ。
でも、キスは何度だって……。
「はい、これで僕と会った記憶は消えて、君たちは救われる」
それが最後に聞いたバケツ君の言葉だった。
*
体育館倉庫で鳴ったスマートフォンのコール音は、透き通っていた。友哉は目を開けた。透がポケットからスマートフォンを出して、応答する。
「はい……もしもし、叔母さん? え? いま、今はまだ学校の中に……ちょっと待って、もっとゆっくり話して……うん、うん……うん……」
神妙な顔で、透は相槌を打っている。
「え、今から! 来るの? ちょっと、叔母さ……」
電話が切れたようだ。スマートフォンの画面を見つめ、しばらく透は茫然としていた。
手を繋いでいることに気付く。
同時に照れて、そっと離した。
鼓動が強い音を鳴らす。
告白、してしまったんだ。好きだと言って抱きしめた。
「電話、叔母さんから。……叔母さん、デザイナーでね、ニューヨークで仕事してたんだけど、いきなり帰国してきて……それで、僕の家に行って、泣いてる母さんを見つけたんだって。母さん、お義父さんが僕の首を絞めたことにショックを受けていたらしくて。それで義父からもすべて問いただし、叔母さんは僕を助けに行くからって」
説明を終えた透はしばらくぼんやりしていたが、ゆっくりと微笑んだ。
「……良かった、叔母さんは、僕の理解者だから。叔母さんが帰ってきてくれて、本当に良かった」
透の目が潤んだ。
「……うん、良かった。本当によかったよ。叔母さん、迎えに来るんだろう? 学校の前で待っていよう」
友哉は透と体育館倉庫を出て、閉められた校門からではなく裏庭のフェンスをくぐり、学校を出た。
学校の前で二人並んで、叔母さんを待つ。
雨はやんで、静かな夜になっていた。
「友哉、ありがとう。僕は本当に君が好きだよ。あの、これからもよろしく」
透がぺこりと頭を下げた。友哉はむっとした顔をして、その頭をくしゃくしゃにしてやった。
「付き合うに、決まってんじゃん」
友哉が言うと、透は明るく笑った。
真っ赤なポルシェが風を切り裂くようなスピードで走ってきて、目の前で止まった。
純白の毛皮のコートに、大きなサングラス、ショートボブカットの背の高い女が車から現れて、透をぎゅっと抱きしめた。
透は毛皮に埋もれながらも、女を抱き返した。
「透ちゃん! 今日からあんたは、家の子よ! もうあの男に、指一方たりとも触れさせないからね!」
女が叫んだ。どうやらこの人が、叔母さんらしい。予想していたより強烈で、友哉は目を丸くする。
「うん、ありがとう、叔母さん。こちら、僕の恋人の友哉くん」
「初めまして、三山友哉です」
叔母さんにぺこりと頭を下げて、透からさらりと恋人と紹介されたと気付いた。恥ずかしくて顔が上げられない、透はなんてことを言うんだ。
「どうも、透の叔母の江田葉子よ。透ちゃんと仲良くしてくれて、ありがとうね。送っていきましょうか?」
葉子がサングラスを取って、眩しい笑顔を見せた。目が透そっくりで、美人だ。
「いえ、あの、オレは自転車で来たんで……」
「そう、じゃあ気をつけて帰ってね。またうちに、いつでも遊びに来て」
葉子は透を車に乗せた。助手席からはにかんで手を振る透に、友哉も手を振り返した。
ポルシェが走り去った後、友哉は立ち尽くす。
透と付き合うことになった。
体の奥から熱が湧いてきて、喜びで叫びたい気持ちを、自転車を漕ぐことで友哉は発散した。
*
二年生に進級した。友哉と透は、同じクラスになれた。
誰もいない屋上で、友哉と透は肩を並べて蒼穹を見上げる。冬は過ぎ去り、透は叔母さんと楽しく暮らしている。
健康になった透は、男子バレー部のマネージャーを始めた。チームプレイを影で支えてくれている。
「……眠いなあ、このまま古文さぼりたい……」
「ダメだよ」
ぺし、と透に額を叩かれる。いてぇなぁ、と言うと透がくすくす笑った。太陽の下、血色の良い顔で笑ってる。
「そういえば、先輩からヘンな噂、聞いたよ。体育館倉庫には、青いバケツをかぶった幽霊が出るんだってさ」
「はぁ、なにそれ? 透って幽霊とか信じてんの?」
「いいや。……でも、少し見てみたいな。青いバケツかぶった幽霊なんて、おかしいよ」
「だな、なんでバケツなんだろう……まぁ、どうでもいいよ」
空がきれいだ。
風も気持ちいい。
こんな日は言葉よりも、すると良いことがある。
透の肩に手を置く。友哉は唇を、透の唇へと、近づけた。
終