妻の形
「あなた。朝ご飯の支度ができましたよ」
ぷにょ。
ベッドから抜け出す時の寒さを耐えれば、階下には赤々とストーブが燃える温かい部屋があり、新聞とテレビのリモコンと、作りたての朝食が並ぶ食卓が保障されている。
頭でわかってはいても、今この温かく区切られた空間を体から離すことに抵抗を感じる日は存在する。決断が延びれば延びるほど、朝食は冷めるし身支度の時間も削られる。妻の機嫌も悪くなる。
ここが一番問題となる箇所である。一つの回避として、この躊躇に妻を巻き込むという策がある。
「もう起こしにきませんからね」
ぷるるん。
妻は上手にすり抜けて、部屋を出て行ってしまった。新婚の頃には、この手が多大な功を奏し、夫婦の親密度も増したものであった。
今では目の前の快楽より将来の得失をしっかり見極めた末、哀れな夫を放置する方を選ぶ。その判断は正しい。
夫は時計を睨み、渋々起き上がる。
ぐにょ。
「おはようございます」
「おはよう」
ありがたくも、朝食はまだ温もりを保っていた。新聞を読みながらテレビを聞き、食べ物を口へ押し込む。
妻が喋るときには全てを中断しなければならない。
大抵はどうでもよい話である。しかし聴かねば様々な障害が起こり、朝食抜きの上遅刻したりして仕事に支障を来す。
本音は、食事の時間を惜しんで新聞とテレビを同時に視聴しているのに、その上くだらない人の話まで聞いていられない。
妻に言わせれば、朝起きてから出かけるまでの間しか話す時間がないということである。
それは妻が、帰宅時には既に寝入っているせいである。そのことを指摘すると、帰って来なかったことが何度かあったと切り返された。
そんなに必要ならば、メモでも残せばいいと言ったら、以前メモに用件を記したが、見てもらえなくて会社に電話する羽目に陥ったことが数度あったと返された。
メモを見ない筈はないが、会社に電話をかけられたことは記憶している。
部下の前で家庭の事情を話すのは苦痛である。妻が話したい時に耳を傾けさえすれば、結局最短時間で済む。たとえそれが貴重な時間で、非常に長く感じられたとしても、である。
「いってきます」
「いってらっしゃいませ」
扉を閉めるとほっとした。
どうした風の吹き回しか、定時より早く帰宅できることになった。幸いである。
ただ時間が半端であった。どこかへ遊びに行くには遅過ぎ、酒を飲み始めるには早過ぎた。
会社でだらだらする気は毛頭ない。家へ帰るしかない。
夫は家に電話した。家路につく時には電話をする決まりである。主に風呂の支度のためである。夕食の支度を頼むこともある。
妻は電話にでなかった。留守番電話が応答した。いつ戻るかわからぬ妻に、突然夕飯の支度を伝言で残すのも気が引けて、無言で電話を切った。
腹は空いていない。家の近くまで来て、再び電話を入れた。
やはり留守番電話が応対した。夫は手近な店で食料を買い込み、家の扉を開けた。
ぐびちょっ。
暗がりで泥が跳ねたような音がした。音の根源を素早く追った目が、わけのわからないものを捉えた。
「ただいま」
夫は玄関に突っ立ったまま、言った。誰に言うつもりもない。
家の中は真っ暗で、外から差し込む灯りと記憶で物の在処が知れるばかりである。人はいなかった。習慣的に口から出ただけである。
「お帰りなさい」
やや間があって、妻の声がした。夫はまだ玄関に立っていた。家の奥から次々と灯りが点され、妻が近付いてきた。やや表情が硬い。
「早かったのね。夕飯は食べたの」
片手で玄関の電気を点け、他方の手を差し出した。夫は首を振って荷物を預けた。受け取った妻は万事了解し、夕食の支度を始めた。
身支度を解きながら、夫はさりげなく狭い家の中を改めた。取り立てて変わった様子は見られなかった。
夫は夜中に目を覚まし、傍らに眠る妻を観察した。妻はいつものように、高鼾であった。
次いで、家の中の気配を探った。他の生き物がいる様子はない。
夜中に布団を出てまで、家の中をくまなく調べる気力は湧かなかった。
夫は翌朝、少し早めに家を出た。途中まで行って引き返し、家の扉を開けた。妻はゴミ袋片手に出てきたところであった。空いた手には、忘れ物が握られていた。
「疲れているみたいね。無理しないでね」
珍しく優しい言葉に送られ、夫は再び出勤した。
夫は一晩会社に泊まったが、どうしようもなくて次の晩には帰宅した。妻は変わらぬ態度で迎えた。
「この間、早く帰ったとき」
新聞を読むふりをしながら、傍らでテレビを見る妻に話し掛けた。妻の顔が夫に向けられた気配がした。夫は新聞に顔を埋めるようにしたままであった。
「いや。何でもない」
「あ、そう」
妻の注意がテレビに戻った。そのまま時間が過ぎた。夫は新聞を下ろし、腕を揉みほぐした。妻の顔は相変わらずテレビに向けられている。特段異常はない。
「夢なんだけど」
「うん。何?」
妻は目をテレビに釘付けにしたまま答えた。夫もテレビを見た。面白くもない番組だった。ついリモコンに手を伸ばし、チャンネルを次々に替える。どこも同じようにつまらなかった。妻が広げっぱなしの新聞をきちんと折り畳んで片付けた。
「どんな夢?」
妻が正面から夫の顔を見た。夫は硬直した。妻はすぐに目を逸らし、折り畳んだばかりの新聞を広げて見入った。夫はリモコンを下ろし、体のすぐ脇に置いた。
「へんな夢」
「ふうん。そう」
妻はそれきり口を噤んだ。テレビはつまらない。新聞は妻が占有している。マンガや雑誌は手の届かない場所にある。夫は席を立つことができなかった。
「家に帰ったら誰もいなくて」
妻は新聞に目を落としたままである。夫はリモコンを握り締めた。
「真っ暗な中に、ぶよぶよしたものがいて」
「うん」
妻は生返事をした。夫は唾を呑み下した。
「電気が点いたら、それがいなくなって代わりに」
くにょ。
妻は何の反応も示さなかった。新聞を読み続ける横顔が、僅かにぶれた。しかし、すぐに元通りになった。
「お前が出てきた」
「ふうん。それで?」
妻は新聞を読み終え、テレビに目を向けた。声に緊張感はない。夫は手に汗を感じ、リモコンを離した。
「終わり」
「あ、そうなんだ」
暫く夫婦は無言でテレビを眺めた。突然、妻が夫に抱きついた。
「わたしはね、あなたがいるから、人の形を保っていられるのよ」
「えっ」
咄嗟のことで逃げるに逃げられず、夫はその場で身をすくめた。妻は夫の反応に頓着しなかった。
「つまり、あなたのお陰で生きているんです。ありがとう」
「こ、こちらこそ、ありがと」
ぶるん。
胴体にまとわりつく妻の体が妙に柔らかい感触を帯びてきたような気がしたものの、夫は頑としてテレビから目を離さなかった。
妻がどんな形をしていようと、やることさえきちんとしてくれれば、文句を言う筋合いはない。もしかしたら、妻だけでなく、世界中の女という女の正体も同じかもしれないし、知らないのは自分だけかもしれないから。