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桜さん、顔を上げて。  作者: 虹色
第一章 姿勢を正して、呼吸を整えて
7/46

7 ---- 桜


◇◇◇ 桜 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇



『今日は桜の元気な顔を見られて嬉しかったよー』


稽古のあと、翡翠からメッセージが届いていることに気付いた。キラキラしたスタンプが添えられて、『10年ぶりくらいでクロにも会えたし』と続いている。


翡翠の笑顔が目に見えるようだ。


『わたしも会えてよかった! それに』


そこまで打って、手を止めた。家に着いてから落ち着いて送った方がいい。


一人になって夜道を歩いていると、午後の出来事が次々に浮かんでくる。初めての武道具店、コンビニから出てきた翡翠の姿、翡翠と風音さんが驚いて見つめ合う姿、そして……。


「ふ」


マッチングアプリだなんて、思わず笑いが漏れてしまう。たしかに風音さんとわたしの接点を推理するのは特A級に難しいだろうな。


コーヒーショップに向かいながら説明を聞いた翡翠は大袈裟に残念がっていた。


「最近のマッチングアプリの性能ってすごい! って思ったのに。この組み合わせなら間違いないって」


もちろんそんな言葉、冗談だと分かっている。風音さんも気にしていないようでよかった。ただ……、わたしは恋愛系の冗談を向けられるのは苦手だ。正しい対処法が分からないから。


否定するのも、肯定で受けるのも、相手に失礼のような気がする。そもそも冗談でもわたしなんかと組み合わされたことが申し訳ない。面白味もなければ美人でもないわたしなんかと……。


翡翠だって、わたしが苦手だってこと、ほんとうは分かってる。だから普段はそういう冗談は言わない。今日は最初の勘違いを笑い飛ばすためにあんな言い方をしただけ。それに、風音さんと久しぶりに会ってはしゃいでいたのかも。


翡翠と風音さん……か。


風音さんが翡翠の理解者でよかった。


ふたりが知り合いだって分かったとき、あそこで翡翠を呼び止めてはいけなかったかと、一瞬、血の気が引いた。ふたりの間に気まずそうな様子がなくてどれほどほっとしたか。


気まずいどころか、とても楽しそうだった。ブランクなんかないみたいに。ほんとうに良いお友達なのね。


でも、これからは気をつけよう。わたしのうっかりで翡翠が悲しい思いをすることがないように。





家に着いて、のんびり夕食を食べながらメッセージの返信をした。以前はできなかったことの一つ。


『わたしも! それに、風音さんと知り合いだなんてびっくりした』


そうだ。せっかくだから、今日の稽古のことも書こう。


『買ったばかりの袴を稽古で履こうとしたら、襞が崩れないように縫い留めてあったの。はさみがないから力づくで糸をちぎったんだけど、なかなか切れなくて焦っちゃった』


稽古の時間が近付くし、息切れするほど引っ張ったよね。わたしが非力なのか、あの糸が丈夫なのか……。


『ようやく着替えて、ほかの人にその話をしたら、『誰かに言えば、刀で切ってもらえたのに』って。何人かは真剣も持ってるからって』


一瞬、なるほどと思ったけれど。


『でも、糸なんか切っていいの?! って思わない? そしたらね、切れ味を試すチャンスはなかなかないから、ちょっとしたものでも切りたいんだよって』


あれを聞いてから、周りのひとたちが少し身近に感じられるようになった。今までは宗家や水萌さんたちが雲の上の存在に思えて、自分がそこに混じっていてもいいのか迷いがあったけれど、“ああ、ここにいてもいいんだ”って……。


真剣での試し斬りを、いつかわたしもやらせてあげると言われた。


神社の演武では畳表を巻いたものを斬るのを披露するそうだ。稽古では年に一、二回。準備と片付けに手間がかかるから、そう度々はできないらしい。


まあ、今のわたしのへろへろな振りでは、畳表ロールに刃が食い込めば御の字といったところだろう。「力で振るんじゃないんです」って言われているけれど、きちんと理解できていない……。


でも。


できたら格好いいよね。


「よし、がんばろ」


亀の歩みでも、続けていたら、いつかはどうにかなるかも知れない。現に今日だって、新しいことを教えてもらえるようになったし。


「そうだ」


摺り足の練習なら家でもできそう。時間があるときにちょっとずつやってみよう。


――あ。


お母さん……。


思い出した途端に重苦しさが胸に広がる。


不安。そして後ろめたさ。振り払っても振り払っても、繰り返し訪れる。弱気になると、大きな波になってわたしを飲み込む。


笑っていていいの? 楽しんでいていいの? それは正しいことなの? ――何百回も浮かぶ問い。


そのたびに、自分の幸せを求めるのは正しいと自分に言い聞かせて。


わたしにも幸せに生きる権利があるはず。それを求めなければ、何のために生きているのか分からなくなってしまう。けれど……。


たぶん、この気持ちから解放されることはないのだろう。だからどうにか折り合いをつけて、できる範囲で――わたしに見合った幸せを見つけていくしかない。


――いいえ。


やっぱり幸せになる資格なんかないのかも知れない。わたしには……。


もう十分に恵まれている。そうでしょう?


収入があって、住む場所があって、友達がいる。わたしを心配してくれる妹もいる。何も困っていない。そして、自由がある。


自由。


それがわたしを悩ませる。願ってやまなかった自由が。


わたしの自由。わたしの人生。楽しみと幸せ。


わたしの……。




◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇








読みに来てくださったみなさま、ありがとうございます。


第一章はここまでです。

次から第二章に入ります。


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