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「面白かったです」
店を出ると、桜さんは満足げににっこりした。
「あんなに何でも揃っているなんて。かわいい手拭いも買えたし」
「手拭い?」
「はい。哲也さんが懐から手拭いを出して汗を拭いているのを見て『あれだ!』って思っていたんです。わたし、汗っかきなので、これから夏に向けて、ぜひあれをやりたいと」
「そうでしたか」
合理的で便利だけれど、お手本にしたのが“おじさん”だというのがなんとなく可笑しい。
竹見台駅へと並んで歩く足取りは来たときよりものんびり。買い物で緊張が解けて、お互いの距離が縮んだような気がする。……と、思ったのに。
「お時間を割いていただいて、ありがとうございました」
丁寧に頭を下げられてしまい、落胆した。頭に浮かんできたのは『他人行儀』という言葉。
「いいんですよ。僕も買うものがあったんですから」
「でも、わたしがいなければ、もっと短い時間で済みましたよね? 申し訳なかったです」
確かにひとりなら時間はかからなかったはずだけれど……。
さっぱりした顔で当然のように謝られると、前と同じように透明な壁を感じてしまう。少しは仲良くなれたと思ったのは俺の勝手な思い込み?
――……違う。
これは桜さんが人見知りのせいだ。いや、人見知りというより、自分が単なる余計者だと思っているのでは? だからこんなふうに謝罪の言葉を。それなら。
「謝る必要なんてありません」
ここはきちんと否定するべきだ。
「僕も面白かったですよ。新鮮な反応が見られて」
「ん?」
桜さんが目をぱちぱちさせた。
「……わたしですか?」
確かめるような、そして疑わし気なその表情。ひたすら礼儀正しかった彼女にそんな顔をさせたなんてすごいじゃないか!
「はい。思いがけないものに驚いたり面白がったりするので面白かったです」
ついでに彼女の“目立たないように”という理屈も。
「それは……」
数秒の間のあと、彼女はやっと力を抜いて笑った。
「じゃあ、良かったです。楽しんでいただけて」
「はい。また行きましょう」
――あ。
しまった! これは言い過ぎだったかも。「また行きましょう」なんて、人見知りの桜さんには馴れ馴れしいヤツだと敬遠されてしまいそうだ。
でも……。
桜さんは気付いていない? もうこちらを見ていない。
つまり、たいした失言じゃなかったということだ。俺も気にし過ぎだな……。
「続けようと思ってくれてよかったです」
気を取り直して話題を変えることにした。
「体験はときどき来るんですけど、皆さん、なかなか続かなくて」
桜さんが「そうなんですか?」と不思議そうな顔をした。彼女にとっては不思議なのだろうけれど、今までの入門希望者を思い出すと苦笑いが出てしまう。
「秋に神社で演武をするので、それを見てやってみたいと思うひともいるんです。あと一応、公式サイトを作ってあるので……。でも、一、二回で終わりのことが多いです」
「どうしてでしょう?」
「はっきりとは聞いていませんが」
まあ、想像はつく。
「地味なんだと思います。時代劇の殺陣とは違って形を覚える稽古なので」
「でも、殺陣だって形があっての殺陣ですよね?」
「ええ。でも、殺陣を想像して来たら、うちだとだいぶ違いますよね。最初は抜刀納刀からですし」
形と言っても、必ず仮想の敵を相手にしておこなう。また、木刀を使って打ち合うものもある。どちらも真剣におこなうと息をのむような緊迫感が生まれる。
ただし、凄みや美しさは技と心を磨いていく中で生まれる――と、俺は理解している――ものなので、そこに至るまでの道のりは長い。体験に来た人が初めての居合刀の扱いに苦労しながらそのことに気付いてやめてしまうのも仕方ないのだろう。
「わたしには抜刀と納刀だけでも難しいです。素振りも足捌きもちゃんとできないし、殺陣なんて……人に見せられるようになんて、永遠にならない気がします」
桜さんがため息をついた。
「桜さんはまだ一か月じゃないですか。続けていけば必ず上達しますから大丈夫ですよ。そうそう、先週はだいぶ抜刀できるようになっていましたよね? そろそろ抜刀術も始まると思いますよ」
抜刀術は立っている状態で攻撃を仕掛けてきた相手を斬り伏せることを想定して動きが組まれている技で、全部で七本ある。演武で披露することも多い。
「わたしがですか?! もう?! ……大丈夫でしょうか?」
「大丈夫ですよ。もちろん最初は簡単ではないですけど、抜刀術も刀と体の使い方の基本練習になっているんです。それに僕だってまだ宗家に直されることがありますよ」
「風音さんでも完璧じゃないってことですか? あんなに綺麗なのに? 奥が深いんですねぇ。しっかりやらないと……」
桜さんのこういうところが良いところだと思う。おとなしいひとだけれど、今のところ「無理です」という言葉を聞いていない。地道で前向きな性格は武道に向いているような気がする。……まあ、向いているかどうかよりも、やりたいかどうか、なのかな。
そう言えば。
「母が桜さんを誘ったときのことを雪香から聞きましたよ。人違いから突然勧誘したって。いきなりでびっくりしたでしょう? うちの母、思い込むと一直線に進んでいく性格なので、家族でも思考が追い付かないことがあるんです」
「そうですね……」
視線を下げる桜さん。その日のことを思い出しているのだろうか。……と、にっこり笑ってこちらを見上げた。
「わたし、探していたんです」
何をですか?――という言葉が舌の上で止まってしまった。桜さんの笑顔が何かを隠しているようで――、同時に何かを伝えているようで。
探していた? 何を?
「習い事を……しようかと思って」
すっと視線を伏せ、つぶやくように彼女は言った。次に向けられた微笑みは静かで穏やかで……。
「あの日わたし、掲示板の前にいたんです。スポーツセンターの。どれなら自分にできるんだろうって思っていたら、ちょうど水萌さんと雪香さんが出ていらして」
遠くに向けた瞳がどことなく淋しげに見えるのは気のせいだろうか。憧れとあきらめが入り混じっているように感じるのは想像過剰だろうか。
「話しかけていただけてとってもラッキーでした。だって、黒川流って『スポセン便り』には載っていませんよね?」
「ええ。団体利用に申し込んでいるだけで、教室を開いているわけじゃないですから。じゃあ……母の早とちりも役に立つことがあるんですね」
「ええ、もちろん! わたしにとって、今までで一番のめぐり合わせです」
大切なものを確かめるように、桜さんは買った荷物に目をやって微笑んだ。その様子は「今までで一番のめぐり合わせ」が真実だと語っているように見える。
うちへの入門は、彼女にとってそれほど意味があるということ……?
「そう思っていただけるのは光栄です」
なんだか自信が湧いてくる。たった一人の言葉だけで。
彼女の思いが失望に変わらないように、俺もより一層励もう。先輩としてだらしない姿は見せられない。
「稽古までもう少し時間がありますけど……、桜さんは一旦家に帰りますか? スポセンの近くなんですよね?」
「いえ、準備はしてきたので、あとは今日買ったものを袋から出せば――あれ?」
桜さんが前方の何かに気付いた。
「翡翠?」
桜さんの声に反応してこちらを向いたのは、コンビニから出てきた長身の美女。ジーンズにロングカーディガンというラフな服装でもスタイルの良さがはっきり分かる。
「桜!」
驚きと満面の笑みを浮かべて小走りに近付いて来る。あれは……。
「職場の友だちです。田名部翡翠さん。この駅が最寄りだって聞いてたけど、会えるとは思わなかった」
田名部翡翠。やっぱりそうだ。桜さんと……友達?
翡翠が俺を認め、数歩手前で足を止めた。ゆるくウェーブのかかった髪が肩で揺れる。顔を合わせるのは十年ぶりくらいか?
「クロ……?」
驚いて見つめ合う俺と翡翠を、桜さんが目を見開いて見比べている。と、翡翠が破顔した。
「やっぱりクロだよね? わあ、何年ぶり? え、やだ、どうしてふたりが一緒にいるの?」
最後の距離を詰めながら意味ありげに声をひそめた。
「……もしかして、マッチングアプリ?」
「ちげーよ!」
思わず言い返した俺を笑う翡翠。隣で桜さんがほっとしたように微笑んだ。