4
「こんにちは」
次の日曜日の午後、竹見台駅で待ち合わせた桜さんは水色のシャツワンピースを着ていた。
スポセンの近くに住んでいる彼女は稽古には黒のトレパンとTシャツでやって来て、その上に黒い袴を着けている。色のついた服を着ているのを見るのは初めてだ。
いつも黒づくめの彼女が明るい色のものを着ているというのはとても新鮮で、軽い気恥ずかしさがこみ上げてくる。と同時にポニーテールに軽快なワンピースという気取らない組み合わせにほっとしている部分もある。
「それほど小さい店ではないんですけど、ビルの二階に入っていて見付けにくいんです」
歩き出しながら説明する俺に、桜さんが半歩後ろから「そうなんですね」と相槌を打つ。
駅の階段を降り、人波を縫ってバスターミナルを抜け、昔ながらの駅前商店街に出る。そこで隣に桜さんがいないことに気付いた。あわてて振り向くと、松葉杖の女性に道を譲っていたようだった。
「すみません、遅くて!」
小走りに追いついて、彼女が謝る。
「いえ、そんなことありません。こちらこそすみません」
小柄な桜さんの歩くペースを考えていなかった上に、周囲への気配りもできていなかった。反省しないと。
「武道具屋さんって初めてです。かなり楽しみです」
少し速度を落として歩き出すと、今度はちゃんと隣に並んだ桜さんが言った。稽古とは違う軽やかな口調に思わず彼女の顔を見ると、ほんとうに嬉しそうににこにこしている。必要なものを買いに行くだけのことでも桜さんにはちょっとした冒険なのかも。だとすると、俺はガイドとして彼女を楽しませなくては。
「めっちゃテキパキしたおばさんがいるんですよ。俺が中学のころから、いつでも元気いっぱいで」
「え……、もしかして、ぐずぐずしてると怒られちゃったりしますか?」
「あはは、そんなことはないです。親切ですから大丈夫ですよ」
コンビニの角を曲がり路地へ。数軒先の接骨院の横にビルの入り口がある。
「ここです」
奥のエレベーターと階段の間に掲げてある「2F 武道具全般 心成堂」という看板――というよりも表札――は相変わらず地味だ。コンクリートに囲まれた薄暗いスペースはデート向きではないな。
――ま、デートじゃないし。
看板を見つめる桜さんは無言。でも、目をぱっちり開けて、口角が上がっている。その生き生きとした横顔に瞬間、見惚れた。
「階段でいいですか?」
「はい」
うなずく満足気な笑顔。なんとなく照れくさいのは何故?
狭い階段を先に立って上る。二階の折り返しのすぐ横に店名の入ったガラス扉があり、中に並んでいる竹刀や剣道の防具が見える。扉を開けるとレトロな喫茶店のような「カランカラン」という音が来店を知らせた。
「……いらっしゃい」
迎えてくれたのは半白髪のおじさんだ。右手のカウンターの中にある畳敷きの場所で剣道の防具の修理をしている。後ろから遠慮がちについてくる桜さんが「防具って修理して使うものなんですね……」とこっそり言った。
奥からおばさんが出てきて「あら、久しぶり。ええと……」と言いながらサンダルに足を入れる。
「黒川流剣術の風音です」
「ああ、そうそう、黒川さんね! 風音くんね! まあまあ、すっかり社会人ね!」
俺が社会人になってから何年も経つのだけれど、いつもこんな調子なのだ。
「新しい人が入ったんで、袴と上衣が欲しいんですけど」
「はいはい。ええと、お宅は……居合用だっけ?」
「そうです」
「着る物だけ? 居合刀は?」
「居合刀は今日はいいです」
「そう。身長は何センチ?」
俺とおばさんの視線が同時に桜さんに向く。
「あ、百五十六センチです」
さっと背すじを伸ばして彼女が答えた。
おばさんが「大人のサイズでギリギリかなー」と、おじさんの後ろの棚に向かう。それを見ながら桜さんが小声で「居合用っていうのがあるんですね。すみません、いまさらで」と恐縮した様子。
「そうですね。まあ、剣道用のを持っているひとはそのまま着てもらってて構わないんですけど、うちは居合を中心にした総合的な武術なので一応――」
「ねえ?! 上衣の色は? 黒でいいの? 白?」
「え、ええと、く、黒で! 黒でお願いします!」
気をつけをしながら桜さんが答えた。
「白でもいいんですよ? これから夏だし」
そっと伝えると、彼女は「いいえ、そんな!」と目をまん丸にした。
「白だなんて恐れ多いです。初心者ですから目立たないように黒で」
「そうですか?」
「はい」
大真面目にうなずく彼女。まるで部活の新入生みたいな理屈だ。まあ、それで本人が落ち着くなら構わないけれど。
「おばさん、帯はどこでしたっけ?」
「そっちの柔道着の後ろー」
「ありがとうございます」
桜さんを促して奥へ。剣道、柔道のほかに空手、合気道、テコンドーなど、さまざまな道着と道具が並んでいるのを彼女がものめずらしそうに見回している。
「こんなにいろいろあるんですねぇ。見ているだけで楽しいです。あ! あの防具、百万円超えてますよ! 床の間に飾る用なんでしょうか?」
「え?」
床の間に飾るのは鎧だ。剣道の防具じゃない。たしかに雰囲気は似てるけど。
「実際に使う人がいるんですよ。素材や職人さんの技で値段が変わりますよね」
「そうなんですか……。そんな防具を相手が使ってるって分かったら、傷付けるのが怖くて打ち込めませんね?」
「まあ……、たぶん、使うのは上級者でしょうから、そもそも簡単には打たれないのではないでしょうか」
「ああ、なるほど」
なんとなく、桜さんの頭に極端なイメージを植え付けてしまったような気がする……。
「ん、これ十手ですよね? 十手も売ってるなんて」
「ああ、十手術というのもあるんですよ。うちではやりませんけど」
「ふうん……。あ、もしかしたら警察ですか?」
それは江戸時代だ。
「今の警察は十手じゃなくて警棒ですね」
「ですよね。ふふふ」
くすくす笑う桜さん。もしかしたら冗談を言われたのか?
「木刀もこんなにいろいろ……あ! この木刀、使ってますよね?」
壁に掛けてある木刀見本の一番下にあるのは見るからに重量級の一本。持ったとき、俺でも指が届かないほど太く、重さは一、五キロを超える物もある。
「表木刀ですね。うちは天然理心流から分かれているので表木刀も使いますね。桜さんもそのうちに」
「はい」
すごく嬉しそうだ。なんだかまぶしいくらいに。
できれば桜さんが初めて表木刀を持つところには居合わせたい。その重さで最初は構えるだけでも大変な表木刀にいったいどんな反応を見せるのか。なんとなくだけど、彼女は何をやっても弱音を吐かないような気がする。
「あ、居合刀。入門者用っていうのがあるんですね」
木刀の奥に居合刀見本が三本。入門者用は全体的に黒い拵えで三万円~四万円と手書きの札がついている。
「うちではお古の貸し出し用があるので、購入は本人次第ってことにしています。居合刀って刀身や拵えがカスタマイズできるんです。ある程度上達してから自分の好みで買う方が選ぶ楽しみがありますし、せっかく買っても入門したてのときは鞘削りますから」
「あ! わたし削ってる気がます。抜刀と納刀のとき」
「でしょ?」
抜き差しが上手くできないと鞘の内側に切っ先が当たって少しずつ削り取ってしまう。それが続くと鞘が割れてしまうこともあるのだ。
「清都くんたちはまだ貸し出し用を使っているし、翔子さんが買ったのは三年目くらいだったかなあ。翔子さんのは沖田総司モデルですよ」
「そんなデザインもあるんですか?!」
「ええ。新選組とか坂本龍馬のは人気があるみたいです。僕は中学で始めて、大学に入ってからバイト代で買ったので、五年くらいは古いものを使っていました」
「そうなんですか……。それなら遠慮なく、もうしばらくお借りすることにします」
「どうぞどうぞ」
貸し出し用といってもいい加減なものではなく、歴代の宗家や門人たちが使っていたものだ。鯉口が緩いのも刀の扱いを学ぶ役には立っていると思う。
「あ、帯はこれですね?」
「そうです。やっぱり黒ですか?」
帯の棚にもいろいろ並んでいる。袴を着ける前に巻く帯は袴の脇から見えるので、黒い帯以外にも角帯という色柄のあるものを選ぶ人もいるけれど――。
「はい、黒で」
「ですよね」
一本手に取った桜さんが「あれ? 硬い?」とつぶやく。貸し出し用は年季が入っていてよれよれなのだ。
「これが柔らかくなるまで続けたいです」
意外なところで決意表明が出た。
「頑張ってください」
「はい」
この大真面目なところが今日は面白い。でも、長く続けたいという決意は大歓迎。
「あったー?」というおばさんの声に「ありましたー」と答える俺たちの声が重なった。ちらりと視線を合わせて照れ笑い。
カウンターに戻るとおばさんが袴の見本を手に、桜さんに当ててみるように言った。「ネームはどうする? 無料で入るけど?」と尋ねられた桜さんは、一瞬も迷わずに断った。
「入れないんですか?」
なんとなく桜さんらしいと思いつつ、一応訊いてみる。
ネームは袴の右腰に入れてくれるのだが、これもうちでは自由だ。翔子さんは入れていないし、莉眞さんは紫色で名前と花のマークが入っている。主流は流派名とフルネーム。
たまに、体験の初回にネーム入りで新品一式そろえてくる人がいる。そんなに気合が入っているのに、どういうわけか、その人たちはみんな長くは続かなかった。
……という背景のある俺の質問に、桜さんは信じられないというような顔をした。
「まだ全然ダメなのに、名前を主張するなんて恐れ多いです!」
ほぼ想像どおりの答え。持ち主が分かるようにするというネーム本来の目的には気付いていないようだ。まあ、うちの人数では行方不明になることもない。
足袋を追加し、取り扱いの説明が始まったところで自分の下緒を見に行く。今までは紺にしていたけれど、今回は黒もいいかも。