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桜さん、顔を上げて。  作者: 虹色
第一章 姿勢を正して、呼吸を整えて
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「構え」


凛と響く掛け声に、並んだ門人たちが抜刀して正眼に構えた。今日の進行役は哲ちゃんだ。


壁の鏡に向かって前列に五人、後ろに三人。初心者だからと遠慮して後ろに並ぼうとした桜さんは、できないからこそ目立つ場所にと言われて前列の一番右、宗家が座る目の前にいる。後列にいる俺の視界の端で、正しい構えを模索する気配。


――頑張れ。


最初の抜刀納刀で宗家から桜さんへの指導がちょこちょこと入り、その度に中断する流れに桜さんは恐縮していた。


けれど、それらの指導は、実は全員に対しておこなわれているものだ。年数が長くても、上手くできていなかったり忘れていたり、勘違いしていたりすることがあるから、誰かが言われているのを聞きながら、それぞれに自分で確認している。だから、桜さんは自分のせいで稽古が中断したなんて気にする必要はない。


「前進面二十本。始め!」

「一、二」


上段から面を狙っての素振り。打ちながら一歩出て、正眼に戻しながら一歩下がる。


数える声が一番大きいのは高校生の清都くんだ。そこに低く力強い哲ちゃんの声、女声ながら腹に響く雪香の声がみんなを引っ張る。


「五、六」


視界の隅に不安定な動き。桜さんだ。なんとなくバタバタ、ふらふらしている。足運びがまだ上手くないからだ。前進と後退を周囲に合わせるのがやっとで、姿勢や構えに気を配る余裕はなさそう。


宗家が桜さんに声をかけた。上段の位置を直し、踏み込みと振りのタイミングを教えているようだ。俺たちの二十本が終わると同時に桜さんが「ありがとうございます」と、宗家に頭を下げた。


インターバルで動きを確認する桜さん。素振りが終わったら、今日は誰が彼女に付くのだろう?


「構え」


哲ちゃんの声に体が反応する。足元、姿勢、握り、視線。


「左右の袈裟(けさ)斬り二十本。始め」


上段に振りかぶり、右足で踏み込みながら右上から左下へ袈裟に斬る。


「一」


刀身がびゅっとうなる。


その刀を振りかぶりながら後ろ足を前足に揃え、今度は右足を後ろに引きながら左上から右下への斬る。


「二」


再びのびゅっという音が俺の中の余計なものを消し去ってゆく。


――ん?


「……三」


今度はいい音がしなかった。気が散って刃筋(はすじ)が揺らいだからだ。


――あれじゃあ、足を斬っちゃうな。


居合刀だからもちろん斬れないけれど。引く足と斬る方向が逆だ。


「四」


宗家は莉眞さんを直している。母さんは清都くんを見ている。桜さんの隣の翔子さんは、まだ教えるほど自信がないようだった。


――となると、俺かな。


桜さんは自分が違っていることに気付いたらしい。動きを止めて、隣の翔子さんを見た。そこで近付く俺に気付いて、バツの悪そうな顔で頭を下げる。


「すみません」

「いいえ。これ、最初は混乱しやすいんですよ」


言いながら空いている隣に並ぶ。


「振り下ろす方の足を引くんです。ゆっくりやるので、鏡を見て一緒に」

「はい」


すぐに表情を引き締め、鏡に向かって姿勢を正す桜さん。


「一本目は前に出ます。正眼から上段。刀を右に傾けて、右足を出しながら左に向かって振り下ろす」


桜さんが俺の動きに合わせ、「右足」とつぶやきながら刀をゆっくり下ろす。


「そうです。刀を振り下ろした側の足が後ろにある状態、これが袈裟斬りの基本になります」

「はい」


まあ、指摘すべき点はほかにたくさんあるけれど、今は動きだけ。


「二本目は逆の足です。まずは下がっている左足を右足のところまで引き寄せながら上段」

「左足……」

「次は刀を左に傾けて、右足を下げながら右下に向かって斬る」

「右足を下げながら……こう」

「そうです」


ここまではできた。


「今度はさっきの逆です。後ろにある右足を左足に揃えながら上段。左足を引きながら左下へ斬る」

「こう」

「そうです」


よしよし。動きが少しスムーズになった。


「それを繰り返します。こう」


普段よりゆっくり続けてみせる。向こう側では二十本が終わってインターバルに入っている。


桜さんの視線が鏡と俺の足、手元、刀、と行き来する。と、一つうなずいて構え、鏡に向かってタイミングを合わせて振り始めた。


右、左、右、左。


リズムが良くなってきたところで、ふと眉を寄せた彼女が姿勢をまっすぐに直した。自分が前屈みになっていることに気付いて修正したのだ。


嬉しくなるのはこういうところだ。


素振りを止めてうなずくと、刀を下ろした彼女が満足気ににっこりした。


「ありがとうございます」


できるようになって嬉しい、と、表情が伝えてくる。言葉には出さないけれど、彼女の中に沸き立つ喜びが――。


「構え」


哲ちゃんの声。桜さんが表情を引き締め、鏡に向き直る。俺も列に戻らないと。


あとで運足も見てあげよう。上段も、素振りも。少しずつでもできるようになると誰でも嬉しいし、さらなるやる気にもつながる。あんなふうに笑うなら……。


――いや、笑顔は関係ないよな。


とは言え、人見知りらしい桜さんも、少しは俺に慣れてきたのかも知れない。





……と思ったけれど、今日は桜さんに付くのは哲ちゃんのようだ。宗家の次に門人歴の長い哲ちゃんが教えるなら、俺の出る幕はない。


休憩時間にも、なんとなく声をかけそびれている。話そうと思うと逆に話題が浮かばず、清都くんと刀の話で時間を潰したりして。


「風音。心成堂(しんせいどう)の最寄り駅ってどこだっけ?」


ふいに声を掛けてきたのは母だ。


「心成堂? 竹見台だけど……、行くならついでに俺も――」

「あ、違う違う、あたしじゃなくて、桜さんがね」


話しながらどんどん歩いて行ってしまう。相変わらずせっかちだ。話が中途半端な気がして後を追った俺に「あんた、買うものあるの?」と質問が来た。「下緒(さげお)が切れそうで」と答えたけれど、聞いているのかいないのか、振り向きもしない。


近付く俺たちに気付いて、ペットボトルを手にしていた桜さんが居住まいを正した。母が「武道具屋さんの場所なんだけど」と間髪入れず声をかけると、桜さんは肩の力を抜いて「はい」と微笑んだ。


「竹見台の駅からすぐなんだけど、あの辺ごちゃごちゃしててちょっと分かりにくいのよ。風音が行く予定があるそうだから、都合が合うなら連れてってもらうといいかも」

「え」

「あ……」


七、八歩の移動中に、母の頭の中でそのような計画が出来上がったらしい。


俺に向けられた桜さんの顔には軽い驚きと困惑。見返す俺もたぶん同じ表情を見せてしまったかも知れない。けれど。


「じゃあ、来週の日曜はどうですか? 稽古の前に」


人見知りらしい桜さんにはこちらが迷う様子を見せない方がいい、と、咄嗟に思った。当たり前のように振る舞わないと、理由をつけて遠慮されてしまう。俺に慣れてもらう機会を逃したくない。


「桜さんは何を買うんですか?」

「え、と……、道着、です」


覚束なげに答えた桜さんの横から母が「刀はまだいいわ」と付け足す。なるほど。


「上衣と袴、それから帯、必要なら足袋と膝当て、という感じですね」


俺の言葉を聞いて、桜さんは遠慮がちに俺を見上げた。


「お忙しければ、地図で検索しながらどうにかして行きますから」


やっぱり。


「ああ、大丈夫です。僕も買うものがあるので」


ここまで言って、ようやく桜さんも心を決めてくれたらしい。一つ息をついて微笑んだ。


「ありがとうございます。一緒に行って教えていただけると助かります」

「じゃあ、連絡先を交換しておきましょう」


次の日曜日。桜さんは俺を気に入ってくれるだろうか? ……もちろんそれは、同門の仲間として、という意味だ。






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