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桜さん、顔を上げて。  作者: 虹色
第一章 姿勢を正して、呼吸を整えて
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――ほんとうに真面目なひとだったなあ。


実家で庭に面した廊下に座り、ぼんやり夜空を見上げる。


大都市の一つである葉空(はそら)市だけど、我が家のあたりは農地が多く、かなり静かだ。街灯も少なめなので、星がよく見える。ここで夜空を見上げていると、降ってくる星の光が俺の中も外も清めてくれるような気がする。


今、頭に浮かぶのは今日の稽古の桜さんだ。


三時間の稽古の間、桜さんは常に真面目で礼儀正しかった。俺が離れている時間も黙々と抜刀や摺り足の練習をし、誰かに教えられるとうなずきながら真剣に聞いていた。


そもそも口数は多くないのかも知れない。けれど決して愛想が悪いわけではなく、休憩時間にはうちの母や他の門人たちと一緒ににこにこしていた。


でも。


何というか……見えない壁があるような気がする。


例えて言えば、そう、銀行の窓口のひとみたい。


礼儀正しく真摯な態度で接してくれる。けれど、用件以上に立ち入ることができない。そんな感じだ。


まあ、上達したいという思いさえあれば、べつに仲良くなる必要はない。とは言え、あまり遠慮していては上達の妨げになる。うちのように少人数の団体ではなおさら。


――なにしろ全部で八人だもんな……。


いや、桜さんが入ったから九人か。ただし、そのうち五人は身内だ。


黒川流剣術は天然理心流の流れを汲む古武道の流派の一つ。創始者は黒川東玄(とうげん)。現在の宗家(そうけ)は第九代で黒川峯之(みねゆき)、俺の祖父だ。稽古の場では「宗家」と呼ばれる。


下級武士だったご先祖様はもとは天然理心流の門人で、新選組局長となった近藤勇の先代・周助と共に学んだという。役目で江戸を離れてからも独自の研究を重ね、天然理心流をベースとした黒川流剣術を完成させた。東玄が書き残した文書が今も祖父の手元にある。


新選組の活躍と共に世に広く知られるようになった天然理心流とは違い、黒川流は細々と黒川家に受け継がれてきた。べつに門外不出というわけではなく、単に道場を開いていなかったので身内にしか伝わらなかったという次第。


明治維新で武士の身分が無くなったとき、黒川家が選んだ職業は植木屋だった。東京から少し離れた、当時はまだ鄙びたこの地に土地を買い求め、植木の販売と手入れの仕事を始めた。どうやら半分は趣味だったらしい。でも、そこから代々、うちは植木屋だ。


祖父も植木職人として生計を立ててきた。俺の父親は教師になったが、叔父の哲ちゃんが祖父の跡取りとして植木職人になっている。俺は大学で設計と造園を学び、現在は建築関係の企業に勤めるという形でつながりのある仕事をしている。


――そう言えば。


祖父のお得意様の一軒が桜さんの隣の家だと言っていたっけ。


かれこれ三十年の付き合いのあるお宅で、隣に桜さん一家の家が建ったときのことも祖父は記憶にあるという。植木の剪定は隣家に掃除に入ることもあり、桜さんとも何度か言葉を交わしたこともあったそうだ。


でも、彼女の入門のきっかけは祖父ではない。うちの母と妹だ。宗家が植木屋のおじさんだと知ったのは初回の稽古の時で、たいそう驚いていた。


――驚いたと言えば。


母さんの勢いには驚いただろうな。おとなしそうな桜さんのことだから。


三週間前の日曜日、稽古を終えてスポーツセンターを出た母と妹は、夜の闇の中で自分たちを見つめている桜さんに気付いた。そそっかしい母は彼女をその日の体験予定をすっぽかした女性が謝りに来たのだと思い込み、近付いて話しかけた。誤解はすぐに解け、そのとき、桜さんが母たちが何を持っているのか――刀用の黒いバッグのことだった――尋ねたそうだ。そこで母が勧誘し、翌週の体験へ、そして入門へとつながった。


わざわざ申し込んでおきながら連絡なく来ないひとがいるかと思えば、桜さんのように偶然の出会いで始めるひともいる。世の中って実にいろいろだ。


でも……。


桜さんは“当たり”な気がする。長い付き合いになりそうな。


彼女はあまり積極的なタイプではない。素直だけれど、教えられることを受け入れているだけ。受け身の態度だ。けれど、観察することや注意深さは優れている。並んで鏡に向かっていたときによく分かった。


古武道は、まずは真似ることから始まる。真似るためには見ること、そして自分との違いに気付くことが必要だ。桜さんにはそういう目がある。


そして何より真面目だ。三時間の稽古中、まったく気持ちをそらさなかった。


あれなら必ず上達する。


風音(かざね)、そろそろ送ってくからそこの雨戸閉めて」

「ん、わかった」


俺は通勤しやすい場所に部屋を借りている。日曜の稽古のあとは、何もなければ実家で夕食をとって、車で二十分ほどの自宅まで送ってもらっている。


「あ、お兄ちゃん、今日はあたしが軽トラで送るから」


妹の雪香(せっか)が車のキーを振ってみせた。大学就職後に一旦は銀行に就職した彼女だが、どうしても植木職人になりたくて退職し、今は祖父の造園会社――一応、会社形態になっている――で修行中。


「安全運転でよろしく」

「最近はもう全然平気だよ」


外に出て振り向くと、庭続きで奥にある祖父の家は静かだ。そこには祖父と哲ちゃんが住んでいる。ご近所からは、別棟に住んでいる我が家は「分家」と呼ばれているが、俺の中では祖父も哲ちゃんも生まれたときから一緒にいる家族であることに変わりない。


「今日、桜さんに付いてたでしょ? いい感じのひとだよね?」


車を出しながら雪香が言った。


「ああ。真面目で素直だからきっと上手くなるよ」


俺たちが桜さんをファーストネームで呼ぶのには二つの理由がある。彼女の苗字が母の旧姓と同じであるため母が呼びにくいと言ったこと、そしてもう一つは黒川流が家族中心の団体であるということだ。


身内の五人――母の水萌(みなも)、妹の雪香(せっか)、叔父の哲也(てつや)、俺は風音(かざね)、そして祖父――はすべて黒川姓。家族以外の門人からは、宗家である祖父以外はファーストネームに「さん」付けで呼ばれている。うちでは宗家以外は先生と呼ばない習いだ。門人はすべて共に修行に励む同志という意味で。


桜さん以外の三人も、高校生の双子、清都(せいと)くんと莉眞(りま)さん、母と同年代の女性は入門時には息子さんと一緒だったので翔子(しょうこ)さん。こうなるともう、ファーストネームで呼ぶのがデフォルトのようになる。


俺としては年が近い女性をファーストネームで呼ぶことに多少の迷いも感じたが、母たちが呼んでいるのを聞いているうちにどうでもよくなった。すでに桜さんの苗字を忘れそうだ。


「何かお話しした?」

「話? いや、特には」

「そっか。桜さんておとなしいもんね」

「そうだな」


正直なところ、俺はそういう方が気が楽だ。テンションの高い相手に合わせることはできるけれど、とても疲れる。


「そういうおとなしい人を誘った母さん、すごいな」


早とちりの母がかなりの勢いで話しかけたことは雪香から聞いた。まるで突進するようだったという。桜さんは相当びっくりしただろう。半分怯えたような顔が簡単に目に浮かぶ。


「そうだね……」


赤信号で止まりながら、雪香がゆっくりと言う。


「あのとき、桜さんが刀ケースのことを訊いて……、その訊き方がね、なんて言うか、ものすごく思い切った感じだったの。人生の一大事みたいな。お母さんの勘違いを一緒に笑ったあとだったから、気楽に質問してもおかしくなかったのに」

「ふうん」


俺も何度か訊かれたことがある。刀用のバッグは横に取っ手やストラップがついている細長い三角形のような独特の形状なのだ。駅や信号待ちで近くに居た人が結構気軽に尋ねてきたりするのだが、桜さんは違ったのか……。


――そうだ、今日も。


短い居合刀を使ったらどうかと俺が言いかけたとき。彼女は柄をしっかり握って「頑張りたいです」と言った。訴えるような瞳で。とても大切なことみたいに……。


「だからお母さん、誘ったんだと思う、桜さんのこと。あたしは逆に、こんなに人見知りっぽいひとを誘ったら悪いよって思ったんだけど」

「母さん、そそっかしいけど敏感なところあるからなあ」


俺も、口に出したことの裏を言い当てられて驚いたことが何度もある。


母は桜さんの願いとためらいを感じたのかも知れない。そしておとなしい桜さんにとっては、前のめりの性格の母との出会いはちょうど良かった……と思いたい。


「新しく入ったひとが上達するのを見るのは楽しみだな」

「そうだね。教えるときに自分の見直しにもなるしね」

「うん」


同年代の仲間ができたのも嬉しい。部活の後輩ができたみたいな、ちょっと懐かしい気分でもある。


また来週の稽古が楽しみだ。






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