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桜さん、顔を上げて。  作者: 虹色
第一章 姿勢を正して、呼吸を整えて
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――指先はこうです。


市営の小鳩スポーツセンターの武道場。壁に設置された鏡に向かい、袴の帯に置いた右手を軽く動かして示すと、並んで映っている桜さんが一瞬動きを止めてから右手の角度と指先を直した。


納刀した居合刀の(つば)に左の親指をかけたままゆっくりと後ろへ五歩。彼女はまだ摺り足ができなくて、一歩ごとにつま先が上がってしまう。


この五月に黒川流剣術に入門した坂井(さかい)(さくら)さん。稽古に参加するのは今日が三度目だ。


武道の経験はないと聞いている。Tシャツとトレパンの上に貸出用の古い袴を着けて居合刀を差した姿は見るからに入門したてという感じ。当然、基本の抜刀(ばっとう)納刀(のうとう)もまだスムーズにはできない。


最初の二回は俺の母――門人歴三十二年――が袴の着け方や刀の差し方から教えていた。今日は素振りまではみんなと一緒にやり、その後は俺が付くように言われた。ちなみに俺は十四歳で入門して十五年。桜さんは俺より一歳下だそうだ。


母から聞いていたとおり、彼女は非常に真面目だ。余計なことを言わず、余計な笑顔も見せず、言われたことにきちんと返事をし、指示どおりに動こうとする。教える身としては集中できてとても楽だ。


五歩で元の位置まで戻ったらゆっくりと手を下ろし……という動きの意味もまだ分かっていないのだろう。手を下ろすあいだも警戒を解かないのだけれど、一連の動きが終わることにほっとして力が抜けている。でもまあ、これもゆくゆくだ。


「もう一度行きます。――抜刀」


掛け声をかけて右足から出る。桜さんが鏡でこちらの動きを確認しながら続く。それを意識してゆっくりめに動く。


左手で刀の鯉口を切り、右手は(つか)に。左手で(さや)を引きながら右手で前に向けて抜く。三歩目の踏み込みと同時に切っ先を鏡の中の自分の水月――みぞおち――に向けて止める。抜き付け。相手を牽制して止める動きだ。


遅れてどうにか刀を抜いた桜さんがこちらのポーズを真似る……が、体が前のめりになっている。


「上体は起こして、重心を前にかけ過ぎないように。視線は正面です」

「はい」


姿勢を直したのを確認して正眼の構え、そして血振(ちぶ)り――刀に付いた血を払う動作――、納刀と、基本の動きをなぞる。桜さんは目を見開くようにして鏡に映る自分とこちらを比べながら、角度や姿勢を調整する。


彼女の刀が苦労して鞘に収まったところで後ろ足を寄せ、右手を柄から帯に移し、後ろに下がる。両手を下ろして終了。


一拍置いて彼女の方を向く。


「抜刀のときなんですけど」


話しかけると、「はい」と小柄な彼女がこちらを見上げた。束ねた長い髪が背中を撫で、真剣な表情が俺の言葉を待ち受ける。ふっくらした頬に大きな目、小さめの口は綺麗系というよりも童顔……いや、親しみ深いつくりだ。……などと判定しているときじゃない。


「刀を“抜こう”と思うと右手と一緒に体が前に出てしまいます。そうじゃなくて左手でしっかり鞘を引きながら、胸を開くように……こうです」


俺の動きを見てうなずき、「鞘を引いて、胸を開く」と言葉で確認しながら彼女が刀を……引っかけながらどうにか抜いた。


「もう一息ですね。左肘をこう、後ろに下げるように」

「はい。もう一度、ええと……」


抜刀のためには抜いた刀を一旦鞘に納めなくてはならない。でも、彼女はまだそれも上手くない。刀を持った右手を伸ばしても、刀身の長さがあるので切っ先が鯉口に入らないのだ。


「納刀も同じです」


声をかけると彼女が手を止めてこちらを見た。


「右手だけで入れようとしないで、同時に左手で鞘を引きます。そうすることで距離が稼げて、切っ先が鯉口に届きます」


黒川流の納刀は(ひら)納刀。刀を平らに寝かせて鯉口に合わせ、左手で鞘を引きつつ右手を横から前方に動かす。納刀が終わるまで刀の水平を保つのが理想だ。


ゆっくりとやってみせる俺の手元を彼女の真剣なまなざしがチェックする。


「鞘を引いて、胸を開く感じですね?」

「そうです」


桜さんが小声で「胸を開く」と唱えてやってみるが、あと一息で届かない。


「鞘引きをもうちょっとがんばって。肘で後ろの人を攻撃するみたいに」

「はい。う……」

「胸を張って」

「はい。お?」


切っ先が鯉口に届いたようだ。右手が斜めに上がっていて平納刀にはまだ程遠いけれど、刀はするりと鞘に納まった。


「入りました」


ほっとした様子で、でもちょっと得意気にも見える表情に、思わず俺も表情が緩む。


「入りましたね」

「はい。ありがとうございます――あ」


お辞儀で刀が滑り出てきた。


「あ、刃を掴んじゃダメです!」

「あ」

「あぁ……、やっちゃいましたね……」


始めたばかりのときはよくあることだ。


使い込んだ刀の鞘は鯉口が緩くなっている。鍔を押さえずにお辞儀をしたり屈んだりすると、刀身が鞘からずるりと出てきてしまうのだ。


居合刀は刃を研いでいないので切れないけれど、扱いは真剣と同じで、刀身を掴むことは絶対にしない。真剣と同じ扱いを身に付けないと、ゆくゆく真剣を使ったときに怪我をするから。


「すみません。前回も言われました……」

「最初はやっちゃうんですよね。でも危ないので、動くときには必ず鍔を押さえる癖をつけてください。そうすれば滑り出てきませんから」

「はい。分かりました」


ものすごく教えやすい。


去年の入門希望者には「分かってるけどできないんですっ!」とキレられてしまった。べつにできないことを非難したり、嫌味な言い方をしたつもりはなかったのだけど。


――あの後、しばらく落ち込んだよな……。


本人も気まずくなったのか、直されるのが嫌だったのか、ひと月で退会してしまった。原因は別のことかも知れないけれど、後味の悪い出来事だった。


でも、桜さんは全然違う。感動するほどに。


「その居合刀、二尺三寸ですか?」


刀の扱いの話になったついでに訊いてみる。


二尺三寸というのは刀身の長さのこと。鍔元から切っ先まで七十センチと少しある。ほかに二尺二寸五分や二尺三寸五分など、短め、長めの居合刀もあり、重さもさまざま。身長や性別で決めている流派もあるようだけれど、うちでは好みで選んで構わない。入門者にはうちの古い居合刀を貸し出している。


「ええと、……そうです」


かすかに身を縮めるように答える桜さん。警戒されてしまっただろうか。苛立っていると思われた? 誤解されるのは嬉しくない。ここはソフトに伝えなければ。


「少し短めもありますよ? 桜さんは小柄ですし、初めは短い方でも――」

「いえ、これがいいです」


俺の言葉を遮るように首を横に振った。まるで守るように両手で柄を握って。


「練習すればできるようになるって水萌(みなも)さんに言われました。だから頑張りたいです」


――……へえ。


こういうところもあるんだ。決意に満ちた表情で。


「そういうの、いいですね。大歓迎です」


思わず笑顔になった俺を桜さんが大きな目で見返した。こんなに簡単にOKされると思っていなかったのかも。でも、べつに御愛想を言っているわけじゃない。


「練習すればちゃんとできるようになります。それは間違いありません。じゃあ、一緒に頑張りましょう」

「はい。ありがとうございます」


今度は頭を下げる前に鍔を押さえている。ちゃんと進歩している。


「それではもう一度、抜刀からやってみましょう」


桜さんが力強く「はい」とうなずいた。先ほどよりも瞳に力があるように感じる。


並んで鏡に向かい。


「姿勢を正して、呼吸を整えて。――抜刀」


桜さんは真面目でどんどん吸収しようとする。その姿が清々しい。


こういう人となら、いくらでも一緒に稽古したい。






※黒川流剣術は実在しません。念のため。

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