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蜜と陽炎  作者: 扇谷 純
第二章
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第3話

 綾香の部屋を後にした持月は、コートのポケットに両手を突っ込むと半ば習慣的に夜空を見上げた。今夜はどんよりとした曇り空で、月の姿は窺えない。


 諦めて前に向き直った彼は、間隔を空けて闇夜を照らす街灯の淡い光を頼りに歩き始めた。行為前に飲んだワインが今になって効いてくると、胸元や足首から入り込む乾いた風に異様な寒気を覚え、身体をぶるぶる震わせながら駅を目指した。


 就職浪人の末、苦労して就職した企業はあっさりと倒産。アルバイトで食いつなぐうちに持月は気づけば今年で二十九歳を迎えていた。


 今のご時世では正社員など単なる肩書きに過ぎず、再就職にも全く価値を見出だせない。判で押したような生活を繰り返す彼の心は、とうの昔に置いてきぼりを食らっていた。


 駅前の喫煙所を見かけると、まるで腐乱物に集る蠅のように吸い寄せられていく。そこには彼と同様に貧しい精神状態の連中が屯し、夢中になって煙を補給しながら自発的に身体を蝕んでいた。


 時おり肌を刺すほど鋭い寒風に煽られると、身体からふとバニラの香りが漂った。彼女の余韻を味わえるこの感覚は、嫌いではなかった。


 自宅に到着し、シャワーを浴びる間に嶋田から数件着信が入っていた。金曜の夜にあの男が連絡を寄こすのは珍しいことだ。先にきちんと髪を乾かし、持月は折返しの電話を掛けてみたが話し中だった。そのまま放っておくと、すぐにまた折返しがきた。


「もしもし」


「おう、かおる。上京組で同窓会やるから来いよ」


 この男には時候の挨拶はおろか、安否を尋ねるという概念すらないらしい。あたかも読みかけの本を再び読み始めるような自然さで会話を始めている。


「小学校か?」と即座に返す持月の方とて、本にはきちんと栞を挟んでおく主義なので途中参加には慣れっこだった。


「あ? 高校に決まってんでしょ。今度の土曜だから」


 彼がそう答えた直後、耳を劈くような歓声が電話口に響いた。それに応えて嶋田も執拗に叫び声を上げている。あの手の催しには大学の頃に何度か参加した覚えがあったが、今の持月にとってはおよそ縁遠い存在に思われた。


「次の土曜日は、もう二時間後だけど」


「あ? 何言ってんだ、お前」と嶋田は声量をそのままに答えたが、しばし間を置き、「あ、そっかそっか。来週だよ! 来週の……。日曜!」


「日曜なのか?」


「あ? 何だって?」


 この飲んだくれが。どのみち、持月には関わり合いのないことだった。


「まぁ、楽しんできてよ」と彼が言うと、嶋田は何やら言葉にならない奇声を発した後、「お前の反抗期は、一体いつまで続いてんだ?」とお馴染みの小言を寄越した。


 それを聞いた持月はわざとらしくため息を漏らし、「またその話か」


「昔は素直な奴だったのにさ」

「そりゃ、生まれたての頃の話かな?」


 酒に酔った勢いとはいえ、この男があたかも親戚のような物言いをするのは無理もないことだった。それだけ彼の印象は昔と変わってしまった。


「ちなみに、参加するメンツなんだが」


 嶋田は構わず会話に戻ったが、持月はそれを半分以上聞き流して煙草に火をつけた。今では日毎に本数も増える一方である。


 高校を卒業し、すでに十年以上が経った。今さら同窓会などと言われても、参加者の半数以上は顔すら思い出せない。当時から交友関係の広い嶋田と違い、所属グループの存在しない彼はただの徘徊者に過ぎなかった。


「林田と、あと百瀬な。それから――」


「百瀬? 百瀬だって?」持月は思いがけず口を挟んでいた。


「百瀬がこっちに戻ってるのか?」


「ああ。噂で聞いた話では、外資系の企業に入ったらしいぜ」と情報通の嶋田は答えると、「なに? 気になっちゃう感じ?」とすかさず尋ねた。


「いや、……別に」


「会いたいなら来れば良いじゃねーか」


「土曜は、バイトがあるんだ」


 その話は事実だったが、来週の土曜日が夕方に終わるシフトであることは敢えて伏せており、そんな姑息な受け答えをさらりと出来てしまう自分自身がひどく卑怯な男に成り下がったことを持月は実感させられた。


「じゃあ、しょうがねぇか」


 嶋田は色々と取り柄の多い男だが、最も特出すべき点は物分りが良い所である。きっと、恐ろしく心が純粋なのだろう。


「悪いね」と答えた持月はそのまま通話を終わらせようとしたが、「それで、百瀬はどこの企業に就職したの?」とまたも思いがけず尋ねていた。


「お前さ、……ひっく。百瀬とそんなに仲良かったか?」


「…………」


 持月はその問いかけに言葉を詰まらせた。嶋田がその反応を見逃すわけもなく、「よしっ。分かった! 俺がなぁ、お前のためになぁ、百瀬の情報をがっぽりと聞き出しといてやるから!」と意気込んで怒鳴った。


「いや、別に僕は――」


「期待しとけぇ!」と声を張りながら、嶋田は一方的に電話を切った。分刻みに約束を持つ彼の夜は、まだ始まったばかりだ。


「……百瀬、冬華とうか


 持月がその名を口にしたのは、随分と久々のことだった。高校を卒業後、気づけば海外へ移住したと彼は風の噂で耳にしていた。


 今では懐かしさを覚えるほどに遠い記憶でありながら、情景は未だはっきりと色濃く脳裏に刻まれており、その記憶がこれまでの彼の人生において、絶えず付き纏う存在であることは間違いがなかった。

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