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蜜と陽炎  作者: 扇谷 純
第二章
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第2話

 肌に纏わりつく、彼女の体液。それとも彼自身の汗か。


「綾香。火ある?」


「えぇ、ここ禁煙だよ」


 行為後は必ず煙草が欲しくなったが、残念ながらここでは厳禁だ。


「あの人、匂いには敏感なんだから」


「いっそ鼻の骨をへし折っちまえば良いのさ」


 フェミニンな装飾の室内には細長いお香が焚かれ、薄らと煙が漂っている。近頃の持月は、この甘ったるいバニラの香りを嗅ぎながら天井を見上げる夜も増えた。綾香は彼の言葉を無視して立ち上がると地面に散らばった下着を拾い、投げて寄越す。


「何か食べる? ワインもまだ残ってるけど」


 年齢の割に大人びた下着を身に付けた彼女は、隣に寝そべって柔らかな四肢を彼に密着させた。暖色の灯りに照らされた肌は陰影の加減で一層引き締まって見え、指先でそっと撫でると穏やかな水面のように瑞々しい。


「帰るよ」と静かに答えた持月は、起き上がって下着を身につけると残りの服を探し始めた。コンタクトレンズが外れてしまい、視界がぼやけている。靴下の片方がなかなか見当たらない。


「チーズも余っちゃうんだけど」


 ベッドに一人横たわった彼女の声は未だ物欲しげで、憂いを含んだ視線を寄こすものの、彼は知らぬふりをして靴下を探し続けた。


「次はいつ来れる?」綾香は携帯電話を手に取り、「水曜は休みでしょ?」


 その日は用事があると持月が答えると、携帯電話を投げ捨てた彼女は「あっそ」と言いながら大きな兎の抱き枕に顔を埋めた。


 彼らが関係を続ける上で、二つの約束事があった。一つは関係を誰にも秘密にすること。もう一つは、互いに干渉しないことである。他にも彼女の部屋での喫煙禁止や、性行為に関する暗黙の取り決めなどはあるが、大まかに言うとこの二つが彼らを縛る全てだった。


 ひと通りベッドの周辺を見て回ったが、靴下が落ちている気配はない。仕方なく持月は、鞄から眼鏡を取り出した。


「眼鏡持ち歩いてるんだ、えらいね。って、何それ。だっさ!」


「高校までは、これで外を出歩いてたよ」


「あはは。コンタクトにして大正解ね!」


 艶かしく組まれた足のつま先付近にある掛け布団を捲り、ようやく見つけた靴下を持月が履き終わる頃、彼女の携帯電話が例のごとく「ホール・ニュー・ワールド」を奏で始めた。


 人物によって着信音を使い分ける彼女は前奏部分を耳にした途端、「あぁ、彼氏だ」と顔をしかめている。


「定時連絡の時間だな」


「もう。やめてよ、その呼び方」と不愉快な声を上げつつ、綾香は背中を覆うほどに伸びた栗色の髪を手櫛で伸ばし、電話を耳に当てる。


 持月は実際にお目にかかったことはないものの、彼女の恋人がひどくマメな男であることは知っていた。


 恐らく一日に三度、その男は決まった時刻になると必ず綾香に電話を寄越して近況を確認していた。彼女が何を食し、何をして過ごしたか。そんな情報が一体の何の役に立つのかは全く不明だったが、律儀に続けられることだけは尊敬に値する。


「チーズの種類? ……そんなの覚えてない」


 時おり興奮した様子で話す彼の声が漏れ出す事もあったが、それは彼女の笑い声を誘発するほどの話題ではないようだった。


 面倒がる素振りを見せながら相手をこなす彼女にとって、恋人との通話は難儀な報告義務に過ぎなかった。『あの人はきっと、相手を束縛する感覚が好きなのね』と吐き捨てた彼女は、容易に突破できる緩い網をすり抜けて持月と秘密裏に関係を結んでいた。


 持月に恋人はいない。以前はいたこともあったが、何故だかすぐに振られてしまう。


 大学時代に野暮ったい眼鏡をやめたことで女性からの感触は飛躍的に向上したものの、肝心の恋人関係まで発展すると上手くいかず、あっさりと見切りを付けられることが多かった。


 日常的に嘘で身を飾り、息をするように他者へ傷を負わせ、少なからず罪を犯す生き物が人間であると経験から悟った彼は、他人に対する執着を捨てていた。


 欲求はおよそ自然の摂理で、制御することは不可能に等しい。それゆえ彼は交際相手が裏で誰に媚を売ろうが、淫らな行為に及ぼうが、甘美な言葉で彼を欺こうとしようが見て見ぬふりをした。深く追求をしなければ、傷つくこともない。


『あなたは、私に興味がないのよ』


 そんな台詞をよく耳にしたが、思い違いだ。しかしながら、それを払拭できるほどの確信も彼は持ち合わせておらず、結局は彼女らの宿り木としての役割を束の間請け負ったのち、次の目的地へ向けて送り出した。


「――へぇ。そう」


 随分と冷え切った対応だが、それでも彼女がユーモアの欠片もない恋人の長話に根気よく付き合い、容易には跡が消えないほど電話を耳に押し当て続けるのはいつものことだった。


 持月は会話を遮るようにわざと舌を絡ませながら荒々しく口づけをすると、頬を膨らませて憎らしく睨みつける彼女をよそに仕草だけでお別れの挨拶をした。

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