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08:1年後のある朝

 最初の出逢いから、約1年。シェラの朝は、以前よりも早くなった。


 物心つく頃には、朝陽が昇るよりも前に叩き起こされ、父親から金を集めるように命じられ、人のいる場所を彷徨い続けていた。時に蹴られ、殴られながら、酒に替えられるものを探して汚い道端や物陰を這いまわっていた。


 しかし今は、自ら率先して早く起きるようになっていた。

 誰よりも早く起きるつもりで布団とアザミの腕の中を抜け出し、水を汲みに外に赴く。

 肌を刺す寒さの中を歩き、近くを流れる川に桶を入れ、掬い取って運び出す。そしてそれを、暖炉の上にぶらさげられた鍋の中に注ぎ入れ、その日に使う水を用意する。

 そんな仕事を、シェラは毎日続けて行っていた。


「…毎朝よく続くものだ。あいつにも見習ってほしいものだがな」


 だが、どれだけ早く起きても、シェラが一番乗りになる事はなかった。

 もはや見慣れた位置に、黒衣を纏った仮面の大男の姿があり、ペラペラと本の頁をめくって何かを書き込む作業を行っているのである。

 ちなみに今朝つけている仮面はどうやら、牛の面のようだ。


「…ねえさまは朝がよわいから。わたしは、なれているから」

「心配せずとも、あれがお前を捨てる事はないだろう……相当に溺愛しているからな。むしろ、朝起きた時にお前の姿がない方が堪えるのではないか?」

「で、でも…何かしてないとおちつかなくて」


 以前よりも流暢な喋りで、師の問いに戸惑い気味に返すシェラ。

 この1年で彼女は背も伸び、顔つきも大人びて、体つきもようやく膨らみを得てきていた。まだ少し、師のような大人の男性に対する恐怖感のようなものは残っていたが、それもじきに目立たなくなりつつある。

 師は手を止めると、己の腰辺りまでしかない小さな彼女を見やり、赤い目を細めた。


「…そうだな。飯に関しては、あいつがやるより上手くやれている。掃除も、雑なあいつがやるより綺麗にこなせる…あまり気を張ると、あいつがやる分の仕事も横から掻っ攫うことになるぞ」

「っ……それは」

「努力するのはいい。他者を気遣うのもいい。だが、他者を甘やかすのは褒められたことではない」


 師はぱたんと本を閉じ、ペンを懐にしまうと、ソファから腰を上げて歩き出す。

 壁一面に置かれた本棚の前に立った彼は、書き終えた本を棚の空いた箇所に置き、別の本を棚の中から引っ張り出す。そしてまたソファに戻り、頁を開いて書き込む作業に戻った。


「他人に尽くすことと、自分を犠牲にすること、これは同じ行為ではない。あいつに限ってそうなるとは思えんが、余り献身が過ぎれば、お前の父のように堕落するぞ」


 ぎろり、と再び赤い目がシェラを射抜く。口調こそ抑揚がなく、穏やかに聞こえるが、内容はきつく咎めるような響きを持っていて、シェラは思わず首を竦める。

 そして彼の言う通り、アザミが父のように理不尽に暴力を振るうような輩になってしまう未来を創造し、きゅっと手を握りしめて俯いてしまった。

 だが、やがてシェラの表情は、少しだが柔らかくほころび始めた。


「……でも、私がやりたいことだから」

「…なら、いい」


 シェラが自分の方針を変える気がないことを知り、呆れたのか、鋭く向けられていた師の目が逸らされる。もう、彼女のやり方に対してとやかく言う気を失くしたようだ。


「…もの好きな奴め。好きにしろ」

「うん……好きにする」


 ペンをカリカリと動かす師に息をついたシェラは、傍らに桶を置き暖炉の前でしゃがむ。そして、持っていた火種と鉄片、火打石を取り出し、カチカチとこすり合わせる。

 飛び出した火花を火種に浴びせ、小さな火を起こさせる。それに小さな渇いた枝を加え、徐々に火を大きくしていき、薪を追加して一定の熱を保つ。

 熱されていく鍋の中の水、気泡がポコポコと沸き立つのを見やってから、シェラはまた別の作業に取り掛かる。


 そして。


「ぎゃーっ! お師匠! お師匠ーっ! シェラが……あたしのシェラがまたいなくなったーっ!!」


 そう、朝から部屋を飛び出し、大騒ぎするアザミの声が届いてきて、頁に手をかけていた師ががくりと項垂れる。

 シェラもまた、出会った次の日から毎日聞いているその声を耳にし、困ったような、同時に嬉しそうな笑みをこぼしていた。




「いや、ほんとにさぁ! 起きるんならあたしを起こしてくれていいからね!? 誰もいない布団見て、すっごい胆が冷えるんだからね!? やめて、ほんとに!」


 ばくばくがつがつ、とシェラが器によそった煮汁をかき込み、アザミは咎めるような視線を妹分に向ける。しかし、寝間着姿にぼさぼさの髪という散々な格好のため、全く凄みが感じられない。

 早起きして作った、茸で出汁を取った山菜の煮汁を匙ですくいながら、シェラは逆にじとりとした半目を姉に向ける。


「そう言われても……ねえ様、起こしても起きないし、私もいつもあの時間には目が冴えちゃうから」

「ぐっ…痛いところ突きやがる」

「私はこれがもう癖になっているから…やめろと言われてもやめられないの」

「い…生き急ぐのは私の性分じゃなくてね」

「限られた時間を自由に過ごすのと怠惰に過ごすのは違うと思うよ、ねえ様」

「お師匠! シェラがいじめる! あたしの心を容赦なくぐさぐさ突き刺してくる!」


 言い負かされたアザミは、いつも通りの位置で腰を下ろす師に泣きつく。しかし手は常に朝食を口に運んでいるため、本気で悲しんでいるようには見えない。

 そんな弟子に、師は仮面の奥の赤い目を細め、部屋の中をじっと見渡し始めた。


 以前までは、部屋中を埋め尽くしていた本の山。雪崩が起きそうなほどに積み上がり、圧迫感を与えていたそれらは今、綺麗に本棚や箱の中にまとめられていて、清潔に保たれている。

 これはシェラが朝早くに起き、師に許しを得てから少しずつ片付けを行ってきた結果であり、シェラがこの家における家事の大半を担う決定打となった光景である。


「…面倒を見ると豪語したお前が、逆に面倒を見られている現状をどう言い訳するつもりだ」

「うわ~ん、味方がいないよぉ~」

「泣くならまず食うのをやめろ。いつの間にか立場が逆転しているではないか」


 匙を口まで運び続けながら、大袈裟に声を上げるアザミに、師もシェラも呆れた視線を向ける。

 同じ1年で、アザミも少しだが背が伸び、胸や尻も膨らみだし、大人に近づきつつある。しかし、女性らしく育っていく身体をよそに、精神的には全く成長しているように見えない。


 本人にそのつもりはなくとも、泣きじゃくる姉にすがられる妹という、何とも言えない様子が見られるようになっていた。


「…ごちそうさま。ねえ様も、早く食べちゃって。今日は新しい薬の作り方を教えてくれる約束だよ」

「あ。…ごめん、そうだったね」

「いいよ。…ねえ様がそういう人なのは、この1年でよくわかったから」

「言葉に棘があるよちくしょう!」


 冷たい目で射抜かれ、また涙したアザミが慌てて器の中の残りを喉奥に流し込む。行儀は悪いが、これ以上待たせても姉の威厳が失墜するばかりで、時間をかけてはいられなかった。


「ごちそうさま! 先に外いってて!」

「片づけておくから…落ち着いて」


 シェラは空になった器と匙を受け取り、小さくため息をつきながら、食器をまとめて洗い場に運んでいく。

 アザミはそれを背に、急ぎ自室に戻り身支度を整えに向かう。が、途中で盛大にこける音が聞こえてきて、シェラの肩がビクッと震える。

 まったく変わらないポンコツ具合を見せる姉に、妹分は大きなため息をつくばかりだ。


 そんな騒がしいやり取りがほとんど毎日のように続く日々を、師はただ、黙って眺め続けていた。


         ◆    ◇    ◆


 長く細い、あるかどうかも分からないほど草木に塗れた獣道。

 あまりに深く、険しく、常人ならばすぐに諦めて引き返すことを選択したくなるようなそんな道を、数人の人影がひと固まりになって進む。

 革の鎧を身に纏い、その上に黒い外套を羽織った彼らは、真っ直ぐに進行方向だけを見つめて歩き続ける。ガチャガチャとなる音は、腰に佩いた剣が出す音だ。


「おい……この道で、間違いないんだな」


 集団の真ん中、他とは異なり、鎧や剣を身につけていない小柄で膨らんだ体型の男が、前後を進む他の者にやや横柄に尋ねた。

 袖から覗く手には、いくつもの指輪や腕輪が覗き、かなり下品な趣味をして見える。


「…ええ、このまま進めば、ちゃんと目的の場所に辿り着きます。ですが、辿りついたとして真面に相手をしてもらえるとは限りませんよ。なにせ相手が相手ですから」


 最前列を歩いていた一人が振り向き、ぶっきらぼうに質問に答えを返す。しかし、外套の奥から覗く表情は心底面倒臭そうで、質問をした男に対してあまりいい感情を抱いていないことを窺わせる。

 質問をした男はフンと鼻を鳴らし、足に絡みつく草木を蹴り飛ばして苛立ちを見せる。周りに憚る事もなく、盛大な舌打ちまで聞こえてきた。


「そんなことはどうでもいい! この私がじきじきにこんな糞みたいな場所に来てやったのだ……分相応な対応をするのは当然のことのはずだ」

「…だといいですがね」

「まったく…なぜこの私がこんな役割を果たさねばならぬのだ。たかが森に引っ込んだ世捨ての爺を相手に…」


 ぶつぶつとぼやき、苛々した雰囲気を振りまく小柄で太った男。

 そのあまりの態度に、男の前後を守る彼らは顔をしかめ、下品な男の耳に届かないくらいの小声で悪態をつき出す。誰一人、この更新に積極的に挑む者はいないようだ。


「陛下が必要と断じたのですから、我々はそれに従う外にないでしょう…ただでさえ、今はガルムの糞野郎共の動きが不穏になってきているのですし」

「そのくらい、我が国の軍だけで事はすむだろうに…我が精鋭が遅れをとるはずもなし、態々死に損ないの老いぼれに助力を乞う必要があるわけないだろうが!」

「陛下の御意思です…今更引き返しましても」

「わかっておるわい! 私の愚痴には黙って頷いておれ!」

「…御意」


 理不尽な暴言にも、先頭の男は穏やかな態度を保ったまま返し、視線を前方に戻す。

 とはいえ、やはり腹が立つには違いないらしく、外套に隠された顔のこめかみには血管が浮き立っていた。


 と、その時。

 集団の足が不意に止まり、気付かなかった小柄で太った男が鼻先をぶつける羽目になった。


「がっ…! おい! 何をして―――」

「しっ…お静かに」


 鼻を押さえた小柄で太った男が声を荒げようとすると、先んじて先頭の男が手でそれを制する。周囲では他の男達が、腰の剣に手をかけ、辺りに警戒を張り巡らせる。

 それでもなお、暴言を吐こうと息を吸った小柄で太った男だったが、途端にその表情が固まり、血の気が引いていく。


 彼らのすぐ近く、獣道を挟む深い樹々の間を、巨大な何かの影が横切っていたからだ。

 四つん這いになり、それでも人の背丈を遥かに超える巨体をゆっくりと動かしながら、低い唸り声を漏らして進んでいく何かの影に、全員が息を止めて身構える。

 小柄な男に至っては、今にも気絶しそうなほどに震え、息も忘れているのか顔面を真っ青にしている。


 影は彼らに気付くことなく、時間をかけてその場から姿を消し、足音も徐々に遠ざかっていく。

 一切の音が聞こえなくなって初めて、男達は腰の剣から手を離し、深く深く息を吐いて安堵をあらわにした。


「…この通り、この森は一個師団用意しても足りないほど危険な場所です。くれぐれも軽率な行為に走らないよう……こんな場所に住んでいる彼の方が、普通でない事は重々理解されたでしょうが…」


 それができないなら命の保証はしない、と咎める視線を背後で脂汗まみれになっている小柄な男に向ける先頭の男。

 小柄な男はぶんぶんと何度も頷き、早く先に進めと言わんばかりに先頭の男を睨みつけ、じれったそうに足踏みをする。その情けない様に、他の全員から呆れたため息がこぼれる。


「…まったくもって、彼の方のお考えは理解できないものだ。こんな危険な森の中に居を構えるような愚行……まったくもって度し難い。確かに、訪ねるこちらの身にもなってほしいものだ」


 促されるまま、黙々と獣道の行進を再開する一行。

 もっと早く歩けないのか、と焦りと苛立ちを見せる小柄な男だが、先ほどの光景がよほど恐ろしいのか、大きな声で怒鳴る事もできず、無言で案内についていくほかにない様子である。

 戦闘の男は険しい表情のまま、まだまだ影も形も見えない目的地の、そこに住まう一人の存在の姿を思い浮かべ、陰鬱そうに肩を落とすのだった。


「果たして、彼の方―――賢者様は応じて下さるのだろうか、我々の求めに」


 誰にともなく呟かれた、一人の男の呟き。

 それを聞き取っていたのは彼の仲間達。そして、ある一本の木の枝に巻き付き、彼らを見下ろしていた一匹の蛇のみだった。

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