04:敵の来ない森
「……そろそろ、いろんなものを新調すべきかな〜」
少女が、森の奥の家に住む師にシェラという名をもらい、アザミと共に暮らす様になってから早一ヶ月。
ようやく少し体つきがふっくらとし始め、血色も良くなってきた頃のことだった。
それまでアザミの昔の古着を繕って着せ、予備の食器を使って食事を与えられてたのだが、今朝になって急にそんな一言がもたらされた。
シェラはもぐもぐと、今日の朝食である山菜のスープを咀嚼しながら、神妙な眼差しで自身を見つめてくるアザミに訝しげな視線を返した。
「しんちょう?」
「そ。いつまでもあたしのお古じゃ可哀想だし、それに何よりデザインが古いし。そろそろ街に行って新しいの買ってあげたいな〜…っていうか色々着せ替えてやりたいな〜って思ってね。食器も新しいの欲しいし」
アザミに必要以上に話しかけられ、応答することが増えたためか、以前よりも格段に滑舌が良くなったシェラが問い返すと、アザミはよくぞ聞いてくれたとでもいうように答える。
最も、理由を聞く限りは、シェラのためというよりは、自分の欲望に突き動かされている印象を強く感じたが。
「そういうわけだからさ、お師匠? ちょ〜っと街までお出かけしたいな〜……なんて思いましてね?」
アザミはくるりと振り向き、いつもの位置にいる師に乞う仕草を見せる。
両手を合わせ、小首を傾げ、潤んだ上目遣いになったアザミが、黙々と筆を本に走らせる師を見つめる。
が、師は一瞥もくれることなく、冷たい声を返した。
「駄目だ。しばらく大人しくしておけ」
「え〜!? なんでさぁ!?」
「着る物などしばらく古着で十分だ。今の人の街には近づくな……余計な騒動に巻き込まれたくないならな」
望んだ返答と異なり、不満げに騒ぎ始めるアザミに、師は淡々と理由を告げる。
途端にアザミは黙り込み、笑みを完全に消した真剣な表情で、本の頁を捲る師を見つめた。
「……また、向こうの治安が悪くなってるの?」
「貧民街では二百人死んだ。そのうちの七割は猿人以外の種だ……一ヶ月寄っていない間にこの様だ。お前もしばらく売りにいくのはやめておけ、攫われても殺されても文句は言えんぞ」
「うっへぇ……そこまでかぁ」
一切感情のこもっていない声で師が語る情報に、アザミは思いっきり顔を歪めて天を仰ぐ。まるで苦虫を噛み潰したところに、強烈な匂いを放つ枯草を鼻の穴に詰め込まれたような、そんな反応である。
「また税金上がった? もしくはまたどっかの国に喧嘩ふっかけたとか……も〜終わってんでしょこの国ぃ…」
「言っておくが、お前も目をつけられているぞ。住んでいる場所が場所ゆえに、納税の対象にないが、好き勝手商売されているからな。見つかれば確実に捕まって奴隷落ちだ」
「うっわぁ……でも税率高すぎだしなぁ。払いたくないしなぁ」
額に手を当て、うんうんと悩み始めるアザミ。師は手を止め、頭を抱える弟子をじっと見つめる。
会話の内容がよくわからないシェラは、戸惑ったまま二人を交互に見やる。人の街どころか、父以外の人間に遭遇したことがない彼女は、アザミが何に悩んでいるのか全くわからない。
しかしなんとなく、自分やアザミが森の外に行くことが、渋られていることだけは理解できた。
「ん〜……でもさ、そういうことなら向こうの患者は増えてるわけでしょ? あたしの薬を待ってる人たちがいるんなら、多少無理をしてでも行くのが筋ってもんだと、あたしは思うんだけどな〜」
「以前にそう言って、鼻血を垂らして帰ってきたことをもう忘れたか。やめておけ、連れが一人増えたら怪我では済まんぞ」
「うっ…い、いや、でもさ? 今後のことを考えても、シェラには経験ってのが必要だと思うんだ。ほら、なんかこの子って、ちっさい場所で誰とも関わらずに生きてたっぽいし、人との対話ってのが必要だと思うんだよ」
「…果たして、そんなものが必要になるのか」
師は唸るように重い呟きをこぼし、ギョロリとシェラの方に視線を向ける。
真っ赤な血の色の目を向けられ、びくりと震えるシェラをしばらくの間じっと見つめていた師は、やがてアザミに視線を移し、目を細めた。
「ならば、お前が確と見ておけ。お前が拾った命だ……お前が最後まで守れ、いいな」
「うっす! お任せあれ!」
ビシッ、と背筋を伸ばし、平手を額に当てる変わった礼を見せるアザミ。
師はそれだけ告げるとまた視線を下ろし、本に書き込む作業に戻る。困惑しっぱなしのシェラは、不意に頭に被せられた襤褸布に驚き、いつの間にかそばにいたアザミを見上げた。
「はい、これ被って。人前に出るまではいいけど、街に着いたら絶対耳は見せちゃ駄目だよ」
「…? どうして?」
「シェラはかわいいから、お顔が見られたら攫われちゃうの。攫われなくても、綺麗なものに嫉妬して意地悪してくる人がいるからね…だから、あたしのそばを離れちゃ駄目だよ」
被せた襤褸布を整え、シェラの顔がうまく隠れるように調節するアザミ。布の下から覗く彼女の表情は、いつもの快活さが嘘のように真剣なもので、シェラは思わず黙り込む。
全身をすっぽりと隠し、シェラの顔や耳が完全に隠れるようにすると、アザミは今一度少女の全身を確認し、満足げに頷いた。
「これでよし……今日は初めてのお出かけってことで、早めに戻ってこようか。じゃあお師匠、行ってくるね」
「襤褸が出ないうちに戻ってこい」
「は〜い」
アザミはもう振り向きもしない師に苦笑しつつ、自身も襤褸布を被って顔と耳を隠す。
そして隣に立つシェラを見下ろし、にっといつもの快活な笑みを見せ、優しく手を差し延べた。
「じゃあ、行こっか。大丈夫、あたしと一緒なら、何も怖くないから」
「……うん」
おずおずと、迷うそぶりを見せながらも、シェラはアザミが伸ばした手を握る。
正直、アザミ以外の人間がいるところに行くなど、まだ恐怖感が強くてできれば行きたくはない。だが、唯一信じられるアザミが大丈夫と言うために、問題はないのだろうと、手を引かれるままに歩き出す。
何も起こらないのだと、シェラもそう、思っていた。
◆ ◇ ◆
さわさわと、心地よい風が樹々の葉を揺らす音が聞こえてくる。
適度に湿った枯葉の積み重なった地面は、クッションのように踏み下ろした足を迎え、くしゃりと小気味いい音が辺りに響く。彩のおかげで、絨毯のようにも見える。
木々がほぼ等間隔で並ぶ、比較的見渡しの好いその道を、鞄を背負ったアザミとシオンが手を繋いで歩いていた。
「このへんはね~、森の獣達にとっての公道みたいな場所でね~、肉食の連中も滅多に襲って来ないんだよ。みんなの場所、って暗黙のルールみたいなのがあるんだね~」
「…ここじゃないと、おそってくるの?」
「来るよ~。あいつら自分の縄張りとか領域とか、めっちゃくちゃ気にするからね~…うっかり入ったら最悪袋叩きだよ。気をつけてね?」
ぶるぶると自分の肩を抱き、妹に語って聞かせる黒髪の少女。
シェラは感嘆の声を漏らし、アザミの手をしっかり握ったまま、興味深げに辺りの景色を見渡す。詳しく観察する余裕は、父の元から逃げ出したあの雨の日にはなかったために、改めて自分が迷い込んだ森の深さが強く感じられた。
「この辺は……通らなかったのかな? 人の街の方からは見つかりにくい道だからねぇ」
「うん…もっといっぱいおおきな木があった。もっとあるきにくかった」
「そっかそっかぁ……どこぞの主の巣穴に入ってた時は、ほんとに驚いたけどね。使われてない昔の巣穴でほんとによかった」
きょろきょろと周りの樹々を見渡し、一ヵ月前に通った森の中と比較していたシェラがぼそりとこぼした呟き。
それにアザミはひくりと頬を引きつらせ、安堵から大きなため息をついていた。
「ぬし?」
「この森で一番強くて賢い奴。食物連鎖の頂点に立つ、森の獣の調整者だよ……他にもいろいろ獣はいるけど、そいつが全部の生物の長みたいな位置にいるんだよ」
シェラが首を傾げて問いかけると、アザミは心底安堵した様子で見つめてくる。前を見ないまま歩くために、一瞬ひやりとしたものを感じたが、アザミは一切気にせず歩き続ける。
「用心棒熊って言ってね……一定の領域内でだけ活動するから、気をつけてれば遭遇すらしないんだけど、下手に縄張りに侵入したり、同族を脅かしたりしたら最後。地の果てまで追いかけてくるやばい奴なのよ」
その様を見たのか、あるいはその餌食となった憐れな存在を知っているのか、アザミは微かに血の気を引かせ、遠い目で森の奥を見やる。
その時、シェラがよそ見を擦るアザミをはらはらとした様子で見上げてくるのに気付くと、怯えているものと思い込み、慌てて表情を取り繕い、やや引き攣った笑みを見せた。
「ま、まぁ昔の巣穴だったし、大丈夫でしょ。子供が大きくなると一定期間で巣穴を変える習性があってね、一つの森の中で行ったり来たりするんだよ。それにね、別に恐いだけの奴じゃないんだ」
「そう、なの?」
「他所から入ってくる、自分の棲む森の生態系を崩しかねない外敵を追い払うっていう役目があってね、その習性から、用心棒の熊って呼ばれてるの」
語りながら、アザミはある箇所を見やって立ち止まる。
ごつごつとした大きな岩が積み重なり、谷の様になっているその場所。そこには大量の水が勢いよく流れていて、時に小さな石を転がして音を響かせている。
アザミは先に岩の上に登ると、躊躇っているシェラの手を引いて、ゆっくりと誘導を行う。
「この森に、人の手が全く入ってないのはそのおかげ……少しでも人間が開拓の意志を見せようものなら、主に発破をかけられた森中の獣が襲い掛かるの。昔に一回あったんだよね、森を焼いて開こうとした一団が、物凄い数の獣に食い殺されところ」
おっかなびっくりと言った様子で、激流を渡り終えて安堵の息をつくシェラは、耳にした話にぞっと背筋を震わせる。
そんなにも恐ろしい獣が棲んでいた巣穴にいたと聞かされれば、今更恐怖が蘇ってもおかしくはない。あらためて、アザミに見つけて貰えた事といい、そこに獣がいなかった事といい、運がよかったと言わざるを得ない。
アザミは青い顔で黙り込む彼女を見下ろし、脅かし過ぎたかと苦笑をこぼした。
「まぁ、あんまり気にしなくてもいいよ。縄張りさえ覚えちゃえば、向こうの機嫌を損ねる事はまずないし、多少恵みを戴いたところで、あたし達二人分くらいなら微々たる量だしね」
「……おししょうは?」
「ん? ああ…お師匠、ご飯食べないから。まぁとにかく、この森は人間よりやばい奴らがわんさかいて、基本的に人が来ない所だから、ここにいれば君の糞親父も来れないと思うよ? だから大丈夫!」
シェラはまた感嘆の声を上げ、森での暮らしに精通しているアザミに思わず熱い視線を送る。
アザミは自身を持ち上げる尊敬の眼差しに気を良くしてか、豊かに育った胸を大きく張り、満面の笑みを浮かべて軽い足取りで、森の中の道を進んでいく。
「そして何より、この森に住み慣れたこのあたしがいるからね! 人をぶん殴る事しか能がないクソったれ野郎なんて敵じゃないさ! あっはっはっは―――へぎゃっ!?」
「!?」
しかし唐突に、シェラと繋がれていた手の感覚が消失し、同時にアザミの姿も消える。
ギョッと目を見開いたシェラは、わたわたと辺りを見渡して彼女の姿を探し、やがて真下に広がっている大きな窪みに気がついた。
アザミを見上げるばかりで、アザミは得意気に笑っていて、目前のそれの存在に気付いていなかったのだ。
「だ…だい、じょうぶ?」
「……うん、へーき。だいじょーぶ」
恐る恐る窪みの中を覗き込み、枯葉の山に尻から突っ込んでいるアザミの安否を問う。
少女は何処か不貞腐れた様子で返答し、のそのそと窪みの中から這い出そうとする。枯葉が柔らかすぎて、抜け出すのに苦労している彼女は、半目でシェラを見上げ、投げやりな調子で声をかけた。
「覚えておいてね、シェラ。どんなに安全な場所でも、油断してるとこうなるよ」
「……うん」
哀愁漂う、何とも言えない言葉に、シェラは思わず神妙な表情で頷く。
先ほどの尊敬の眼差しは、いつの間にか跡形もなく消え去っていた。
そんなやり取りがあって、さらに数時間。
丘を、川を、岩場を抜け、アザミの案内のもと深い樹々の間を歩き続けていたシェラ。
幼く未熟な身体にはかなり酷な移動だったが、アザミにそれを伝える事は憚られ、必死に我慢し足を動かし続けた、その結果。
「……お疲れ様、もうじきだよ」
肩を大きく上下させ、滝のような汗を流すシェラに、アザミが困ったような顔で告げる。
前もまともに見られないほど、自身の汗で濡れた顔を上げ、シェラは目を凝らす。そして、そこに広がっている光景に、少女は思わず苦しみも忘れて息を呑んだ。
一気に森が途切れ、広がる景色の中に鎮座している、大きな人工物。
分厚く高い赤褐色の塀に囲まれた、無数の四角い建物が密集した街。豆粒のように見える、しかし数えきれないくらいの人の姿が確認できる、広いその場所。
シェラが生まれて初めて見る、荒ら屋などでは決してない美しい街並みが、そこにはあった。
「ふわぁ……」
「でかいよね。あれがあたしがいつも薬を売りに行く、お師匠の家から一番近い街―――ガルム王国の城塞都市『セイリーグ』だよ」
目を輝かせ、目の前に広がる森とは対照的なそれらに釘付けになるシェラに、アザミはくすくすと笑う。
しかし、すぐに笑みを消すと、棒立ちになっているシェラに襤褸布を被せ直し、周りから見えないようにしっかりと顔を隠させた。
「…ほら、行こう。絶対に顔と耳を見せちゃダメだからね」
「? …うん」
急に冷たく堅い口調になる、同じく襤褸布で姿を隠すアザミ。
急に変化した彼女を訝しげに見つめていたシェラは、慌ててその後を追いかけ、町に続く坂道を下りていった。